12話―3
文字数 3,277文字
ギールは無駄な残業を許さない質であり、社員は既に出払っている。セドックが猛獣の給餌ついでに十時頃まで残っているはずだが、今日はもう済ませて帰ったのか、事務室の照明も消えていた。
ラッシュは獣舎に向かい、ドアノブに手をかける。しかし、鍵がかかっていて開けられない。ギールの自宅でもある獣舎は、夜間でも施錠されていないはずだ。ラッシュは不審に思い、社員証を使って社屋のセキュリティを解除し、事務室で鍵束を拝借する。再び獣舎に戻り、どの鍵か分からず四苦八苦しながら開錠した。
通い慣れた檻の道は、何故か緊張感が漂っていた。普段通る度に威嚇する猛獣達も、今日は妙におとなしい。ギールの部屋まで辿り着いたが、その扉もまた、鍵がかかっていた。
「なんだよ、気味が悪ぃなぁ」
発した文句は可笑しいくらい震えていた。この部屋は、内側から施錠出来ないはずなのだ。
ギールが部屋にいるとしたら誰が、何故、鍵をかけたのだろう。ラッシュは恐怖を感じながらも、鍵束から該当する鍵を探し当てる。重々しい金属の扉を開けた途端、獣の匂いが外に漏れ出した。
「なっ、……しゃ、社長⁉」
ラッシュは目の前の光景に絶句する。全裸の状態のギールが、壁に張りつけられていたのだ。
慌てて駆け寄ると、彼はまるで猛獣のように吠え、嚙みつこうとした。ラッシュは咄嗟に身を引いて立ちすくむ。身体を拘束されたギールは、RC本社の地下室で見た『蝶』の姿と重なって見えた。
「待ってろ、今外してやるからな!」
拘束具には鍵穴がついている。ラッシュは鍵束を握り締め、再度彼に立ち向かった。
右足、左足を解放する。自由になった足で蹴られるが、怯んではいられない。左手を解放する。立たせた髪をぐしゃぐしゃに掴まれ、そのまま振り回される。そして抵抗しながら右手を解放すると、ギールは自分に容赦なく襲いかかった。
床に叩きつけられ、全身に激痛が走る。鋭い爪が身体に喰いこみ、衣服は簡単に引き裂かれてしまった。
「なぁ社長。俺が分からないのかよ? 頼むから、目を覚ましてくれよ……」
震える声で必死に呼びかけても、その深緑色の瞳は濁ったまま。ギールは苦しげに咆哮し、ラッシュの首筋に喰らいついた。
自分の金切声が獣舎にこだまする。窓から見えた満月は異様に大きく、獣となったギールを煌々と照らしている。その姿は、まるで『狼男』のようだった。
俺、やっぱり殺されるのかよ。意識が飛ぶ瞬間、ラッシュは他人事のように思った。
――
壮絶な痛みが全身を突き抜け、ラッシュは飛び起きた。外の景色は既に明るい。疲れ果てたセドックと目が合い、「まだ手当ての途中だから」と、ゆっくり押し戻された。
ラッシュは自身の状態を見て唖然とする。何も着ていない身体はどこもかしこも血塗れだった。未処理の傷口に消毒液を吹きかけられ、ラッシュは「ひえっ」と顔を歪ませた。
その反動でやつれたギールの姿が視界に映り、ラッシュは再度飛び起きた。
「社長、正気に戻ったんだな!」
ギールはこちらをギロリと睨み、ラッシュの額を指で弾き飛ばした。
「いってぇ! 何すんだよ?」
「この命知らずめ。絶対来るなって言ったはずだろうが!」
額を手で擦りながら、「だって我慢できなかったし」と小言を垂れる。セドックはラッシュの身体に包帯を巻きつけながら、呆れたように笑った。
「もうちょっと説明しといた方が良かったかもね。ラッシュ、社長はね、満月の夜は暴走しちゃうんだ。被害が出ないように、一晩中繋がないといけないんだよ」
ラッシュは昨晩の様子を思い出す。普段開けっ放しの獣舎、そしてこの部屋は厳重に施錠され、更にギールは両手、両足共に繋がれていた。ということは、彼を封じたのはセドックなのか。
「でもよ副社長、壁に張りつけるのはさすがに……」
「俺様がそう命令したんだよ」
ギールはラッシュの言葉を遮り、気怠げに髪を掻き乱す。よく見ると、彼の身体にも怪我の痕跡があった。
