――『どこに連れていかれちゃうのかなー……』

文字数 6,815文字

『どこに連れていかれちゃうのかなー、女子トイレ? 屋上? それとも体育館の裏?』
 ニヤニヤと笑いながら、ポワールが寿郎について廊下を歩く、フリ。幽霊のようなものなのだから浮いていても良さそうなものだが、ポワールは何故か歩いたり座ったりの真似を好んだ。校内暴力、惨劇、血飛沫、全治三カ月! と縁起でもない事を歌うように朗々と、寿郎以外には聞こえないアルトで……寿郎はため息とともに眉をひそめた。
 寿郎の手を引く美甘が振り向いて立ち止まる。教室棟から離れ、人目はなかった。
「ごめん」
 美甘が、そう言った。寿郎から眼が逸れていた。
「……え?」
 寿郎が思わず聞き返す。美甘は重そうに眼を逸らしたまま、
「迷惑だったよね。しゃしゃり出て……出しゃばって。あたし、あたしはね……」
「ううん、そんな、助かったよ。話がこじれちゃって、変な展開になってたから」
 と、そこで寿郎は隣に立つフリのポワールに責めるような流し目を思わず。ポワールは、そらを向いて口笛を吹くフリ。ちゃんと寿郎にだけ聴こえる音が出た。メロディは、しらばっくれ者の練習曲(エチュード)、といった感じ。メロディラインはシンプルで、また演奏の技巧が地味に細かい。曲調をまとめるのは空々しさの一点に尽きた。
 美甘は思わず、寿郎の視線の先を追ったけれど、寿郎は慌てて、自由な左手の掌をぱたぱた振って美甘の眼を観た。
「いいんだって、本当、助かった。ありがとう」
 観えないものを塗り隠すような笑顔。美甘は、少しだけ不思議そうな顔をしたけれど、結局腑に落として、ぼそぼそ、と何かを呟いて、また寿郎の手を引いて歩き始めた。
 寿郎には美甘の言葉が聞き取れず、小首をかしげてしまうけれど。
『どういたしまして、だって……ふぅううん?』
 ポワールが耳ざとく聴き付けた。屋上でリンチって感じじゃないわね、と判り切った事を嬉しそうに言い、
『なら保健室かなー? ベッドの上で決着ね。ジロー、心と体の準備出来てる? んー?』
 変な事を言うなと寿郎は思わず喉まで出かかるが堪えた。ポワールは寿郎に反論を望むが、ポワールと寿郎以外の人からするとそれは全て、寿郎の独り言でしかない。
 人前で突拍子もない独り言を寿郎に喋らせ、状況を掻きまわす。
 ポワールの手口が寿郎にも段々、判って来た。
 何のための手口かって?
 興味を満足させるための手口さ。寿郎は、自分がポワールのおもちゃになっている事を痛感して、でも美甘に余計な心配をかけないように独り言もため息も我慢した。
 ほどなく、美甘の目的の場所についた。
「寿郎、お昼まだでしょ?」
 教室棟から少し離れた専門棟。昼食の喧騒が、ここでは遠かった。
「まだだけど?」
 まだも何も、朝ばたばたしていたので弁当を作る時間もなく、購買でパンでも買おうと思っていたので準備もしていない。午前中のたらい回しで疲れて、空腹も忘れていた。
「じゃ、付き合ってよ。お昼」
 美甘は、突っ込まれたら返答できない事を隠すような、強気だった。
 扉の上に掛かるプレートには、家庭科室、と読める。

 そして、家庭科室備え付けのガスコンロの上で、アルマイト鍋が温まっていった。
 鍋を前に、ちょこんと所在なさげに座った寿郎だったが。
「これ、なに?」
「観て判らない? おでんよ」
 美甘は強気に出た。
「なんでこんなものがあるの?」
「なんだっていいでしょ。文句ある?」
 棚から適当な皿を取り出しながら、美甘は尚も強気を維持した。
 寿郎の頭の中に、火の元責任者、と言う単語が過ぎったが、普段施錠されている学科教室が開いた事と合わせて、忘れる事にした。
 美甘は何故か、おでんを鍋ごと学校に持ってきた。
 その扱いに困っていたのだろう。
 それを解決するため昼食にと、方々を走り回ったのだろう。
 家庭科室が使用できると言う事はその証左。
 美甘は、不正を断固として嫌う。
 素直じゃないなあ。
 くすり、と思わず小さく笑う。美甘に睨まれたので苦笑に変化した。
 強気の壁を守ろうと、美甘が唇でも噛みそうな勢いで。
