――カラント=ダンツカは、何度目かになるか判らない欠伸を……

文字数 1,877文字

 カラント=ダンツカは、何度目かになるか判らない欠伸をすると、刺激にも慣れ切ったフリスクを五粒ほどまとめて、口中に放り込んだ。生のミントの葉の方が好きだ、用意しておくべきだった。眠気が、刺激量に比べると悲しいほどに僅かだが退いた。
 フルスモークのフロントスクリーンの向こう。片側一車線の道路の斜め向こう岸に、置物のように少女、《緑のオランジェ》が立っている。まるで、ショーウィンドウのマネキンが、手違いで道路端に設置されているような風情。両手で提げた革のトランクが、いかにも重そう。もっと旅行者らしく振る舞えよ、とカラントは内心毒づいた。
 もう、二時間はあのままだ。
 神社の調査の後にホテルのラウンジで軽食を入れて、シトロンとカラントは別行動をとった。オランジェを追跡し、監視せよ。それが、シトロンの命令だった。
 神社に匂いのあった少年をいたぶって、なぶって、気晴らしをしたかったけれど、シトロンがそちらに回った。騎士気取りの犬女だ、いたぶりもなぶりもするまい。反吐が出る。
 追跡も何も、発見した時はすでに立ちっぱなしで身動きもしない。せいぜい監視だけさせてもらうさと、メルセデスベンツSクラスを街角の有料駐車場に入れて巣を張った次第。ケチって路上駐車にしないだけ自分は立派さ、と自嘲めいた事も考える。何しろ、夕べの事は不審火のボヤ騒ぎである。警官の眼が多くなっているぐらいは判る。身分からの偽装は充分だったが、職務質問などの煩わしい事は避けたかった。この国の警官は有能なので、始末ひとつにも面倒が付きまとう。官憲がグズで能なしなら、無法者(アウトロウ)には住みやすい世の中なのに。
 能なし、と言う言葉に重く頭を打ち振る。今朝の敗北感が胸を突いた。
 夕べ、この街で、死者も出たのにこの街の日常はいい気なものだ。盛り場の目覚めが近づく昼下がり、俄かに飲み屋の軒が、今夜の仕事の準備で活気づき始めている。市民が誰も死ななければ、死体が存在しなければ、原因不明の爆発もボヤで済む。
 別に祝祭のポワールが、ポワール=グレイグースが死んでいようが生きていようが、カラントにはどちらでも良かった。身元不明の焼け焦げた腐乱死体が、気がついた頃に上がる、それで一件が落着すると今でも思っている。今、その死体が見つからないのは木で鼻を括ったようなあの忌々しい犬女、シトロンの鼻が利かないだけだと、思っている。
 問題は、そんな事ではない。中央の処刑命令が出てから五年間も逃げ続けた魔女の死体ではない。
 夕べ死んだ三人……そのうちの二人は、この仕事で初めて顔を合わせた《姉妹》だったが、残るもうひとり。かけがえのない、たったひとり。
 カラントは、目をつむる。何も見えなくなる。ただ突っ立っているだけのオランジェの事も、どうでも良くなる。涙が少し滲んだ。余りにも、せこい涙だった。
 声を大にして泣きたい。
 完全防音の車内なら、誰にも気づかれない。
 泣いちゃおうか、と思うけれど、泣いては駄目よ、と優しく(たしな)めてくれる声が聴こえる気がして、泣かない自分をずっと愛してくれたあの人を思うと、泣き声は出なかった。
 十年、一緒にいたのだ。
 優しい人だった。
 優しく殺す人だった。
 あの人の指から滴る血を盃に受けて、迷いと共に飲み干して、あの人の妹になってから。
 迷いのない十年が足早く過ぎて。いつでも優しく殺し続けたあの人は、夕べ、死んだ。
 カラントが愛しく頬を寄せた、柔らかい腰の丸みがえぐられ、腑を撒き散らして死んだ。
 魔女とは、血と臓物にまみれて生きる運命なのだと、ただ理解した。すくんで、何も出来なかったけれど。カラントは――自分は、かけがえのない姉を見殺しにしたのだと思う。
 あの人の、夜気で冷たくなる間もない死体を担いだのは、カラントだった。
 道路に飛び散る血と腑は、小瓶の中の妖精にすすらせ、食わせた。
 そうだ。
 あの人は死んでいない。
 あの人の身肉は、妖精の糧になった。小瓶に飼う、人食いの魔物の躰になった。
 三日月にも似て、両端が裂けたような口が笑う。祝祭のポワール。
 姉の仇敵。
 だが、ポワールはもう死んでいる。
 ポワールが生きているなら、何をするか、もうカラントには判らない。
 だから死んでいろ。この復讐心をぶつけられる事もなく、のたれ死んでいろ。
 閉じた眼を開くと、オランジェは最後に観た時と何も変わらず、ただ立ちつくしている。
「泣けよ。人形」
 カラントは、唾の代わりに吐き捨てた。
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