――物凄い勢いで犬が、遠くから……
文字数 6,077文字
物凄い勢いで犬が、遠くから走って来るのがポワールには良く観えた。
「オランジェ。《ジゼル》をお願い。辛気臭い踊り で、送ってやるわ」
「判りました。お母さん」
オランジェは、ジゼルになる……悲恋ゆえに沼の底に囚われ、水の妖精と化した少女。
ポワールが薄水色のコートを羽織る。袖は通さずに、腕を軽く組んだ。
犬が走りこみざま人の形象に変じた。ロングコートとダークスーツの、大柄の女。しかし、髪が長い。ベリーショートではない。艶やかな栗色の、少しウェーブがかった髪が長い。臀部の服を透き通ってふさふさの犬の尾も伸びている。
犬と人との中間の姿、犬の感覚と人の技術を同時に行使できる犬人の姿だ。
走る速度が死なずに道路上を滑走する。瞬間の出来事だった。その左手には、単銃身ソウドオフのショットガン《野性の呼び声 が握られていて――。
レバーに指を通したまま《野性の呼び声》をぐるりと一回転させて散弾を装填、何の迷いもなく撃ち放した。
怒号の如く炸薬が弾け、銃口から散弾が咆哮のように迸り出る。
高速の十二番ゲージ00バック散弾 がポワールの顔面を粉々に砕くと思えた瞬間。
コートの裾が翻り、高い圧を持った水のように一粒も漏らさず散弾を受け止めていた。
コートの挙動、振る舞いは、まるで危機を的確に回避する魚のように滑らかだ。
ぐるり、と回して次弾を装填、滑りながら尚も撃つ。
生きているかのようにコートが尚も直径八・四ミリの鉛の粒を余さず受け止める。
魔法のコートは論理 そのもの。生物の反射機能を論理化し、オランジェから供給される魔力を加工して、自律運動するコートとして編み上げ纏う、ポワール絶対の防御策。
ぐるりと、カラントがまだ回す、左手一本でショットガンを操りながら、右手をコートの内側に素早く走らせる、ずらりと刃を抜いた。《白い牙 、シトロンのもう一本の牙、鉈のようにかさねの分厚いサーベルだった。
シトロンはもう、ポワールと一瞬の後には密着する程の極接近距離まで滑り込んでいた。左手で撃つ、右手で斬りかかる、同時に行う。波打つ茶色の髪が膨らむように動いた。
青いコートの裾の半分が不定形のアメーバのように広がって、弾を受け止める。そして、反対側のもう半分の裾が翻り、サーベルと克ち合った。
シトロンは弾かれる白刃を力強い後背筋の膂力で押さえこんで斬り結びながら、そこを接点に体を回転する。後ろを見せる事なく、後ずさりながら滑って距離を取る格好。銃口を狙い違わずポワールの顔面に向け――。
ニヤ、とポワールが魔性の笑みを浮かべて指先を躍らせた。
ミリメートル以下の領域での指の運動。それは精緻に人形 を操る、人形廻しの芸能 。
直径一ミリメートル以下の極めて小さな、しかし高い水圧で圧縮された重たい水弾が、機関銃のようにコートの表面から迸ってシトロンに殺到する。飽和攻撃、回避も迎撃も難しい密度の射撃。シトロンは射撃に執着せず犬に変じて投影面積を減らすと、大気を揺らす水の勢いを察知して、身を躍らせて水弾の嵐を避け切った。
水弾は雑居ビルの壁に浅い角度で突入し、跳弾しながら圧を失って膨らんで道路に降った。ちょっとした洪水を路地に溢れさせる。
ポワールの足首まで、水がざぶん、と被った。
青いコートから、受け止めた鉛の粒をちゃぷちゃぷと落とす。
水に足首を浸して、オランジェが踊る。声もなく。クラシックバレエは科白がない。
「花の匂いに惹かれたのね」
力をためる犬の前傾姿勢で、ポワールと正対し唸りを上げていたシトロンは、犬人に変じ、ショットガンとサーベルをコートの内に仕舞っていた。
「カラントをやったか」
チョーカーに巻かれているリボンを解いて、後ろ髪を一本に束ねてしっかりと結ぶ。
シトロンは、受け取った想いを、決意とともに長い髪に結び付ける。
「ええ。殺す価値もなかったから、可愛らしいシャム猫にしてあげたわ。今頃この水に驚いている事でしょうよ」
