15話―3
文字数 4,790文字
休憩が終わり、子供達はフィードを連れて再び外に飛び出した。ナトも誘われたが、どうしてもチェスカに聞きたいことがあり、車内に残ったのである。
彼は洗い物の手を止めずに「どうしました?」と返す。だが、ここには窓の外を眺めながら絵と向き合うラウロもいる。自分の目線に気づいたのか、チェスカは「もうすぐ終わりますからね」と作業の手を速めた。
マグカップを手分けして戸棚に戻し、二人は誰もいない女子部屋に入る。窓際の席に腰かけると、外の喧騒がくぐもって聞こえた。
「ナト、私に聞きたいことがあるのでしょう? ここなら誰の耳にも入りません。安心して、話してみてください」
要件は伝えていないが、『父』にはお見通しだったようだ。ナトは勇気を出して、口を開く。
「前から気になってたんです。チェスカさんは[オリヂナル]の追跡に積極的ではなかった。それどころか、隙をついて逃がそうとしました。最初はナタルさんのためかと思いましたが、もしかして、ラウロさんのためではないでしょうか。何故そこまで肩入れするのか、教えていただきたいです」
チェスカはしばらく黙っていたが、不意に表情を和らげた。
「貴方は本当に、賢い子ですね。この手の話はまだ早いと思いますが、正直に白状するとしましょう。少々長い話になります。つき合っていただけますか?」
彼が事実を伏せる時は、決まって心が痛む話になる。だが、ナトは重く頷いた。どんなに辛くても、事実を知りたいのだ。チェスカは椅子にもたれかかり、昔話を語り出した。
ラウロは以前、身体を売る仕事をしていた。だがフィードを相手した際本社に監禁され、光の届かない地下室で三年間、不特定多数の社員に暴行され続けたという。チェスカが彼と出会ったのはその時であり、哀れに思ったことから、身の回りの世話を始めたのだ。
しかしラウロは忽然と姿を消した。捜索の末に[オリヂナル]にいることが分かり、フィードは彼を誘拐し自室に閉じこめた。だが約一ヶ月後、本社に侵入したナタルに襲撃され、ラウロは再び逃走した。ナトがチェスカの『娘』になった時には既に、一連の事件の最中だったという。
その後の展開はナトも知っている。ラウロはフィードに捕らわれることなく、紆余曲折の末、この地で和解したのだ。
「経緯は分かりましたが、何故、お二人は和解したのでしょう?」
理由が分からず頭を抱える。チェスカは「『愛』ですよ」と呟き、言葉を続ける。
「ラウロさんもチーフも、長い間互いへの『愛』に気づきませんでした。ですが旅を経て、ようやく結ばれたのです」
「『愛』、ですか……」
書斎の本は読み尽くしたが、『愛』に関する文献はなかった。どのような意味、どのような感情なのだろうか。疑問に思っていると、チェスカは寂しげに微笑んだ。
「貴方のような我が子を大切に想う気持ちも『愛』ですが、それとはまた違った意味ですね。説明するのは難しいのですが、いずれ、貴方も経験すると思いますよ」
「ということは、チェスカさんも経験したことがあるのですか?」
「えぇ。ラウロさんを見た瞬間、はっきりと分かりました」
ナトは絶句する。チェスカはほんのりと頬を赤く染め、気まずそうに話を進めた。
「身体の中に雷が落ちたような感覚は、今でも忘れられません。壊したいほどの衝動に駆られましたが、欲望に負ける訳にはいかなかった……私は、彼の苦しみも痛みも、全て知っているから」
チェスカは自分から目を逸らし、俯く。そして、まるで独り言のように、ぽつりぽつりと声を絞り出した。
「子供の頃、『髪の色が女みたい』という理由だけでからかわれてきた。同じ色を持つ父は黒く染めていたけれど、私は学校の規則で染められず、刈り上げて帽子を被ることで他人にも、自分にも見せないようにした。でも一人だけ、自分の色を褒めてくれた人がいた。中学時代の同級生だった」
