――午前中こそ、オランジェは歩きまわり、探しまわった。

文字数 5,208文字

 午前中こそ、オランジェは歩きまわり、探しまわった。
 しかし、正午を過ぎたあたりで、その行為は無駄だと知った。
 ポワールは、もういない。
 爆炎に弾かれ、夜の闇に消えたポワールは、死んでしまった。
 助かるような傷ではない事は、彼女とともに五年を過ごしたオランジェには良く判る。
 死ぬ間際の人間が放つ、色のようなもの。オランジェはずっと、それを観てきた。
 ――人の娘におなりなさい。私の娘よ。
 最後まで、我を通した言葉だった。そんな事は出来ないと、オランジェはポワールに何度も、言ったのに。
 失血のあまり、白く微笑んだポワール。
 受け取ったものは、そんな微笑みと、遺言と、彼女の帽子。
 それらを思い出しながら、オランジェはただ、立っていた。立ちつくしていた。
「あのー、えーとね、キミ? 日本語、判る?」
 不意の言葉が、頭上から降ってくる。
 ゆっくり、見上げる。笑顔が見降ろしていた。
 体は大きいが、まだ少年だろうか、とかく笑顔が人懐っこい男の子だった。
 今朝から、何度もこの手合いには声を掛けられてきた。
 この街の人間は、親切を尊ぶ気風があるらしい。
 警官にはまだ声を掛けられていない。ただの偶然だろうけれど。
 でも、誰もポワールを連れて来てはくれなかった。
「判ります」
 今日、何度も繰り返してきた返答を、オランジェは口にした。声は、綺麗なソプラノ。
 少年が、見るからにほっと、肩で息をした。胸をなでおろすジェスチャーも大仰だ。
「ああ、良かった。言葉が通じなかったらお話も出来ないもん。ボクは里村季男。キミは?」
 いきなり名乗ったのは、これで三人目。エトウ=マゴロクと名乗る訛りの強い老人と、スオウ=キリオと名乗る少年。サトムラ=キオは三人目。
「オランジェ=グレイグースです」
「へぇ……フランスの方ですか? あ、でも名字がイギリスっぽいし……」
 何故か敬語になる里村に、オランジェは見上げる視線を全く動かさず、
「ええ。フランス系、アメリカ国籍です。日本人街の近くで育ちましたから、言葉には慣れています」
 名前からフランスと察して来たのはこれが初めて。偽装の身分を簡単に説明する。
 オランジェの視線は、里村の眼から動かない。
 人形のように、動かない。
 里村は、微動だにしない表情に気付いてか気付かずか、簡単に。
「何してるのかな?」
 と、聞いた。そして、しゃがみこみ、小さなオランジェと同じ視線の高さになる。
 オランジェは、首をゆっくり動かして、里村の顔に焦点を合わせ続けたままで。
「母を、待っています。お母さんを」
 言いなおした呼び方に、里村はふと、感じるものがあったようで、一瞬目を上向けて考えるような顔をした。
 オランジェも思わずその視線の先を追うが、里村はすぐ、オランジェに視線を戻した。
 オランジェも、里村に目を合わせる。
「ふぅん……もう、一時間ぐらい待ってる? さっき、通りがかった時からずっと立ってたから、気になってさ。旅行かな、お母さんと。この街って何にもないけどさ、温泉が街にあるぐらいが取り得だから。あーでも待てよ、五重塔建ってるし、夏ならホタルも見られるし、でっかい教会もあるし、美術館と博物館も……なんだ、意外に見所一杯だなー」
「ええ。観光です。素敵な街ですね」
 その言葉は、何度も繰り返した。
 勿論、観光のためにこの街にいるわけではなく。
 端的に、身分を怪しまれないための偽装の言葉だった。
 無残な響きだろうと、オランジェはふと、自分の言葉を評価してみる。
 無残な言葉の響きに気付いてか気付かずか、里村は一気に喋り始めた。
「ボクはさ、友だちを待ってる所。未来のロックスター、こーちゃんって言うんだけどね。ロッカーは時間にルーズな生きモンだって、遅刻する度にイイワケして、こーちゃんって酷くない? あんまり遅いんでさっき本屋で立ち読みして、居づらくなったから戻ってもまだ来てないの。まったくさー、《ゴドーを待ちながら》、じゃないんだから。知ってる?」
「こーちゃん、と言う方は知りませんが、《ゴドーを待ちながら》なら知っています」