「済まなかったな。《魔女の森》も人手不足だ。お前が追手を確実に殺していくものだから、訓練の足りない小娘の動員も止むを得ない。生きていれば、いつか回収も叶うだろう」
「そうかしら。アタシ、あの娘に消えないトラウマを与えちゃったかもねー」
「魔道に生きる女は、一生闇の中だ。猫になっても、魔女は魔女だ」
「騎士様が魔女にお説教? そーゆーのこの国じゃ《ブッダに教えを説く》って言うのよ」
「《釈迦に説法》だ。慣用句は、簡潔に言え」
「知ってるわよ。それぐらい」
くすくす、とポワールが笑う。
シトロンは、笑わずに。
「やはり、生きていたか」
「街中で鉄砲 ぶっ放して、殺しにかかって言うセリフ?」
「きちんと殺してやる。お前を探して夕べから寝不足だ。今晩はぐっすり眠らせて貰うさ」
「断眠ハイのところザンネンだけど、アタシはもう死んだの」
ぬけぬけと、ポワールは楽しそうに言った。
古い友に、語りかけるようでもあった。
「ショットガンの弾って、熱くって、痛かったわ。散弾ですものね、お腹の中がぐっちゃぐちゃ。性的暴行をうんと酷くしたような、気分だった」
シトロンに犯されたようなものね、と妖しく笑う。
「なのに、シトロンはアタシを探し続けた。信じられなかったんでしょ? アタシから詰 を取って長年の因縁に決着をつけた事が。そうよね?」
「……うるさい」
「だってシトロンは、アタシを探す事が生きがいになってるものね? アタシを殺した後の事なんて、なーんにも、考えつかなくって、どうしたらいいのか判らないから、みつからない死体を探してうろうろうろうろ、この街を彷徨っていたんでしょう? ああ、アタシってば負けたのにすっごく、気分が良い。イイ気味だわ。何の魔法も使っていないのに、シトロンを呪う事が出来たなんて、気分爽快、最高よねー」
「黙れ!」
シトロンは《野性の呼び声》を抜き様に一回転、散弾を装填した。
突き付ける。
ポワールは、ああ、怖い、怖い、と歌う。
「また、その硬くて太いもので、アタシを犯すの? 男の子になりたかったのよね? そんな物騒なものをぶら下げて、騎士様気取りですものね」
「……お前がその魂で取り込んだ少年を返して貰う。どんな魔法を使ったか知らんが、常民にいたずらな干渉とは見下げ果てたぞ」
ポワールは、ニヤ、と笑う。
「答え合わせをしましょうか。貴女の間違い、落第よ。アタシは妖精に生まれ変わったの」
「……なんだと?」
シトロンの動かない表情の奥に、微かにでも疑念が動いた。取り込んだんじゃないの、とポワールは愛おしそうに続けた。
「受け容れてもらったの。優しい、ミコサンのような男の子にね。撃ってごらんなさいよ。貴女の言う、罪のない常民の男の子が死ぬわよ? 出来ないわよね? アタシの若い頃の姿を観たからって、ついカッとなって三発も撃っちゃったのよね? 騎士様が聞いて呆れるわ。結局、貴女には暴力しかないのよ。手段と目的が転倒しておいて、騎士様ですって? 笑っちゃう、ウケるわ、最高!」
身をよじってポワールは笑った。爆発する狂気のような高い哄笑にシトロンは、
「たった一人の死の腹いせに、五〇〇人の魔女を殺したお前に言われたくない!」
「ぶっぶーっ! 五三二人でーす! 殺した数くらい数えてるわよ、いつ《魔女の森》の五年前の総数、八一〇六人に届くか楽しみで仕方がないんですものね!」
笑ってなどいなかったかのような形相で、ポワールがシトロンを睨んだ。
「たった一人の死ですって? 命がお安い事で。そうよ、仕事とあらば何人だって、誰だって殺した。アタシは手段だった。《魔女の森》の、とびっきりの手段だった。貴女と弟がいれば、アタシはアタシが何だって良かったのよ。誰かのための手段で良かった……でももう、願い下げよ。貴女が弟を愛してなかったのが、やっぱり判ったもの。たった一人の死ですものね。数になっちゃうのよね。アタシは違う、弟は、ヴァニラは数に還元出来ない、数量ではない、論理 に組み込むのも嫌。アタシの全てよ!」
