――寿郎の自転車が急によろけた。

文字数 6,671文字

 寿郎の自転車が急によろけた。
 美甘は、ふざけているのかと思う。
 寿郎が真面目に平衡を欠いて、転びそうになっていたのだと気付く事はなかった。
 何とか平衡を回復して、寿郎は自転車を停めた。
「……なにやってんの?」
 美甘も自転車を停めて、振り向く。
 しまむらと大型スーパーを出て、帰り道の途中、温泉街の中だった。
 寿郎は、日が落ちるにつれて増え始めた雑踏を観るような眼をして。
「ごめん、ミカン。サトムラたちと約束あったの思い出しちゃった。先に帰ってて」
 寿郎にしては珍しく、有無を言わせぬような言葉の響きだった。
 うん、と美甘は生返事をする。何か様子がおかしいと思う。
 不思議そうに寿郎の横顔を観る、いきなりくるりと、寿郎が美甘の眼を観た。
 ぱちん、と合掌して寿郎が頭を下げる。
「ごめん、埋め合わせはするから、このとーり」
 へこへこ、と冗談めかして頭を下げる。
 美甘は首を傾げた。
 何だかキャラが違う、と言うのが直截な感想。
 初めてのスカートで、気分が変わったのだろうか。
 そう言えば、服を選ぶ時も何だか手際が良くて、何より積極的だった。心境の変化かと、思っていたけれど。
 ――何だか変。
 美甘は、ふと、尋ねてみる。
「じゃ、今度カンパーナでいつもの。それで勘弁してあげる。何だか判る?」
 寿郎は一瞬、媚びた笑顔のまま固まり、
 視線を泳がせるまいと美甘に目線を固めて。
 そして。
「――ラスクと、マカロン。いつも思うけど、どっちかひとつにして欲しいな」
「お茶菓子ひとつだけだとテーブルが寂しいって、いつも言ってるじゃない。クラッカーとコーヒーも良いけど紅茶もね、あたしが煎れてあげるから、お菓子代ぐらいはもってよ」
「うん。この間のダージリンがいいかな。美味しかったし」
「あー、また間違えた。アレはダージリンじゃなくてアッサムのオレンジペコよ。全く、紅茶飲まない人は代名詞みたいにダージリンダージリンって……」
「――そ、そうだったっけ? ダージリンって聞いたような記憶が……」
「ま、いいわ。じゃ、また明日ね」
「うん、また明日」
 得心して美甘が行く。
 寿郎は残されて、その姿が見えなくなるまで見送り。
 寿郎は、ふぅ、とため息をついた。
「何なんです? 一体。急に体を持ってったりして……」
『……よく考えたら自転車乗ったのって、いつ以来かしら。コケそうになっちゃった』
「ヒヤヒヤしましたよ。スカートで膝が出てるんですから、注意してくださいよね」
『ゴメンゴメン。ところで、話に出たお店は?』
「パン屋さんです。レジ横で売ってるラスクとマカロン、美甘が好きで……」
『美味しい?』
「美味しいですけど……って、そうじゃなくて、ですね」
 今の一連の流れを順番で示すとこうだった。
 急に、ポワールが寿郎の体の支配を取り、よろけた。
 遠くを観たのはポワールで、美甘のかまかけから、寿郎に交代した。
 紅茶の話は、本当に寿郎の記憶違いで、しかもいつもの間違いで、美甘の納得の決め手になった格好である。
「急にどうしたんです? 誰か知り合いでも?」
 何気なく訊いて、寿郎は自分の言葉に戦慄した。
 夕べの大怪我でポワールは死んだ。里山の上の神社まで吹き飛んでくるような、異常な死に方で。
 その原因を寿郎は、何もポワールから聞いていない。
 事故だろうか……だとしたらどんな大事故だと言うのか。
 誰かに殺されたのだろうか……その考えは、体中が凍るように恐ろしかった。
 先ほどのおやつ時にポワールが見せた、濡れた熱い闇のような、凄味。
 段々判ってきた事。なのに、観ないように、聴かないようにしてきた事。
 この人は、一体、何者なのだと言う事。
『……寿郎の言いたい事は、判るわ』
 寿郎の体は震えていた。その震えを、ポワールは、体の支配を奪って消した。声も借りる。強い言葉だった。
「でも、今は、少しだけ体を貸して」
