――美甘は、自転車を走らせていた。

文字数 1,233文字

 美甘は、自転車を走らせていた。
 寿郎の家の前を通り過ぎる――自転車を停めた。
「……お前?」
 寿郎の家の生け垣に、体半分入れて寝そべっている、大きな犬がいる。
 ふさふさの長い毛。犬らしい長い鼻。優しい目。やっぱり犬種はコリーだと美甘は思う。
 自転車を降り、膝に手を置いてしゃがみこむ。
 犬は、黙って美甘の様子を観ていた。
「お前のお家はどこなの? ここは、お前のお家じゃないでしょ? 早く帰らないと、お家の人が心配するよ?」
 犬と人が会話できると、信じている言葉だった。
 くあ、と欠伸をするような音を立てて、犬が口を大きく開いて、閉じた。
 お前は、迷子なのに……と、美甘は言い。
「あたしも、迷子になりたいな」
 寂しいような、それとも照れているような、微妙な笑いだった。
「迷子になったら、きっと、寿郎が探しに来てくれるもの……いっつも、逆だったけどね」
 犬が、まるで相槌のように、首を僅かに傾げた。
「あたしはいつも、寿郎を探して、寿郎を守る役回りで……でも、それでもいいんだ。そうでないと寿郎の傍に、いられないもの……お前は迷子じゃないのね。迷子になったご主人を、探しているんでしょ? どう?」
 犬がそっぽを向く。ぱたり、ぱたりと生け垣の向こうで尻尾が土を叩いている。
 お前はいじっぱりだね、と美甘は笑った。
「……なんだか、他人とは思えないな。あ、お前は犬だったね。人間臭いからつい……ごめんね。人間と一緒にして欲しくないよね……寿郎が女の子になっちゃったんだ」
 美甘は、問わず語りのつもりは全くなく、そう言った。
 犬はそっぽを向いたまま、尻尾で土を叩き続ける。
「なんだか時々、ひとが変わったみたいで……どこに行くんだろう、寿郎……寿郎は今、どこにいるんだろう。あたしに、寿郎を探す事、出来るかな?」
 犬が、美甘を観た。
 その目は、犬特有の遠くを観るような視線で。
 その目が、出来るさ、と言っているのを、美甘は確かに理解した。
「……ありがと」
 くしゃくしゃ、と犬の頭を撫でる。何度も撫でる。犬は目を震わせながら細めた。
「寿郎に、渡しそびれちゃったんだ」
 美甘は、鞄の中から包装紙を取り出す。少し迷ってから、封を切った。
 寿郎が靴を選んでいる間に、寿郎に気付かれないようにそっと、買っておいたもの。
 寿郎に渡せなかった。いつの間にか寿郎が遠くに行ってしまったような気がして。
 でも、何度だって、やり直せる。
 今度は、寿郎の手を引いて、選びに行く。
「これ、お前にあげる。寿郎の髪が伸びたらまた選ぶから、今はお前にあげる」
 美甘の指先がシトロンの細い首輪に掛る。首輪に優しく結びつける、淡い桃色のリボン。
 シトロンは、その指先を、嫌がりもせずに受け容れた。
「待ってみようか。もうすぐ、帰って来るから。寿郎は、この家に帰って来るから」
 わおん、とゆっくり犬のシトロンが、吠えた。鼻先で掌に甘えて、吠えた。
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