――寿郎は、踊る事をやめた。
文字数 2,170文字
寿郎は、踊る事をやめた。
「音楽の途中ですけど、もういいかなって」
肩を入れて、すらりと伸ばした右腕を、そっと下ろす。両爪先を外向きに、体を中心に絞るバレエの基本の足の型 、五番をほどいた。
「ぼくは、ポワールさんほど口が上手い訳でもないんですけど」
誰もが寿郎の言葉を聞いている。
寿郎は、ぽつりと。
「好きだったんですね」
主語のない寿郎の呟きが、ポワールとシトロンに突き刺さる。
「ひとりで生きている事が、つらかったんですよね」
寿郎は薄い胸に手を当てた。シトロンの心の中でみつけたジゼルを確かめるように。
「つらさに耐えてるなら、まだ、やり直せると思います」
まだ大丈夫。寿郎はシトロンに穏やかな眼をむけた。
「この人がもう一度誰かを好きになれば、殺し合う理由がなくなるんじゃないかなって。ぼくが、この人を好きになります」
そうする事が当たり前、誰かのために我が身の全てを差し出すのは当たり前、と言うような寿郎の言葉の響きだった。
水の精と化して踊り続けるジゼルに、命を差し出して魂の許しを乞う、アルブレヒトのような、言葉だった。
「だってこの人、すごく素敵だもの。ぼくを、好きになってほしい」
『……駄目よ、駄目』と、ポワールが呻くように否定した。
「駄目です。やめてください」と、何故か、オランジェも否定した。
「そうだ。駄目だ。いけない」と、当のシトロンも否定した。
寿郎は、きょろり、とシトロンとオランジェを観て、そして胸の内のポワールにも。
「何故?」
と、尋ねた。
目が虚ろだった。
女三人は一斉に口ごもった。
即断しなければならない懸案を一方的に突きつけ。
相手方に性急な判断を迫り。
無難な落とし所に事態を強引に落着させる。
今日の午前中の学校でのたらい回しを、ポワールはそう評価した。
あ、今ぼくは同じ事を、凄くズルい事をしているぞ、と寿郎はぼんやり思った。
だって、たらい回しが良い結果に運んだ理由は、なんだったっけ?
良く憶えているさ。
みんな、良い人だったから、上手く行ったのだ。
シトロンが、ごほん、と喉をワザとらしく鳴らして立ち上がった。
「私は……この歳だ。もう子犬じゃない。私が好きになる人は、私が決めるさ」
そう言い残すと、また犬の姿になり、血みどろの体を力強く引きずって、路地に消えた。
「ふらーれちゃったー」
寿郎は、全く惜しくなさそうに口ずさみ……過ぎ去ったものはなかったものと、思い切りよく忘れるように――急に意識を失い倒れる。
その寸前、ポワールが慌てて寿郎の体を取った。
ポワールの赤い髪、少女の体。しかし完全な脱力状態から体を持ち直す事など、運動音痴のポワールに出来る訳もなく、
「――あでっ!」
綺麗に尻もちをついてこけた。
「いたたたた……玉のお肌がダイナシよ」
「トリイ=ジローさんの踊り、綺麗でした」
オランジェにしては非常に異例の事ながら、ポワールの心配より寿郎の事が優先された。
「初めての体験でした。胸がとろとろして、ふわふわしました。私は壊れたのでしょうか、擬音語以外に、この気持ち、高揚感、多幸感の内実を説明できません」
「何よもう、子どもにはまだ早いの、そういうのは。色気づくなんて早すぎるっ……でも、凄かったわね。S席で見ちゃった。ううん、一緒に踊った気分。ふふふ……へへへへへ、いいでしょー?」
尻もちの痛みを忘れ、によによとポワールが大人げなく笑う。
弟を思い出して激した事も、寿郎に秘密を知られて恐れた事も、綺麗に吹き消えていた。
ひと時の負の感情が、ひと時だけでも、浄化されたような気がする。
狂気さえ感じさせる、寿郎の踊りだった。
ジゼルの為にジゼルそのものになっていた。
でも、寿郎は戻ってきた。
寿郎はジゼルのようには死なない。
自分のみみっちくてせこい虚偽なんかで、崩れたりしない。
実験結果が現れた。少々強引で、何もかもおしまいかとも思ったけれど。
魔法は解けない。
虚偽よりも強い魔法が、ふたりを繋いでいる。
によとポワールは笑う。
オランジェは、むっと、唇を尖らせた。
「お母さんは、卑怯です」
「そーよー? アタシ、卑怯大好きだもーん」
ポワールは立ちあがってぱしぱしと、プリーツスカートの尻を叩き、あ、濡れてる、と呟いて。
「うっそぉ! 今日買った服もう汚した、最低! 何よこれ! 全身濡れ鼠、やだあ!」
天に唾するとはまさにこの事。盛大に水を撒いたのはポワール自身である。
「ジゼルですから、辛気臭く、なりました」
まだポワールがうらやましいのか、妙にオランジェが素っ気ない。このー、可愛くない! とポワールがこめかみを拳骨で挟もうとした所で。
パトカーのサイレンが聴こえた。
「大変です。おまわりさんです」
「聞けば判る! あのバカ犬が鉄砲バンバン撃つから通報ぐらいされるっつーの!」
「おまわりさんの車は、二台です。三ブロック先にいます、接近しています」
「何でもいいからマクるわよ!」
そうして、全く締まらない事に、二人は走って現場から逃げ切った。