 震える魂をどうしようもなく持て余す寿郎の返事を待たず、自転車を降り、押して歩く。
 寿郎は、動きが雑だとポワールを笑った事を恥じた。
 女の人には、女の人の歩き方がある。
 ポワールの足取りは、何年も女の人として生きてきた、積み重ねがある。
 堂々と、気位を忘れない、確かな足取りだった。
 夜が近づいて増えた人の波に混ざり。
 車が渋滞を起こし始めた道を渡り。
 ポワールは真っ直ぐと進んで。
 少女の隣に、立った。
「こんばんは。誰かを待っているの?」
 気安く声をかける。
 その少女の体は小さくて、白っぽく金色の髪をしていた。
 薄い緑色のドレスのような、ワンピース。
 白い、陶器のような顔が、僅かに見上げて寿郎の顔に焦点を当てて。
 少女が言った。
「お母さんだ。本当に、迎えに来てくれた」

 ポワールは、ぱちくり、と目をしばたたかせた。
 寿郎は、え? と声に出したいほど疑問符を念じた。
 ポワールは片手で自転車のハンドルを持ち、くしゃくしゃ、とうなじを軽く掻いて。
 自転車のスタンドを、酷く雑に立てて。
 両手を広げると――。
 ぎゅっと、思いっきり少女を綺麗な形の頭を力いっぱい、抱いていた。
「なんでー、もー、判っちゃうのよ、このコは!」
『ええええええぇーっ!?
 寿郎はポワールが抱きしめている少女の体の大きさを、触れている腕から計ってしまう。お母さん? そして娘? 柔らかい、しかも華奢である、何歳ぐらいの女の子に見えるかと言うと、十歳ぐらいに見える訳で、いつポワールがこの娘を産んだのかと、母親なのかと、いやそもそもポワールは何歳なのかと、この場合実年齢何歳と言うより享年何歳と言うべきなのかとか、一気に混乱が来た。
「色々試してみたい事もあったのにー、知ってる? 数学のテストで公式を書かずに答えだけ書くと〇点なのよ!」
「それは証明問題などの複雑な問題に於いてです、一足す一は、二です!」
 少女二人が甲高い声をあげて、心の底から喜びあっている。周囲の眼を思い切り惹くが、二人とも全くお構いなしである。
「あーくそ、なんか今アタシ物凄く悔しいいーっ、アタシの存在は数学の初歩か!」
『日本じゃ算数っていいますけど、あの、いいですか? どういうご関係の、あの?』
「家族の会話に水を差すな! 黙ってなさい!」
「お母さんは変です、誰とお話しているのですか? おかしくなってしまったのですか? やっぱり、出血が影響しているのですか?」
「そうそう、血ィどばどば出た出た、おかしくもなるわ! 一生分の血ィ出して死んだ!」
「変です、お母さんは変です! 亡くなったのに何故迎えに来たのですか? 何故姿が変わってしまったのですか? これは日本語の比喩表現に於ける《お迎え》ですか? 私は壊れるのですか? お母さんになら連れていかれてもいいです、連れて行って下さい!」
「甘えんぼさんめ! ちっとも治ってない、全然オランジェは変わってない!」
 抱いた腕をほどいて、すかさずこめかみを拳骨でぐりぐりに移る。痛いです、痛いですー、とほのかな笑顔を顔全体で、花が咲くような笑顔で抗議する少女、オランジェである。
 あの、痛がってますけど、やめた方が、と寿郎が念じて突っ込むけれど、ポワールは全く無視して、
「このこのっ、アタシの言いつけはちゃんと守れたのか、言ってみろっ、このおっ」
「痛いですー。人の娘になんて、なれません。私は、オランジェは、お母さんの娘です」
「公式がない、そもそも答えも変わってない、〇点だバカ娘!」
「いっぱい考えました。街の方たちに親切にして頂きました。でも、これが私の答えです」
「十点ぐらいおまけしてやる!」
 ポワールは寿郎の体で、オランジェを抱く。
 必ず迎えが来ると信じていた娘を、抱きしめる。
 約束そのもののように、強い腕で、優しい指先で。
 ポワールには、女の人の体の使い方、その積み重ねがある。
 母親は、きっと娘をこのように抱くのだと、寿郎は思った。

 そして、有料駐車場のメルセデスベンツ、Sクラスから、魔女が降りた。