「なによ」
「三歳の頃から変わんないなって、思ってさ」
 昔から行動力は旺盛で、でもどこか頑なで。
 アルマイトの軽い蓋をあける。煮え始めていて、湯気が立っていた。
「あ、なんかすごく美味しそう」
 火を通し過ぎると良くないと思い、寿郎は慣れた手つきでコンロの火力を絞りながら鼻一杯に匂いを吸いこむ。
 冷え切った家庭科室に、おでんの成分が溶けた湯気が、真っ白く拡散していく。
『いいー匂い。コンビニのおでんより素敵ね』
 ポワールは寿郎の中に入り、うずうずと待ちきれない様子。冬の家庭料理がほぼ年中、コンビニエンスストアのレジ前で売っている光景は、外国人からどんなふうに見えるのか、寿郎は聞いてみたい気がしたけれど。
 そもそも、ポワールはどんな経緯で日本にいるのか、寿郎はまるで知らない事に気がついた。話すだけなら日本語は完璧だし、よくことわざを利用して寿郎を謀ったりもする。でも日本語を書く事は苦手で、立ち居振る舞いもなんとなく、外国の生活基盤が見え隠れする。寿郎の眼に見える姿を現した時、ポワールはいつも靴を履いている――室内でも。
 何故、神社で死んだのだろう。
 日本語で遺言を残して。
 ポワールの遺言、それは――。
 美甘はそっと小皿と箸を寿郎の前に進めた。寿郎の表情には気付かなかった。
「食べましょ?」
 ほめられた事が嬉しいらしく、美甘の短い、でも弾む声だった。
「うん」
 重く沈む想いをさておき、寿郎は美甘の飾らない表情を受け容れる事にした。

 美甘が弁当箱から白飯を三分の一ほど寿郎に分け、ふたりともうひとりでおでんを食す。美甘は寿郎より量を食べる。白飯は四分の一でいいと遠慮したのは寿郎の方だった。
 ポワールは、おでんの具材の名前が良く判らないようで、フランス語混じりで説明しながら食べてみたいものを色々と指示してきた。箸とお玉でそれを汲みながらも、女の子になっても寿郎の小食は変わらず、ひとつひとつのおでん(だね)を味わって食べた。ポワールの指示する通りだと鍋の半分は寿郎が食べる羽目になるので、却下する所は却下を通す。
 温まる。
「お料理、上手になったね」
『上手なだけじゃないわ。美味しさの理由をちゃんと考えてないと、こうはならない』
 寿郎は箸先で、灰汁抜きもしっかりしている大根を小さく割りながら、中まで出汁が沁みている様子を観て取った。まったく、どんな経緯で学校におでん鍋を持ってくる事になったのやら、微笑みが出てしまう。
 美甘は、何か言いたそうな顔をして、少し迷っても、結局言葉にしてしまう。
「まあね……寿郎が女の子になっちゃったし、あたしも頑張らないとね……」
 でもやっぱり、後半は歯切れが悪くて。それが許せないのは美甘自身で、言葉を重ねた。
「あたしはさ、女の子みたいな寿郎の傍に、ずっといたわけだ」
 美甘の言葉に、やぶれかぶれのような強さがあった。
「寿郎は女の子みたいだった。小さい頃から料理も上手で、踊ると綺麗だった。寿郎がいじめられてたらあたしはいじめっ子をぶん殴ったし、寿郎をからかう奴を蹴っ飛ばした」
『ホントにサムラーイって感じよね~』
 ポワールが興味深々と聞いている。またこの女に突っ込みどころを与えてしまうと寿郎は僅かに危惧し、
「……その話はいいよう」
「いーや、よくない」
 小さくなった寿郎の態度に手応えを感じたのか、美甘は譲らない。勝気に続ける構えだ。
『そうよそーよ、よくなーい、まだ続きが聞きたーい』
「あたしはね、寿郎の事なら何でも、判ってるつもり。寿郎と同じ事がしてみたくて、バレエを習って……辞めちゃったけど。でも寿郎の呼吸も、憶えてる」
 寿郎にとって、大変に居づらい話になってきた。ポワールは相槌をふむふむと打つ、完全な聴講モードに入った。
「寿郎は、あたしを高く跳ばせてくれた。ほら、ペアで踊る時、リフトの時よ。あたしが跳ぼうとする瞬間を、寿郎はいっつも判ってた。跳ぶあたしと、支えて持ち上げてくれる寿郎。ふたりの息がぴたりと合わないと、あんなに高くは跳べなかったもの」
 美甘は言葉を切った。
 そして、遠くを観ていた。