五〇メートルと走らず、ポワールが嘔吐でもしそうな青い顔になったけれど。
「音楽の途中ですけど、もういいかなって」
肩を入れて、すらりと伸ばした右腕を、そっと下ろす。両爪先を外向きに、体を中心に絞るバレエの基本の足の
「ぼくは、ポワールさんほど口が上手い訳でもないんですけど」
誰もが寿郎の言葉を聞いている。
寿郎は、ぽつりと。
「好きだったんですね」
主語のない寿郎の呟きが、ポワールとシトロンに突き刺さる。
「ひとりで生きている事が、つらかったんですよね」
寿郎は薄い胸に手を当てた。シトロンの心の中でみつけたジゼルを確かめるように。
「つらさに耐えてるなら、まだ、やり直せると思います」
まだ大丈夫。寿郎はシトロンに穏やかな眼をむけた。
「この人がもう一度誰かを好きになれば、殺し合う理由がなくなるんじゃないかなって。ぼくが、この人を好きになります」
そうする事が当たり前、誰かのために我が身の全てを差し出すのは当たり前、と言うような寿郎の言葉の響きだった。
水の精と化して踊り続けるジゼルに、命を差し出して魂の許しを乞う、アルブレヒトのような、言葉だった。
「だってこの人、すごく素敵だもの。ぼくを、好きになってほしい」
『……駄目よ、駄目』と、ポワールが呻くように否定した。
「駄目です。やめてください」と、何故か、オランジェも否定した。
「そうだ。駄目だ。いけない」と、当のシトロンも否定した。
寿郎は、きょろり、とシトロンとオランジェを観て、そして胸の内のポワールにも。
「何故?」
と、尋ねた。
目が虚ろだった。
女三人は一斉に口ごもった。
即断しなければならない懸案を一方的に突きつけ。
相手方に性急な判断を迫り。
無難な落とし所に事態を強引に落着させる。
今日の午前中の学校でのたらい回しを、ポワールはそう評価した。
あ、今ぼくは同じ事を、凄くズルい事をしているぞ、と寿郎はぼんやり思った。
だって、たらい回しが良い結果に運んだ理由は、なんだったっけ?
良く憶えているさ。
みんな、良い人だったから、上手く行ったのだ。
シトロンが、ごほん、と喉をワザとらしく鳴らして立ち上がった。
「私は……この歳だ。もう子犬じゃない。私が好きになる人は、私が決めるさ」
そう言い残すと、また犬の姿になり、血みどろの体を力強く引きずって、路地に消えた。
「ふらーれちゃったー」
寿郎は、全く惜しくなさそうに口ずさみ……過ぎ去ったものはなかったものと、思い切りよく忘れるように――急に意識を失い倒れる。
その寸前、ポワールが慌てて寿郎の体を取った。
ポワールの赤い髪、少女の体。しかし完全な脱力状態から体を持ち直す事など、運動音痴のポワールに出来る訳もなく、
「――あでっ!」
綺麗に尻もちをついてこけた。
「いたたたた……玉のお肌がダイナシよ」
「トリイ=ジローさんの踊り、綺麗でした」
オランジェにしては非常に異例の事ながら、ポワールの心配より寿郎の事が優先された。
「初めての体験でした。胸がとろとろして、ふわふわしました。私は壊れたのでしょうか、擬音語以外に、この気持ち、高揚感、多幸感の内実を説明できません」
「何よもう、子どもにはまだ早いの、そういうのは。色気づくなんて早すぎるっ……でも、凄かったわね。S席で見ちゃった。ううん、一緒に踊った気分。ふふふ……へへへへへ、いいでしょー?」
尻もちの痛みを忘れ、によによとポワールが大人げなく笑う。
弟を思い出して激した事も、寿郎に秘密を知られて恐れた事も、綺麗に吹き消えていた。
ひと時の負の感情が、ひと時だけでも、浄化されたような気がする。
狂気さえ感じさせる、寿郎の踊りだった。
ジゼルの為にジゼルそのものになっていた。
でも、寿郎は戻ってきた。
寿郎はジゼルのようには死なない。
自分のみみっちくてせこい虚偽なんかで、崩れたりしない。
実験結果が現れた。少々強引で、何もかもおしまいかとも思ったけれど。
魔法は解けない。
虚偽よりも強い魔法が、ふたりを繋いでいる。
によとポワールは笑う。
オランジェは、むっと、唇を尖らせた。
「お母さんは、卑怯です」
「そーよー? アタシ、卑怯大好きだもーん」
ポワールは立ちあがってぱしぱしと、プリーツスカートの尻を叩き、あ、濡れてる、と呟いて。
「うっそぉ! 今日買った服もう汚した、最低! 何よこれ! 全身濡れ鼠、やだあ!」
天に唾するとはまさにこの事。盛大に水を撒いたのはポワール自身である。
「ジゼルですから、辛気臭く、なりました」
まだポワールがうらやましいのか、妙にオランジェが素っ気ない。このー、可愛くない! とポワールがこめかみを拳骨で挟もうとした所で。
パトカーのサイレンが聴こえた。
「大変です。おまわりさんです」
「聞けば判る! あのバカ犬が鉄砲バンバン撃つから通報ぐらいされるっつーの!」
「おまわりさんの車は、二台です。三ブロック先にいます、接近しています」
「何でもいいからマクるわよ!」
そうして、全く締まらない事に、二人は走って現場から逃げ切った。
五〇メートルと走らず、ポワールが嘔吐でもしそうな青い顔になったけれど。