 ジャケットのポケットに呑んだ、小瓶のコルクに指を掛けながら。
 人ごみを渡り、ゆっくりと歩を進めていく。

 ぽん、ぽん、と二回。オランジェの薄い背中を、ポワールは寿郎の体を使って叩いた。
 紹介するわ、とポワールは寿郎の口を借りて言い、体を離して。
「このコはアタシの娘……ほら、オランジェ、ご挨拶して」
「どなたにご挨拶をするのですか? 親切にしてくださった、この街の方たちですか?」
 オランジェはきょろきょろ、と辺りを見回し、サトムラ=キオさんがいませんと呟いた。
『え? 里村? なんで?』
 急に近しい名前が出て寿郎の困惑に拍車がかかるけれど、ポワールはうんうん、と頷き。
「そのお礼はいずれね。今は、アタシの体にご挨拶なさい。オランジェが惑わされなかった、て言うか全然気にしてない、アタシの今の体の持ち主の方にね……ちょっとは形象に惑いなさいよ、全く。形を観なくて本質だけ観てると、いつか形に逆襲されるわよ」
「すみません。でも、どのようなご挨拶を?」
「何も隠さなくていいわ」
 ポワールは軽く、そう言った。
「判りました」
「可愛くやって頂戴」
 はい、とオランジェは答え。
 ワンピースのすそを軽く持ちあげ、右の靴の爪先を小さく鳴らす一礼をした。
 バレエの、女の人のお辞儀だった。
 目をゆるく閉じ、頭を僅かに下げたまま。
「ポワール=グレイグースの娘、そしてポワール=グレイグースの妖精人形、オランジェと申します。お母さんがご迷惑をおかけしました。娘の私からも、お礼申し上げます」
 高く、透き通る声だった。
 幼く甘い声が、流暢な発音で丁寧な言葉を紡ぐ様子は確かにどこか不釣り合いで、人間離れしているけれど。
「……妖精、人形?」
 寿郎が呟く。あ、と手を当てて自分の喉を確かめる。声と体が返却されていた。
『じゃ、今度はジローね。ふつつかな娘だけど、応えてあげてくれると、嬉しいなー』
 寿郎は、えーと、と頭を掻く。急に激しく動いた事態に対して理解が追いつかない。
 一方、オランジェは急に不安そうな顔になった。
「大変です、お母さんを知りませんか? いなくなってしまいました……」
 寿郎の服の裾、ブラウスに合わせたカーディガンの袖を掴んで、見上げるように訴えてくる。オランジェが急に迷子の様子になったので、寿郎は慌てた。
「あ、いや、大丈夫だよ。キミのお母さんは……ポワールさんは、ぼくの体の中にいる」
「本当ですか?」
「本当、本当だよ。今、交代したんだ。妙な事にね、ポワールさんがぼくの体に入っちゃってて……教えてくれないかな。キミはどうやって、ポワールさんを見つけたの?」
 挨拶もまだなのに、喋っていると疑問が噴出した。ポワールは何も口を挟まない。
「お母さんが歩いてきました。だからすぐに判りました」
「ぼくの姿をしていたのに?」
「お母さんの姿ではありませんでしたけれど、話し方も、歩き方も、立ち方も、優しい目も、お母さんのものでした。だから、判りました」
「形じゃなくて、動きで判ったって?」
「動きは、魂を映します。私が観るのは、魂です」
 魂を視覚出来そうなほどに冴えた、緑の瞳が寿郎をまっすぐ、見上げてくる。
 たは、と寿郎は妙な音のため息をついた。
「本当に、ポワールさんの娘さんなんだね。何だか、言う事がそっくりだもの」
『アタシはこんなに目がよくないわよ?』
 ポワールが突っ込む。自慢の娘、と言いたげだった。
「お兄さんの、お名前を教えてください」
 オランジェは、プリーツスカートを穿く寿郎に、当たり前のように言った。
 魂は動きに現れる、か……寿郎は呟いた。形が変わっても、自分は男の子だと、この娘は見抜いてしまう。まだ、女の子になりきれていない証拠を容易く掴んでしまう。
「鳥井寿郎、と言います。キミのお母さんとは夕べ、出会って……」
 ますます判らなくなってくる事。ポワールが娘を置いて死ぬような状況とは、何なのか。立ち止りたくなるけれど、寿郎は緑の瞳に促されて続けた。