可憐な花を思わせる薄桃色。束ねた長い髪は、さらりと肩を流れ落ちる。
「『君の色はきっと、伸ばした方が似合うよ』。そう言ってくれたのが嬉しくて、私は髪を伸ばし始めた。長くなるにつれて、からかわれることも減った。私は彼に感謝したし、良い友人だと思っていた……あの時までは」
語尾が震える。チェスカは一瞬声を詰まらせ、悲痛な声で続ける。
「彼は『抱かせてくれ』と言って、私を襲った。髪を伸ばすよう勧めたのは、自分好みに仕立てるため。私は抵抗出来なかった。それを肯定と捉えたのか、彼はその後も度々誘ってきた。断ろうと思えば断れた、でも、どんなに辛く苦しくても、私は断らなかった……あの感覚が忘れられなかったから」
彼の言う『その単語』の意味は分からない。だが、同意無しにしてはならないこと、だと理解出来た。チェスカは忌々しい物を触るように、自身の髪を一房掴む。
「中学卒業を期に、彼とは縁が切れた。髪を染めることも切ることも考えたけれど、どうしても、手をつけられなかった。だからその後も別の人に言い寄られ、時には襲われて、自分自身のことなどもう、どうでもよくなった」
チェスカは何故、自分に『男の子』のふりを指示したのか。ナトはその理由が分かってしまった。『女の子』というだけで、危険な目に遭う可能性が増えてしまうのだ。もし自分が『男の子』にならなかったら、彼のような被害に遭っていたかもしれない。
しばらく沈黙が流れた後、チェスカは顔を上げる。絶望に彩られた瞳の中に、僅かな光が見えた。
「……ですが、ラウロさんと出会ったことで、目が覚めました。こんなことがあっていいはずがない。私は、何とか彼を助けられないか、模索し続けました。二度目の監禁の際、ラウロさんとチーフの間に『愛』があるのかもしれないと気づき、もしかしたら気づかせることが出来るのではないか、と思いつきました」
チェスカは本社に侵入したナタルにも、ラウロにもフィードの変化を伝え、彼を救うよう頼んだ。ナトも同行した追跡時に襲撃の機会があったそうだが、『ここは捕えず油断させましょう』と提案したことで難を逃れたという。セントブロード孤児院周辺の騒動は予想外だったが、運良くフィードが体調を崩したおかげで、逃走に介入出来た訳だ。
[家族]はその後クィン島、フィロ島を縦断したが、その間フィードの心情は大きく変化していた。彼らは共にいくつかの事件に巻きこまれたらしいが、それを乗り越え、フィードはようやく『愛』を理解したのだった。
「チェスカさんは、それでいいのですか?」
ナトは、理由の分からない悔しさに拳を握り締める。彼は『愛』を抱いた相手のために奔走したというのに、見返りがないではないか。チェスカは席を立ち、ナトの横に跪く。彼は冷たくなった指先で、自分の頬に触れてきた。
「もちろんです。ラウロさんだけでなく、チーフやお嬢様、そして貴方。大切な方々の幸せが、私にとっての幸せですから」
溢れ出る涙に邪魔され、笑顔を直視出来ない。『父』はどこまでも、『自分自身のことはどうでもいい』と思っているのだ。
ナトは腕で涙を拭い、チェスカを抱きしめた。泣きじゃくる自分を慰めるように、優しく背を摩られる。「慰めたいのは僕の方なのに」と心の中で吐き捨て、ナトは長い間、彼の胸の中に埋まっていた。
――
数日後、フィードの怪我が完治した。ナト達は[家族]と別れ、RC本社に帰還する。家に戻るのは一ヶ月ぶりだ。つい先日まで寒さに震えていたのに、季節はもう夏。窓も閉め切っていたため、部屋全体に熱い空気が充満していた。
チェスカは荷物を床に置き、窓を全開にする。ナトは自分のリュックを開け、荷物整理を始めた。
「いただいたお洋服は、皴が寄らないようクローゼットにかけておきますね」
「はいっ、ありがとうございます」
丁寧に畳まれたワンピースを数着スーツケースから出し、チェスカは寝室へ向かう。モレノの妹、ミックのお下がり達だ。