 まだ幼児の頃の平らな腰を、支えてくれた小さな掌を、思い出しているように。
 寿郎は照れ臭くて、そんなに大したことじゃないよと、大根を更に割った。
「ぼく、腕力ないから、そうでもしないと上手く上げられなくて……」
「合気の心ね。相手と一体になる心。今なら判る、寿郎が優しいって事、あたし判る」
 あっ――と、美甘は短く声を上げて、口を噤んだ。
 俯いて、真っ赤になっていった。
 寿郎は、ん? と小首をかしげてしまうけれど、ポワールがひそひそと耳打ちのように。
(わっか)んないかなー? ミカンちゃん、自爆したって思ってんの』
「どうして?……あ、いや、どうしたの?」
 前半はポワールに、後半は美甘に。
『にぶちん!』
「なんでもない!」
 サラウンドで、同時に突っ込まれる。寿郎は、すいませんごめんなさい、と敬語で謝ってしまう。何だかよく判らないが、地雷を踏んだらしいとは思う。
 美甘は、ああもう、と俯いた首を振って、目線を元の高さに戻そうとして、勢い余って上を向いてしまった。
「何話したかったんだか判んなくなっちゃったじゃない!」
「ごめん、本当にごめん!」
「いいの、寿郎が問題なんじゃないの、あたしなの! ……だからさ、だからね?」
 はー、と美甘は息を長く吐いた。腹式呼吸は息を吸おうとする意識から始めるよりも、吐く息を長くして、肺をまず空っぽにすると上手く行くのだ。
 腹式の一呼吸。美甘は目に見えて、落ち着いた。
 もう一呼吸。落ち着いた美甘の顔に、力のベクトルが決まっていった。
 その間、寿郎は細かく割った大根をそろそろと食べていた。
 うん、と美甘は自分に頷き。
「あたしが、寿郎を守る」
 突然の言葉に寿郎は箸を止めた。だってさ、と美甘は寿郎の眼を真っ直ぐに観た。
「寿郎、女の子になっちゃったんだもの。今までだって、あたしは守ってきたつもりだけど、これからも変わらずにね、寿郎は優しいから……」
 美甘はそこで、ぐっと、力を込めて何かに耐えた。
「寿郎は、優しいから、誰かにいじめられたりとかしちゃいけないの。だいたい、無防備だもの、寿郎。まだ女の子になったって事をちゃんと判ってない。あたしだってこれまで、ずっと女って事で気を遣って生きてきたもの。この道は大変だってあたしは知ってるから、寿郎が迷子にならないように、あたしに寿郎の手を引っ張らせて、お願い」
 ――お願い。
 美甘は、そう言って、頭を下げた。
 頭突きでもするような勢いのお辞儀だった。
 返事を貰うまで顔を上げるつもりはないようだった。
 ポワールは、ここにきて何も言わず。
 寿郎が箸と皿を、机に置いた。
「お願いします」
 寿郎は、ぺこりと頭を下げて返した。
 何だか寿郎には、そうする事がフェアな事のように思えたからだった。
 美甘が顔を上げる。寿郎は、そうだねと、とてもほのかに微笑んだ。
「守るとか守られるとか、好きじゃなかったけど、今でもそうだけど……だって申し訳なくて、悔しくて、全然強くなれないのが悲しかった。どんなに悲しくても、ぼくは強くなる事に対して心の底から湧いてくるような興味を持ってないのかも知れない。だから強くなれないのかもね……だから、美甘は凄いって思う。美甘は絶対、いじけないもの」
 美甘の顔が不安と戸惑いに染まっていった。
 寿郎はその不安と戸惑いを観て取りながら突き進んだ。
「女の子になっちゃったけど、それでもう強くならなきゃいけないって事から自由になったとは、ぼくは思わない。だって美甘は強いもの。強くなれる人は、男も女の子もないよ。でも、ぼくは……」
 ぼくは、と寿郎は確かに言った。
「――ぼくの望む姿になりたい。いつもいじけて、うじうじして、全部投げ出してしまいたくなるけど、そんなぼくでもなりたいものがあるんだ。まだ上手く言えないけど、ぼくにも確かに、心の底からの興味がある。なりたいものや、やりたいことを、絶対叶えたいと思ってるんだ……ぼくは、踊るよ」
 まだ上手く言えないけれどと、寿郎はつい今、言ったのに。
 寿郎は答えを早々と見つけた。
 世界が明るくなるような手応えで、寿郎は行く先を見つけた。