「……今朝から、ずっとポワールさんに引きまわされっぱなし。不思議な出来事だったけれど、ポワールさんが体に入って、ぼくは女の子になっちゃった。体が変わっちゃった。ぼくは、キミが今言った通り、本当は男の子なんだ」
 話すほどに、判らない事だらけだけれど、判らないままでもいいのかも知れないと思う。
 これ以上、状況にどんな要素が増えても構わない気がする。
「うちにおいでよ。ひとりぼっちは寂しいもの。キミのお母さんが一緒にいてくれると、ぼくはなんだか、楽しくなったように思う。むちゃくちゃな人だけど、でもね」
 寿郎は、つくづく自分は何でも許してしまうのだと、諦めの境地に近づいて行った。
 自分がなりたいものとは、この先にあるような気がした。
 ――この先に、待っているひとがいるのだ。
 受け容れて欲しいと願うひとが。
 認めて貰いたいと願うひとが。
 そんな、さびしいと震える魂にそっと手を伸べて、一緒に踊りたい。
 寿郎は今、とても、行動したいと思う。
 行動してこそ現れる、鳥井寿郎の存在を、力の限り発揮したいと。

「ポワールさんは、キミのお母さんは、いい人だって判るから、ぼくは嬉しいんだ。こんな素敵な出会いがあった事が、奇跡みたいだって、思うんだ……もう、何が起きても平気だよ。うちにおいでよ、子どもはお母さんと一緒が一番だよ」
「サトムラ=キオさんにも、同じ事を教えて貰いました」
「はは、その人、ぼくの友だち……でも、ザンネン。時間切れ」
『え?』
 寿郎はためらいの声を漏らす。声にはならなかった。
 ポワールが、寿郎の体と声を、躰全ての支配権を奪った。
 ありがとう、とポワールは前置きのような軽さで言うと。
「少し寝ててね。ジロー……《眠れる森の美女――カラボス》よ、オランジェ」
「判りました。お母さん」
 寿郎には訊き慣れた固有名詞だった。
 眠れる森の美女――クラシックバレエの定番中の定番だ。チャイコフスキー作曲。眠り続ける呪いを受けた姫オーロラが、茨の城で王子デジレを、目覚めのキスを待つ物語。
 カラボス――オーロラに眠りの魔法を施した、妖精の名前だ。
 幸福をもたらす六種六人の妖精と対置される、七つめの邪悪の名前。
 ポワールの視界で固定された寿郎の眼球、オランジェの様子がみるみる変わった。
 外見的に変化は何もない。
 だが、オランジェの言葉が思い出された……魂は、動きに現れる。
 指先、肘、肩、腰、膝、足首、首、頭、眼づかい……まるで、老婆のような、端的に言うなら老獪で悪賢く、またその悪意を行使する力を秘めたような、異形の動きがあった。
「さて、どうだか……いけるかな――実験、いつつ(サンク)
 くるり、とポワールが寿郎の右手の人さし指を操り、ちいさく、回す。
 くるくると、糸車が回るように。
 カラボスの呪いは、糸車を回して糸を紡ぐオーロラにかけられる。
 回る、糸車が回る。
 ゆらり、とオランジェの形をしたカラボスが右手をさしのばした。
 鉤爪のように折れ曲がった指先が――まるで振付だった、魂を現すための動きだった、寿郎の頭にかかり――寿郎は、意識が遠のくのを感じた。
 急な、抗いがたい眠気だった。
「実験、成功ね」
 眠気などまるで感じていないような、はっきりしたポワールの声が遠ざかる。
『――どうして?』
 眠いのに、泣きそうだった。
 何が起こっているのか判らない。
 でも、裏切られたような不安があった。
 それが、眠りへの最後の一線を踏み越えまいとする力になった。
 大丈夫よ、とポワールの優しい声が聴こえた。
「安心して、おやすみ……ニコイチの体じゃキスも出来ないけれど、目覚めない眠りじゃないわ。悪い夢を観る事のないように、アタシが傍にいてあげる」
 大丈夫よ、ともう一度、繰り返された。
 子どもを寝かしつける、母親の声が、酷く甘く、耐えきれなかった。
「守ってみせるわ。この魔法を――」
 その先を聞く事なく、寿郎の意識は眠りに落ち切った。
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