足元の水が引かない事に、シトロンは気付くべきだったと悔いた。水が引かないのなら、水を操っている以外に理由はないのだ。
水が、うねって急激に水位が下がるや否や、軟体生物の触手のように高速で伸びた。
打ち振られ、横ざまに殴りつけるようにシトロンに襲いかかる、太い柱のような水。シトロンは、撃った。目くらましになればいいとばかりに。勿論ポワールはコートでこれを受ける。そして、ポワールの注意が逸れた。犬に瞬間的に変じて水の一撃を頭上にやり過ごし、雑居ビルの壁に水がぶち当たって弾ける前に、シトロンは犬のまま走り出した。
「アタシは自分の肉親が可愛い、故に魔女を殺す!」
砕けた水が路地に降りしきる。走り、いったん距離を取る、逃げると見せてターン、まっしぐらに勢いをつけてポワールへと駆け走る。
「例え、それがもう思い出だけになってしまっていても!」
コートから水弾がまたしても放たれる。真っ直ぐ行く、十発二十発の被弾は覚悟する、牙が届けば命も要らない、前足に、顔に、水弾が掠って肉を抉 り毛を千切る、勢いが死なないように、前足後ろ脚に力を込めてアスファルトを疾駆する。
「八一〇六人もの無敵の魔女の屍を積み上げて、たった一人の命がどれほど高くつくか教えてやる! 別に七十億人だっていいのよ、数じゃなくて心なんだから!」
復讐を叫ぶポワールの喉元に喰らいつこうと、飛びかかる。
ヴァニラ、導いてくれ、そう念じてシトロンはその口腔を大きく開き牙を光らせた。
「貴女は五三三人目の生け贄よ!」
剥き出しの怒りを迸らせるポワールは、しかし何故か、体を引いた。
シトロンにも、それは意外な反応だった。
犬から犬人に形象を変じて、速度はそのまま質量を増して体当たりを仕掛けた。
ポワールの頭から、三角帽子が跳ね飛んだ。
簡単に、両者がぶつかった。
シトロンは、ポワールを、押し倒していた。
何が起こったのか、シトロンにも、ポワールにも、まるで理解が出来ない。
ポワールは、何故逃げようとしたのか判らなかった。
シトロンは、決して逃げないだろうポワールと相打ち覚悟で死ぬつもりだった。
水に濡れた女二人が、驚愕の表情でお互いの見開かれた眼を、覗き込んでいた。
シトロンが体を起こす。シトロンに組み敷かれたポワールが、身をよじって逃れようとする。シトロンは、容赦なくその肩口を思い切り、踏みつけた。
「――っ!」
鎖骨でも折れたかも知れない、太く熱い痛覚にポワールが声と息を詰まらせる。
「――お母さん!」
舞踏を思わずかなぐり捨てて声を上げるオランジェを無視して、シトロンが息を取る。
ポワールが魔法で作る青いコートが解けていく、シトロンは《野性の呼び声》を抜き、一回転して散弾を装填した。
「……答え合わせをしよう。お前は間違えた。落第だ」
シトロンの中に、哀れみと理解が広がって行く。
ライフル螺旋のない、散弾銃特有のぽっかりと深く暗い銃口を、歯を食いしばって痛みに呻くポワールの顔面に擬した。
オランジェは、動けなくなる。
弔辞のように、シトロンは語る。
「私は、お前の恐ろしさを知っている。強さの理由を知っている……お前は、五年前に死んでいたんだ。お前は生きていない。生きて守る者が何もない。だから我が身も顧みず戦える。戦う理由は死んだヴァニラのためにある。生きて掴む明日が無い、死者の待つ過去しかない、生きる理由が無いんだ。お前は死人と同じだった。五年間もな……誰も死人を殺せないよ」
「嘘よ、弟が死んでも、アタシにはオランジェがいるわ。この娘はアタシの娘よ!」
ポワールの抗弁を、シトロンは尚も一蹴する。
「違う。娘は母のもとから巣立つ。お前はその時を、ずっと待っていた。そして現に、独立しかけている。妖精になったお前が、どうしてオランジェの存在を、妖精の魂を承認出来る? 妖精を認められるのは人だけだ。この娘は、もう誰にも依存する必要のない、人間になりかけている。だから、ひとりでも動いていられた。お前はオランジェを導きこそすれ、命を賭して守った事は一度もない」