「凄い。えーと、何歳ぐらいの人なのかな?」
「《ゴドーを待ちながら》の作者のサミュエル=ベケットは、八十三歳で亡くなりました」
 表情を変える事のないオランジェの言葉に、里村は一瞬、ぽかんとして、それから両掌をぱたぱたと振った。
「あ、いやいやいや、そうじゃない、そうじゃなくて! でも凄いね、キミはいくつ?」
「十二歳になります」
 勿論偽装だ。オランジェの本当の年齢は、五歳だ。
「へぇ……いやあ、実はボクは読んだ事ないんだけどね。舞台も観た事ないし。大好きなまんがのネタっていうかさ、ちょっと調べたぐらいなんだけどね」
「《ゴドーを待ちながら》。その戯曲が出版された年は、一九五二年。初演は一九五三年のパリです。物語の説明は、必要ですか?」
 オランジェの唇が、偽装ではないデータを流々と語り、説明の承認を迫った。里村は、うーん、と首を傾げて、
「物語って言うほどのもの、あったんだっけ……男が二人、ゴドーさんを待っている。待てど暮らせど、ゴドーさんは、こない……確か、これで充分だよね」
「説明として簡単ですが、その通りです」
「待ちぼうけー、待ちぼうけー、今日もゴドーさんは来ないー……ッてなもんだね」
「その歌は、山田耕筰(やまだこうさく)作曲の《待ちぼうけ》のメロディラインです」
「……この歌、そんな人が作ってたんだ。てっきり(たき)廉太郎(れんたろう)かと思ってた」
「二〇世紀、満州国建国の折り、満州国の児童唱歌にと作曲されました。作詞は北原白秋、モチーフは法家(ほうか)の思想書、韓非子(かんびし)の教訓の一つ、『守株待兎(しゅしゅたいと)』です。滝廉太郎について、説明は必要ですか?」
「いや、滝廉太郎はイイや。キミは何でも知ってるね、凄い凄い、すンごい!」
 楽しくなったらしく、里村は手を叩いて喜んでいる。
 オランジェは、表情を変えず、里村の喜ぶ様を、動く細い眼を観ていた。
 きっとさ、と楽しくなって笑いさえ浮かべた声で、里村は言った。
「ゴドーを待ってる男二人も、こんな感じなら、退屈しないんだろうね」
「でも、ゴドーは来ません」
「ありゃ、そうだった。ゴドーは来ないんだった。こーちゃんも来ないし……参ったね。でも、キミが待ってるのはお母さんだもの。絶対に、来るよ」
「……来ないかも、知れません」
 偽装されない一言を、里村は簡単に受けて立った。しゃがんだままで、同じ目線で。
「来るってば。お母さんは、子どもを絶対、迎えに来る生き物なの。子どもならみんな知ってる。子どもはみんな、信じてる。そうだよね?」
「そうかも、知れません」
「そうそう、そうなのよ。キミはお母さんを信じてる。ボクはこーちゃんに不信を抱く。でも結局、両方来るの。約束って、そういうものなんだ。待つ人と待たれる人が、結びあうものなんだ。ボクはそう思う」
 独りで生きろ、とポワールに約束を押し付けられたと、オランジェは言えなかった。
 約束って言葉だけでもないしね、と里村は長い科白を〆た。
「――どういう事ですか?」
「え? 何が?」
 質問を、オランジェはしていた。
 何も考えていない里村は、勿論頭上に綺麗な『?』マークを飛ばした。
「ですから、『約束って言葉だけでもないしね』の意味です」
 里村の口調を完全にコピーして再生し、オランジェは問う。
 里村は、にっこり、笑った。
「キミ、本当に面白いね。劇団の人だったり……あ、いや、立ち入った事を聞くつもりはないんだけど、でもね。約束って、『これをお願いします』『来てください』、『やっとくよ』『迎えに行くよ』、とかさ。そんな言葉のやりとりだと思うでしょ? ボクは、それだけじゃないと思うんだ」
「『依頼と遂行』のモデル以外に、約束の意味を満たすモデルがありえるのですか?」
 オランジェの表情は、初めて里村を観た時と何も変わらない。
 でも、里村は、キミは素直な子だね、と言ってから。
「生まれた時から人間は、約束で出来てるんだよ。ボクの体全部が、約束なんだと思う」
「何故ですか?」
「だってボクは、世界中に対して、生きていたいですって体、というか存在全て、生きてるって状態で表現してるんだもん。ほら、言葉じゃなくても、世界はボクの存在を汲んでくれる。ボクを生かしてくれる。ボクと世界の関係が成立する。お前は要らんので消しゴムで消してやる、と世界がボクの抹殺に掛かる事はないもの。まぁ、生かしてくれるだけかも知れないけどね、充分だよ」