「美甘が合気道に一生懸命なように、美甘に負けないぐらい、ぼくは踊る。踊っても強くなれないかもしれないけど、踊り続けたら強さ以外の絶対に欲しいものが、見つかる気がするんだ……だから、女の子の事を何も知らないぼくを、助けてくれると、すごく嬉しい」
 寿郎はもう一度、お願いします、と頭を下げた。
 美甘は、寿郎の流れ落ちる短い前髪を観ていた。
 うん、と美甘が頷く。
「判った。でも、もうちょっとそのまま」
「……え?」
「いいから」
 頭を下げたまま戸惑う寿郎を美甘は制し、自分の髪からヘアピンを一本取って、寿郎の前髪をそっと横に流して、留めた。
 美甘は息を取る事もなかった。ゆっくりと、しかし迷いなく、まっすぐに。
 あらわになった寿郎のおでこにそっと、キスをした。
 ちゅ、と音はしなかった。
 え? と寿郎が思わず声を洩らし、もういいよ、と美甘が柔らかく。
 寿郎が顔を上げる。美甘の顔が驚くほど明るかった。
「わ。思ったよりずっと可愛くなった……おでこまで女の子になってるし。朝、学校来る前に髪の毛いじったでしょ? でもまだまだ。髪の長さだけ変えるのは男の子の発想だよ」
『違うわよ。独り暮らしの男の子の家に髪留めが常備してると思うーっ?』
 得意げな美甘にポワールは間髪いれずに反論した。あるものを最大限に使った突貫工事が否定されて、ちょっと悔しいらしかった。
「いや、問題はそこじゃないんじゃ、ないの?」
 待って待って、待ってと、寿郎がうわ言のように。ふたりとも待って、と混乱しきって。
 美甘は、ふたりって何よと、いたずらっぽく笑った。
「お返しよ」
『そーよ、ありがたく貰っときなさいよ』
 いや、朝の事はあんたが勝手にと、ポワールに内心突っ込む寿郎だけど、美甘は堂々と。
「貸し借り無し。今の寿郎とは、フェアになりたいって思ったから」
『じゃあ、もっとデカい所狙うと同じだけ返ってくるのね、素敵!』
 へっへっへ、どんな風にわやわやにしてくれよう……と、ポワールが邪悪な舌舐めずりを寿郎の中でしていた。矢も盾もたまらず突っ込みが絶叫になった。
「わやわやって何だーっ!」
「あたしそんな事言ってない!」
『わやわやのもみもみのへにゃへにゃにしてくれるわーっ!』
「やめてェ! お願いだから柔らかそうな擬音のリフはやめてえええーっ!」
 そう叫んで頭をがしと抱える寿郎の顔は、ふやけて崩れて溶けそうなものが圧力や熱量に耐えきれなくなって今か崩壊の時! といったありさまである。
 美甘はたしなめる、と言うよりもはっきりとあきれ顔。
「何よ、おでこのキスぐらいで取り乱して、寿郎それでも男の子?」
 そう言うのは朝、ひどく錯乱して寿郎を放り投げた美甘である。
「女の子になっちゃったの!」
『女の子同士っていいわよね!』
「よくなーいっ!」
 いやいやとかぶりを振る、寿郎は何故か、泣き笑いで叫んだ。叫び続けた。
 ――鍋のおでんはあまり量が減らず、そんな風にしてその日のお弁当は終わった。

 使った皿を冷たい水で洗い、寿郎はかじかむ手をさすりながら、一年生の教室棟で美甘と、おでん鍋の処遇と放課後の約束を確認し、分かれた。
 教室に入ると教室中の視線が寿郎を向いたが、なんだか気にならないのが不思議。
 色々な事があった昼休みだった。幕切れは何だか酷い展開だったけれど。
 それでも、想いを形に出来た実感がある。
 踊るしかできないけれど万能感、強くなれないけれど無敵感が寿郎の胸にある。
 別のクラスの女とドコ行ってたんだよーっ。さきほどの性的興奮冷めやらぬ男子生徒がすかさず茶化しにかかる。
 寿郎は少し鼻白んだけれど、どきどきを抑えきれずに。
「家庭科室で一緒におでん、つついてきたんだ。美味しかった」
 と、正直に言った。
 ドッと笑いが降ってくる、冗談だと取られたらしく、ウケた。
 何だか気分が良い。
 誰か、美甘に貰ったヘアピンに気付いてくれないかなと、わくわくする。
 寿郎はとっても、気分が良い。
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