シトロンは、駄目を押す。
「お前は命を惜しんだ。少年の命を……守る命を得たんだ」
裏切らないと信じた死者が、ついに命を得て裏切った。
シトロンは、犬の神様への祈りとともに、銃口をポワールの額にそっと、当てた。
「生きているお前は、今までのように全てを捨てて魔女を殺し続けられない。私でなくても、いずれ誰かの手にかかる……さらばだ」
――私のかつての主よ。
シトロンは弔辞を結んで、引き金を絞る。
「――あの。ちょっと、いいですか?」
ポワールの声で、寿郎が口を利いた。
「……え?」
ポワールの声が、戸惑った。
「……何の真似だ」
引き金にかかっているシトロンの指も固まる。
「いや、今のはアタシじゃなくて、アレ? ちょっと、ねえ? ――ちょっともねえも何もありませんよ。そんな大声でガンガン怒鳴りあって、眼ぐらい醒めますよ――いつから?」
「いつからだ!」
銃口を突き付けたままシトロンが怒鳴る。
寿郎は、ポワールの声で、拗ねたように、
「……釈迦に説法のあたりから」
そんな事言ったっけと、頭に血が上っていたポワールとシトロンは同時に困惑した。
加えてポワールは、自分がミスを犯したと知った。今日書き出した、ふたりにとってのルールの裏を掻く? なるほど、お互いは同じ体でも、片方だけ眠る事が出来る。
しかし、誰だって、うるさいと眠っていられず、目を醒ます。
その当たり前の前提を、ポワールは失念していた。
言葉の糸を紡ぎ、張り巡らせた思惑が、崩壊した。
「足、痛いんでどけて下さい」
シトロンは、後ずさるようにポワールから離れた。いや、もうポワールの体ではない。
「細かい経緯は良く判らないんですけど……」
声が、寿郎の声に戻って行く。
ポワールの甘いアルトから、メッツォになってしまった女の子の寿郎の声に移り、そして男の子の頃のテノールとアルトの中間のような声へと、更にと。
まるで、悪い魔法使いに施された魔法が、解けていくように。
ずぶ濡れになってしまった体を起こして立ち上がる。一言。
「やっぱり、ジゼルみたいですね」
シトロンは思わず匂いを嗅いで確かめた。
黒い髪の少年が、立っている。
甘酸っぱくない匂いを漂わせて、スカートをはいた、少年がいる。
「オランジェ。《ジゼル》をお願い。辛気臭い
「判りました。お母さん」
オランジェは、ジゼルになる……悲恋ゆえに沼の底に囚われ、水の妖精と化した少女。
ポワールが薄水色のコートを羽織る。袖は通さずに、腕を軽く組んだ。
犬が走りこみざま人の形象に変じた。ロングコートとダークスーツの、大柄の女。しかし、髪が長い。ベリーショートではない。艶やかな栗色の、少しウェーブがかった髪が長い。臀部の服を透き通ってふさふさの犬の尾も伸びている。
犬と人との中間の姿、犬の感覚と人の技術を同時に行使できる犬人の姿だ。
走る速度が死なずに道路上を滑走する。瞬間の出来事だった。その左手には、単銃身ソウドオフのショットガン《
レバーに指を通したまま《野性の呼び声》をぐるりと一回転させて散弾を装填、何の迷いもなく撃ち放した。
怒号の如く炸薬が弾け、銃口から散弾が咆哮のように迸り出る。
高速の十二番ゲージ00バック
コートの裾が翻り、高い圧を持った水のように一粒も漏らさず散弾を受け止めていた。
コートの挙動、振る舞いは、まるで危機を的確に回避する魚のように滑らかだ。
ぐるり、と回して次弾を装填、滑りながら尚も撃つ。
生きているかのようにコートが尚も直径八・四ミリの鉛の粒を余さず受け止める。
魔法のコートは
ぐるりと、カラントがまだ回す、左手一本でショットガンを操りながら、右手をコートの内側に素早く走らせる、ずらりと刃を抜いた。《