「暴走っていうレベルじゃねえ、周りどころか自分でさえ攻撃対象だ。理性なんか吹っ飛んでクソだって垂れ流す。満月の夜、俺様は……『狼』は、本物の獣になっちまうんだよ」
傲慢な肉食獣のような彼は、自分自身を罵倒する。ラッシュはその『狼』のような肉体が、精神が、羨ましいと思っていた。だが、ギールにとってはコンプレックス以外の何ものでもなかったのか。
「狼男みたいでかっけーじゃん?」
「はぁ?」
「俺なんていくら頑張ってもチビのままなんだぜ? 社長みたいな筋肉野郎の方が見た目だっていいだろ!」
正直な言葉で励ましたつもりだが、ギールはカッと憤り、ラッシュを一発殴りつける。セドックは呑気に笑い、二人の間に割って入った。
「まぁ、今回はこれくらいで済んで良かったよね。ラッシュじゃなかったらたぶん、殺されてた訳だし」
意味が分からず、疑問符を頭に浮かべる。しかし下半身がズキリと疼き、『何故殺されなかったのか』察してしまった。ギールは照れ臭そうに「けっ」とそっぽを向いている。ラッシュは一気に赤面し、両手で股間を隠した。
満月の夜、『狼』の人間性は僅かながらも残っていた。身体から始まった関係は少しずつ形を変え、いつしか、二人の心を結んだのだ。
セドックはにやにやと笑いつつ、消毒液のボトルを再び持つ。ラッシュが激痛に泣き叫ぶ度に、ギールの背中は不自然に震えるのだった。
――
満月の夜から一ヶ月が過ぎる。ラッシュの怪我は早々に完治し、ギールとの逢瀬も再開した。
あの一件以来、ギールはラッシュに対して(三パーセントほど)優しく扱うようになり、殴られる回数も(一日当たり十回から八回まで)減った。周りからの扱いは相変わらず酷かったが、嘲笑されることはなくなったように思う。
二人の関係は全社員にばれており、彼らが仕事中にも関わらず痴話喧嘩を繰り広げる様子には「また始まったか」と呆れるほどである。ラッシュはもはや『親会社からの
「おうラッシュ。そろそろRCなんか辞めて、こっちに来いよ。あんな会社にいたってつまんねえだろ?」
時刻は定時過ぎ。事務室でタイムカードを打刻した瞬間、ギールに声をかけられる。彼はサリディナの席に腰かけ、偉そうにこちらを見下ろしていた。あからさまに大きな溜息をつき、サリディナはたしなめるように言葉を吐いた。
「社長。仕事もろくに出来ない雑魚を引き抜いても、メリットなどありませんよ」
「まぁまぁ、仕事はろくに出来ないけどメリットはあるよ。最近の社長、あんまり怒鳴らなくなったじゃない?」
セドックの指摘に、サリディナは猛獣に差し出された肉の塊を見るような目で「そうですね」と、こちらを見た。
「なんだよ、これでも頑張ってんだぜ?」
「努力する前にその言葉遣い、何とかならないのか。せめて敬語ぐらいは使えるようにしないと出張の際、社長にご迷惑がかかるぞ」
彼女の真っ当な指摘に、ラッシュは「すんませんっした」と口を尖らせた。
「書類は用意しておくぜ。それまでに腹決めておけよ!」
「はいはい、分かりましたよ。お疲れっしたー!」
ギールの呼びかけを適当に流し、ラッシュはそそくさと退室する。「そんじゃ、また今晩な!」という声が聞こえ、右手をひらひらと振り返した。
廊下を早足で進みながら、ぼんやりと考える。視察部は全世界への出張があるが、どの地域でも似たような日常が繰り返されるのみ。それに比べて、この会社は毎日が混沌としており、忙しないが充実している。
「こっちの方が、退屈しねーよな」
言われる前から、腹の中は決まっていた。自分を見出してくれた『狼』の下で、生き直してみたかったのだ。
もしかしたら役員まで出世するかもしれない、と妄想しつつ、ラッシュは帰路につくのだった。
Ever green rushers
(雑魚と野獣)
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