 底抜けの楽観主義に裏打ちされた言葉だった。
 オランジェは、里村の眼を観たまま。
「世界に殺される人は、何人もいます」
「えっ? いるの? 世界が消しゴム持って襲ってくるの?」
「世界と言う言葉の基準をどこに置くかによります。組織や、社会、国家。人間の集団を世界と呼ぶなら、世界に殺される人は幾らでもいます」
 冬の気温に晒された白磁の器のように、冷たく硬い言葉だった。
 里村は、相槌も打たずに簡単に。
「ならキミのお母さんは、キミを殺す世界の人? キミを消しゴムで消したいと思う人?」
 きょとんとしているのは里村だ。
 きょとんとしてしまったのは、オランジェだった。
 里村は、オランジェの表情が動くのを初めて観た。
 里村は、馴れ馴れしいにっこり笑いを、また満面に浮かべた。
「ほら、大丈夫だ。キミとお母さんは、約束って物質で出来ている」
 論理が力いっぱい跳躍し楽観主義が現実にとって代わるような、そんな強い言葉だった。
「形のない約束だけでも強く結びあうんだから。きっとキミの心は届いて、形を結ぶのさ」
『存在』は『信じる』と言う心で出来ている。
 信じる心は、存在を上回り奇跡を起こす。
 里村はそんな風な事を、信じ切っているのだ。
「《本質》と《形象》による世界の解釈と似ています。妖精の在り方、妖精の感受、妖精の承認と同じです」
 オランジェは、そんな事を言った。
 うん、と里村は頷く。
「ティンカーベルは、手を叩いて信じて貰えないと消えちゃうんだよね。ピーターパンだ。人間だって同じだよ。キミは、お母さんを信じていて、手を叩きたいと思ってるんだ」
 オランジェは小さな胸に手を当てて一瞬俯き、そうして大切なものが胸に宿っている事を確認したように、里村をまた真っ直ぐに観た。
「私は、待っていたい……信じなくなったら本当に、お母さんはいなくなってしまう」
 里村は、またもにっこり笑った。
「そうそう、子どもはお母さんといるのが一番だよ」
「――何をしている?」
 え? と里村が笑顔もそのまま、しゃがみこんだまま振り向いた矢先――。
 すぱん! と軽快な音を立てて、斜め上から斜め下に抜けるスラッシュ的打法のツッコミが、里村の頭頂部に決まった。
 うおおお、痛い……と里村が頭を抱え、オランジェははっきりと慌てた。あの、暴力は良くないと思います、とたどたどしく呟くけれど、里村も甲賀も聞いていない。
 ギターソフトケースを担いだ甲賀が、この馬鹿、と吐き捨て、オランジェに目を留めた。
 外国人の、それも精緻な人形のような容貌のオランジェに、う、と息を飲んで。
「……だ、大丈夫か? 怖くなかったか? この馬鹿、口八丁でいい加減な事ベラベラと、どうせまたお前は、可愛い幼女を観るとすぐ!」
「なんだよぉ、同好の士のクセしてぇ」
「ばっか! このタコ! いっぺん死ね! 俺は同年代かお姉さん系が好みなんだ!」
「いたい、痛い! 何度も叩くなって! あ、紹介します、これがこーちゃんです。ほら、こーちゃん来た来た、遅刻したけどちゃんと来た」
「うっさい! 遅刻したのはお前だろうが! 待ち合わせ場所にいなかっただろうが!」
「最初に来たのはボクだよお、五分待って来ないからあ」
「俺時間は十分後まで許容範囲だ! ほら、何でもいいから行くぞ。黒崎も来るっつーし、場所取りしねーとよ」
 甲賀が里村の首根っこを掴んで、ずるずると曳き回す勢いで連れていく。うーげー、と呻きながら里村が曳かれていく。
 オランジェは、大きく声を出した。
「――あの!」
 ふたりが、立ち止った。
 オランジェに、表情が通っていた。
 アドリブの瞬間にどきどきする、子役のような顔だった。
 迷子の顔ではなかった。
「ここは、素敵な街です。だって、ゴドーを待つのが、楽しいから」
 里村は親指を力いっぱい立て、ちょっと黄色い歯を剥いた笑顔で応えて曳かれていった。
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