シトロンはもう、ポワールと一瞬の後には密着する程の極接近距離まで滑り込んでいた。左手で撃つ、右手で斬りかかる、同時に行う。波打つ茶色の髪が膨らむように動いた。
青いコートの裾の半分が不定形のアメーバのように広がって、弾を受け止める。そして、反対側のもう半分の裾が翻り、サーベルと克ち合った。
シトロンは弾かれる白刃を力強い後背筋の膂力で押さえこんで斬り結びながら、そこを接点に体を回転する。後ろを見せる事なく、後ずさりながら滑って距離を取る格好。銃口を狙い違わずポワールの顔面に向け――。
ニヤ、とポワールが魔性の笑みを浮かべて指先を躍らせた。
ミリメートル以下の領域での指の運動。それは精緻に
直径一ミリメートル以下の極めて小さな、しかし高い水圧で圧縮された重たい水弾が、機関銃のようにコートの表面から迸ってシトロンに殺到する。飽和攻撃、回避も迎撃も難しい密度の射撃。シトロンは射撃に執着せず犬に変じて投影面積を減らすと、大気を揺らす水の勢いを察知して、身を躍らせて水弾の嵐を避け切った。
水弾は雑居ビルの壁に浅い角度で突入し、跳弾しながら圧を失って膨らんで道路に降った。ちょっとした洪水を路地に溢れさせる。
ポワールの足首まで、水がざぶん、と被った。
青いコートから、受け止めた鉛の粒をちゃぷちゃぷと落とす。
水に足首を浸して、オランジェが踊る。声もなく。クラシックバレエは科白がない。
「花の匂いに惹かれたのね」
力をためる犬の前傾姿勢で、ポワールと正対し唸りを上げていたシトロンは、犬人に変じ、ショットガンとサーベルをコートの内に仕舞っていた。
「カラントをやったか」
チョーカーに巻かれているリボンを解いて、後ろ髪を一本に束ねてしっかりと結ぶ。
シトロンは、受け取った想いを、決意とともに長い髪に結び付ける。
「ええ。殺す価値もなかったから、可愛らしいシャム猫にしてあげたわ。今頃この水に驚いている事でしょうよ」
「済まなかったな。《魔女の森》も人手不足だ。お前が追手を確実に殺していくものだから、訓練の足りない小娘の動員も止むを得ない。生きていれば、いつか回収も叶うだろう」
「そうかしら。アタシ、あの娘に消えないトラウマを与えちゃったかもねー」
「魔道に生きる女は、一生闇の中だ。猫になっても、魔女は魔女だ」
「騎士様が魔女にお説教? そーゆーのこの国じゃ《ブッダに教えを説く》って言うのよ」
「《釈迦に説法》だ。慣用句は、簡潔に言え」
「知ってるわよ。それぐらい」
くすくす、とポワールが笑う。
シトロンは、笑わずに。
「やはり、生きていたか」
「街中で
「きちんと殺してやる。お前を探して夕べから寝不足だ。今晩はぐっすり眠らせて貰うさ」
「断眠ハイのところザンネンだけど、アタシはもう死んだの」
ぬけぬけと、ポワールは楽しそうに言った。
古い友に、語りかけるようでもあった。
「ショットガンの弾って、熱くって、痛かったわ。散弾ですものね、お腹の中がぐっちゃぐちゃ。性的暴行をうんと酷くしたような、気分だった」
シトロンに犯されたようなものね、と妖しく笑う。
「なのに、シトロンはアタシを探し続けた。信じられなかったんでしょ? アタシから
「……うるさい」
「だってシトロンは、アタシを探す事が生きがいになってるものね? アタシを殺した後の事なんて、なーんにも、考えつかなくって、どうしたらいいのか判らないから、みつからない死体を探してうろうろうろうろ、この街を彷徨っていたんでしょう? ああ、アタシってば負けたのにすっごく、気分が良い。イイ気味だわ。何の魔法も使っていないのに、シトロンを呪う事が出来たなんて、気分爽快、最高よねー」
「黙れ!」
シトロンは《野性の呼び声》を抜き様に一回転、散弾を装填した。
突き付ける。
ポワールは、ああ、怖い、怖い、と歌う。
「また、その硬くて太いもので、アタシを犯すの? 男の子になりたかったのよね? そんな物騒なものをぶら下げて、騎士様気取りですものね」
