――シトロン=ケテルは、空き地の茂みにうずくまり、

文字数 2,307文字

 シトロン=ケテルは、空き地の茂みにうずくまり、眼を閉じていた。
 今回の追跡で最後まで生き残った若輩者、カラント=ダンツカの疲労が気がかりだが、シトロン自身も生き物なので、疲れぐらい覚える。ふさふさの尻尾に長くすらりとした鼻先を突っ込んで丸くなり、静かに目を閉じていると、夢と周りの状況が甘く混濁し、現在と過去が曖昧になり、いつしか周囲を感覚したまま眠りと夢に落ちていく。
 シトロンは緊張を真にほどく事は無い。浅くとも眠りは眠りだ。疲れぐらい取れる。
 夢の中で、まるで今の事のように思い出せる、元気な掌。
 ひっぱたかれ、耳を掴まれ、遊び半分で投げ飛ばされ、こちらも負けてはいなかった。跳びかかって、のしかかって、がぶりと甘噛みして、泥だらけ、時には血まみれになって遊んだ記憶。
 あの頃、シトロンは鼻も短く体も小さな、小娘だった。
 ポワールもまた、手足の短いちびの、小娘だった。
 男の子がひとりいた。
 その男の子は、もういない。
 乱暴なポワールと違って、シトロンをいつでも優しく撫でてくれた彼の掌。
 いつまでも傍にいたかった。
 シトロンは、きっと世界のどこかにいるだろう、犬の神様にお願いをしたものだ。
 犬の神様は、哀れみをもってくれたかも知れない。
 何もしてはくれなかったけれど。
 だから、犬は、走る。吠える。
 遠吠えを天高く届けと上げて、犬の神様に自らの運命(さだめ)を問うのだ。
 答えは決して、返らないとしても。

「綺麗な首輪、してるね。お前、どこのお(うち)の子?」
 掌が、シトロンに差し伸べられる。
 薄眼を開けたシトロンは夢心地で、鼻先を掌にこすりつけた。
「わっ。こぉら。くすぐったいよーっ」
 鼻先を許してくれる優しい掌だった。甘噛みは許してくれないと思ったから、舌で何度も舐める。掌が喜んでいるのが舌先から感じ取れる。
「もう、やーめーな。くすぐったいったら、怒るよ? この~っ」
 どこかで嗅いだような匂いがする、とぼんやり思った。
 その匂いは懐かしいか? とふと己に問い――懐かしくない、と答えに至る。
 そもそも自分は何をしているのかと我に返る。
 シトロンは、体を素早く起こし、体を引いた。
「――わあっ!」
 驚いた少女の声が上がり、シトロンは後ろも見ずに一目散に駆け出した。
 緊張を張り詰めての仮眠のつもりが眠りこけていたと気付き、ひたすら自らを恥じた。犬になるのも考えものだ、五感は鋭くなるが、つい犬の姿でいる事に甘えが生まれる。人間の規範を忘れてしまう。愛される喜びで魂が剥き出しになる。しかし思わぬ収穫だった。探していた少年の匂いが、あの少女に付着していた。
 次の行動は決まった。そのためにいったん距離を取る。シトロン=ケテルは、逃げる。

 高木美甘は、大きな犬が走っていく様を呆然と見送った。
 驚かせてしまったらしい。眠っている所に手を出したからか。野良犬にありがちな雨風と泥にまみれた様子もなかったし、眺めるだけでは我慢が出来ず、つい手が伸びた。
 近所では観ない犬だったけれど、人間の女性もののチョ―カーのようなシンプルで細い首輪をしていたので、飼い犬だと思う。迷子になってしまったのだろうか。
 飼い犬ではと美甘が思う最大の理由。毛並みの良さ。とても立派な長毛の洋犬。光沢ある茶色の毛がふさふさで、きっとそのふさふさのお腹に顔をうずめたらしあわせになれると思う。シェットランド=シープドッグ、と言うには大きかったからコリーかも知れない。
 美甘は、犬派か猫派かというと断然、犬派である。ふと遠くを観て哲学しているような横顔がとても綺麗だと思うし、遊んで欲しい時に全身全霊ではしゃいで突撃してくる姿も堪らなく好きなのだった。大型犬か小型犬か、と更にカテゴリーを分けると、大型犬好きである。小さな犬だと、しがみついたら可哀そうだなというのがその論拠である。
 今度会ったら、しがみつかせてくれるかな、と美甘はにんまり笑った。
 無理だと判っているのに、犬の事を考えるととても楽しい。
 美甘は、犬を飼った事はなかった。
 美甘の両親は、猫派だった。家には猫が六匹いるのだった。思い出して少ししょんぼりする。お高くとまった猫の生態も嫌いではないが――時々唖然とするほど大胆に隙を晒す瞬間が実に可愛い。でももっと胸襟を開いて甘えてじゃれついて欲しいと常々美甘は思うのだった。猫相手にそれは無理な注文と言うのも判っていた。気分がしょんぼりした。
 まあ、いいさ、と美甘はひとり呟く。
 いつか犬を飼おう、いつかとはきっと大人になった時と、人生で何度目かになるか判らない願いを空に飛ばすと、自転車に乗った。
 油を売ってしまった。寿郎が待っている。ずっと昔から知っている寿郎が、スカートをはく瞬間に立ち会うのだ。
 寿郎は服ばかりに気を取られそうだと思う。服だけに発想が囚われてしまいそうなのが寿郎だ。何か、簡単な小物を選んであげよう。そう、リボンとか似合うかもしれない。
 寿郎が、女の子になって、どこか遠くに行ってしまうかも知れない。
 なら、追いかけるだけだ。ううん、追い越して、寿郎の手を引っ張っていこう。
 美甘はペダルを踏む足に力を入れて漕いだ。滑るように走る自転車と距離を取って、ふさふさの毛並みの大きな犬がUターンして追いかけてくる事には、勿論気付かない。
 犬は、雑居ビルの壁を垂直に走り上った。屋上を駆けて、民家の屋根に音もなく着地し、美甘を見下ろしながら、犬以上の機敏さで、犬そのものの狩猟本能で、追いかける。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み