彼女からは、綺麗な宝石のブローチやネックレスも譲り受けている。また、ナタルは『私の部屋にあった物は、自由に使って!』と言ってくれた。二人からの贈り物も、[家族]との思い出も全て、大切な宝物になるだろう。
そういえば、写真で見たナタルの姿は『男の子』だったが、フィロ島で会った時は『女の子』に戻っていた。肩より少し長いストレートの金髪に、リボンなどの装飾のついた可愛らしい服装(戦いやすさを重視したパンツスタイルだったが)。ナタルの姿は、アルバムで見た『社長令嬢』そのものだった。
「チェスカさん、ちょっといいですか」
ナトは片づけを中断し、寝室に入る。彼は手を止め、「どうしました」と振り向いた。
「この旅でようやく、自分のやるべきことが分かったんです。聞いてくれませんか?」
「そうですか……分かりました。しかと聞きましょう」
チェスカはベッドに腰かける。ナトは隣に座り、彼を真っ直ぐ見上げた。
「チェスカさんの力になりたくて、今までたくさんの本を読んで勉強したつもりでした。でも[家族]の皆さんと出会って、僕は何にも知らなかった、と気づいたのです。世界には素晴らしい場所が無数にあること、心優しい人もいること、『愛』だってそうです。僕がチェスカさんを助けたいこの気持ちも、『愛』の一種なんだと思います」
『父』の想い、壮絶な過去を聞いた時から、『愛』とは何かを考え続けてきた。互いに支え合う夫婦、妹に煩わしく構う兄、犬を毛づくろいする猿、そして何気ない会話を交わす追跡者と獲物。他者を大切に想う気持ちこそが『愛』の本質であり、見返りの有無など関係ないのだろう。
「僕はあなたの『娘』ですが、元々は無力な孤児です。[家族]の皆さんもそうだったと聞きましたが、彼らは『先生』という方に教わったおかげで、様々なことを知っているんだと思います。なので、僕も彼らのように、セントブロード孤児院で学んでみたい。そして、将来はRC社員になって、チェスカさんを支えていきたいです」
彼は口を結び、黙って聞いている。ナトは次第に潤み出す瞳を見て声を詰まらせ、震えながらも言葉を続ける。
「あなたがご自身より他人を優先する方なのは分かっています。でも、これからは、ご自身のために生きてください。僕はチェスカさんにも……いえ。お父さんにも、幸せになってほしいです!」
灰白色の瞳が震え、涙が零れる。チェスカはそれを拭うことなく、自分を強く抱きしめた。
「ありがとう、ナト。貴方は本当に賢く、立派になりましたね。いきなりは難しそうですが、今後自分がどうなりたいか、少しずつ考えてみます。……ですが、ひとつだけお願いがあります」
彼は体を離し、自分の肩をがっしり掴む。その表情は涙に濡れながらも、何故か不安一色に染まっていた。
「セントブロード孤児院への入学自体は大賛成ですが、もう少しだけ、待ってください」
「えっ、な、何故ですか?」
チェスカは立ち上がり、壁に沿って家中を一周する。この行動には見覚えがあった。彼は、盗聴器が隠されていないか確認しているのだ。
「盗聴器はないようですね。……いいですかナト。これから話すことは誰にも、チーフにも知られてはいけません。もし情報が漏れてしまったら、私達は、無事ではいられないでしょう」
ナトは戦慄する。彼とはこれまでに、何度も秘密を共有してきた。しかし此度の件は間違いなく、最も深刻な内容になるだろう。
チェスカはナトの耳元で詳細を語り出す。何故、ナタルが[オリヂナル]に身を寄せているのか。それは長い間気になっていた問題の答えであり、自分達だけでなく、[家族]やフィードにも危機が及ぶかもしれない事案に繋がっていた。
Parent and child makes both happy
(似た者親子が、『親子』になるまで)
(ログインが必要です)