「……お前がその魂で取り込んだ少年を返して貰う。どんな魔法を使ったか知らんが、常民にいたずらな干渉とは見下げ果てたぞ」
ポワールは、ニヤ、と笑う。
「答え合わせをしましょうか。貴女の間違い、落第よ。アタシは妖精に生まれ変わったの」
「……なんだと?」
シトロンの動かない表情の奥に、微かにでも疑念が動いた。取り込んだんじゃないの、とポワールは愛おしそうに続けた。
「受け容れてもらったの。優しい、ミコサンのような男の子にね。撃ってごらんなさいよ。貴女の言う、罪のない常民の男の子が死ぬわよ? 出来ないわよね? アタシの若い頃の姿を観たからって、ついカッとなって三発も撃っちゃったのよね? 騎士様が聞いて呆れるわ。結局、貴女には暴力しかないのよ。手段と目的が転倒しておいて、騎士様ですって? 笑っちゃう、ウケるわ、最高!」
身をよじってポワールは笑った。爆発する狂気のような高い哄笑にシトロンは、
「たった一人の死の腹いせに、五〇〇人の魔女を殺したお前に言われたくない!」
「ぶっぶーっ! 五三二人でーす! 殺した数くらい数えてるわよ、いつ《魔女の森》の五年前の総数、八一〇六人に届くか楽しみで仕方がないんですものね!」
笑ってなどいなかったかのような形相で、ポワールがシトロンを睨んだ。
「たった一人の死ですって? 命がお安い事で。そうよ、仕事とあらば何人だって、誰だって殺した。アタシは手段だった。《魔女の森》の、とびっきりの手段だった。貴女と弟がいれば、アタシはアタシが何だって良かったのよ。誰かのための手段で良かった……でももう、願い下げよ。貴女が弟を愛してなかったのが、やっぱり判ったもの。たった一人の死ですものね。数になっちゃうのよね。アタシは違う、弟は、ヴァニラは数に還元出来ない、数量ではない、
足元の水が引かない事に、シトロンは気付くべきだったと悔いた。水が引かないのなら、水を操っている以外に理由はないのだ。
水が、うねって急激に水位が下がるや否や、軟体生物の触手のように高速で伸びた。
打ち振られ、横ざまに殴りつけるようにシトロンに襲いかかる、太い柱のような水。シトロンは、撃った。目くらましになればいいとばかりに。勿論ポワールはコートでこれを受ける。そして、ポワールの注意が逸れた。犬に瞬間的に変じて水の一撃を頭上にやり過ごし、雑居ビルの壁に水がぶち当たって弾ける前に、シトロンは犬のまま走り出した。
「アタシは自分の肉親が可愛い、故に魔女を殺す!」
砕けた水が路地に降りしきる。走り、いったん距離を取る、逃げると見せてターン、まっしぐらに勢いをつけてポワールへと駆け走る。
「例え、それがもう思い出だけになってしまっていても!」
コートから水弾がまたしても放たれる。真っ直ぐ行く、十発二十発の被弾は覚悟する、牙が届けば命も要らない、前足に、顔に、水弾が掠って肉を
「八一〇六人もの無敵の魔女の屍を積み上げて、たった一人の命がどれほど高くつくか教えてやる! 別に七十億人だっていいのよ、数じゃなくて心なんだから!」
復讐を叫ぶポワールの喉元に喰らいつこうと、飛びかかる。
ヴァニラ、導いてくれ、そう念じてシトロンはその口腔を大きく開き牙を光らせた。
「貴女は五三三人目の生け贄よ!」
剥き出しの怒りを迸らせるポワールは、しかし何故か、体を引いた。
シトロンにも、それは意外な反応だった。
犬から犬人に形象を変じて、速度はそのまま質量を増して体当たりを仕掛けた。
ポワールの頭から、三角帽子が跳ね飛んだ。
簡単に、両者がぶつかった。
シトロンは、ポワールを、押し倒していた。
何が起こったのか、シトロンにも、ポワールにも、まるで理解が出来ない。
ポワールは、何故逃げようとしたのか判らなかった。
シトロンは、決して逃げないだろうポワールと相打ち覚悟で死ぬつもりだった。
水に濡れた女二人が、驚愕の表情でお互いの見開かれた眼を、覗き込んでいた。
シトロンが体を起こす。シトロンに組み敷かれたポワールが、身をよじって逃れようとする。シトロンは、容赦なくその肩口を思い切り、踏みつけた。
「――っ!」
鎖骨でも折れたかも知れない、太く熱い痛覚にポワールが声と息を詰まらせる。
「――お母さん!」
舞踏を思わずかなぐり捨てて声を上げるオランジェを無視して、シトロンが息を取る。
ポワールが魔法で作る青いコートが解けていく、シトロンは《野性の呼び声》を抜き、一回転して散弾を装填した。
「……答え合わせをしよう。お前は間違えた。落第だ」
シトロンの中に、哀れみと理解が広がって行く。
ライフル螺旋のない、散弾銃特有のぽっかりと深く暗い銃口を、歯を食いしばって痛みに呻くポワールの顔面に擬した。
オランジェは、動けなくなる。
弔辞のように、シトロンは語る。
「私は、お前の恐ろしさを知っている。強さの理由を知っている……お前は、五年前に死んでいたんだ。お前は生きていない。生きて守る者が何もない。だから我が身も顧みず戦える。戦う理由は死んだヴァニラのためにある。生きて掴む明日が無い、死者の待つ過去しかない、生きる理由が無いんだ。お前は死人と同じだった。五年間もな……誰も死人を殺せないよ」
「嘘よ、弟が死んでも、アタシにはオランジェがいるわ。この娘はアタシの娘よ!」
ポワールの抗弁を、シトロンは尚も一蹴する。
「違う。娘は母のもとから巣立つ。お前はその時を、ずっと待っていた。そして現に、独立しかけている。妖精になったお前が、どうしてオランジェの存在を、妖精の魂を承認出来る? 妖精を認められるのは人だけだ。この娘は、もう誰にも依存する必要のない、人間になりかけている。だから、ひとりでも動いていられた。お前はオランジェを導きこそすれ、命を賭して守った事は一度もない」
シトロンは、駄目を押す。
「お前は命を惜しんだ。少年の命を……守る命を得たんだ」
裏切らないと信じた死者が、ついに命を得て裏切った。
シトロンは、犬の神様への祈りとともに、銃口をポワールの額にそっと、当てた。
「生きているお前は、今までのように全てを捨てて魔女を殺し続けられない。私でなくても、いずれ誰かの手にかかる……さらばだ」
――私のかつての主よ。
シトロンは弔辞を結んで、引き金を絞る。
「――あの。ちょっと、いいですか?」
ポワールの声で、寿郎が口を利いた。
「……え?」
ポワールの声が、戸惑った。
「……何の真似だ」
引き金にかかっているシトロンの指も固まる。
「いや、今のはアタシじゃなくて、アレ? ちょっと、ねえ? ――ちょっともねえも何もありませんよ。そんな大声でガンガン怒鳴りあって、眼ぐらい醒めますよ――いつから?」
「いつからだ!」
銃口を突き付けたままシトロンが怒鳴る。
寿郎は、ポワールの声で、拗ねたように、
「……釈迦に説法のあたりから」
そんな事言ったっけと、頭に血が上っていたポワールとシトロンは同時に困惑した。
加えてポワールは、自分がミスを犯したと知った。今日書き出した、ふたりにとってのルールの裏を掻く? なるほど、お互いは同じ体でも、片方だけ眠る事が出来る。
しかし、誰だって、うるさいと眠っていられず、目を醒ます。
その当たり前の前提を、ポワールは失念していた。
言葉の糸を紡ぎ、張り巡らせた思惑が、崩壊した。
「足、痛いんでどけて下さい」
シトロンは、後ずさるようにポワールから離れた。いや、もうポワールの体ではない。
「細かい経緯は良く判らないんですけど……」
声が、寿郎の声に戻って行く。
ポワールの甘いアルトから、メッツォになってしまった女の子の寿郎の声に移り、そして男の子の頃のテノールとアルトの中間のような声へと、更にと。
まるで、悪い魔法使いに施された魔法が、解けていくように。
ずぶ濡れになってしまった体を起こして立ち上がる。一言。
「やっぱり、ジゼルみたいですね」
シトロンは思わず匂いを嗅いで確かめた。
黒い髪の少年が、立っている。
甘酸っぱくない匂いを漂わせて、スカートをはいた、少年がいる。