――『それはそうと、お腹すいたわね』

文字数 4,006文字

『それはそうと、お腹すいたわね』
 ……と、自分を幽霊のようなものと断じた女、ポワール=グレイグースが言った。
 ベッドに腰掛けてポワールを観ていた寿郎は、不思議な気持ちになる。確かに、寿郎もひと騒動終わって気が抜けたせいか空腹を覚えていた。時計を一瞥、学校に行くまでは、朝の支度にしてもまだ時間があるな、とぼんやり思いながら疑問点。
「確かにお腹すきましたけど……幽霊って、物を食べるんですか?」
『ジローがお腹すくとアタシもすくのよ、多分。五感が繋がってるから、寿郎が食べたらアタシも食べたって気になる筈だし……でもどうだろ? ジローが食べたり飲んだりする訳で、アタシとジローの感受性、満腹感に誤差があったりして……だとしたら問題よね』
 うーん、と真面目に考え込むポワールに、寿郎はそんなに悩むような事かな、と思った。
『ジローはどれぐらい量を食べる人?』
「え? ……ひと並、かな?」
『昼食にスパゲッティを食べようと思います。何グラムぐらい茹でる?』
「ひと掴みが、これぐらいだから……八〇グラム以下、だと思いますけど?」
 ジローが作る人差し指と親指のリングの細さを観たポワールはまばたきをひとつして。
 がくり……床にくずおれて膝と掌を突く、フリをした。
 世界は滅んだ、俺は地獄の敗残兵だ、と例えられようか、希望のない真っ暗の声だった。
『……細い』
「な、何が?」
『……ジローの食が細いのよーっ!』
 赤い髪を振り乱してがんがんと、ハンマーのように床に頭を打ちつける、フリ。
 寿郎はポワールの剣幕に思いっきり退()いたけれど、慌てて、
「やめてください、何がいけないんですか!」
 くわっ! と目力を込めてポワールは顔を上げ、寿郎を睨んだ。
『今日のお茶菓子はケーキにしようと思います! 何ホール食べる!?
「ほ、ホール? ……ピースをひとつ、ゆっくり削りながら、お茶を飲みます」
『ケーキ食べてないじゃーんっ! お茶が主役じゃんんーっ!』
 がんがんがん、と音も鳴らない床への頭突き、のフリ。
 なのに、頭蓋骨がフローリングを打撃する音が聴こえるようだった。
 まっすぐな単拍子が聴こえる、物を食えない魂の切ないビートがまざまざと響いている。
 餓鬼畜生とはこれ。
 人間の本性とはまさにこれ。
 寿郎は思わず哀れを覚えたので。
「……いいですよ、合わせますから。ほら、胃袋って誰でも大きくなるって言うし、少しずつ慣らしていけば……」
『駄目よ! 許可出来ません、お姉さんは許しません!』
 そこは否定するのね、と寿郎がたじろぐが、ポワールはすらりと立ち、オーバージェスチャーな女教師のように人差し指を立ててぶんぶん振る。
『いい? 人間の体のバランスってのはそれはもう、個人個人で異なっているものなの。代謝、体温、体格、内臓機能、筋肉の機能、運動量、食事量、生活態度、その他様々、幾つもの個人的要素が絡み合った果てに太るの痩せるのの議論が成立する! 真に普遍化されたダイエットはあり得ない! ジローは体重を一キロ絞るために苦労したことある!?
「ありませんけど?」
『この理想的な体内バランスめがーっ!』
 そう言うあんたの生前も痩せ型だったじゃないか、と寿郎は思ったけれど、餓鬼畜生、と哀れんだのが不味かったのか、ゾンビの形相でポワールが寿郎に掴みかかってきた。きゃあと思わず女の子の声が出て身を翻して避けると、ポワールは無様にベッドに頭から突っ込んで突っ伏した。
 生ける屍は一度倒れたぐらいでは死なないのがお約束。避けた拍子に立った寿郎は、ベッドに倒れるポワールの背中を見降ろし、ゆっくり後ずさり。
 しかし、である。寿郎は思った。
 突っ込んだ拍子にベッド自体にポワールが埋まってしまわないのは、きっと楽しんでやってるからなのだろうなと。
 おろろーん。おいーおいおいおいーおいー……おろろーん。
 見え見えなほどに見え透いている嘘泣きが聴こえた。
 ため息ひとつ。
「つまり、ぼくが太るのは嫌なんですね」
 嘘泣きが止んだ。
 こくこく、とベッドに顔をうずめたフリをしながら、ベッドのマットレスと重なってしまわないように、器用にポワールが頷いた。
 何だか、一分(いちぶ)の隙もなく決まり過ぎたお芝居のようで、寿郎はちょっとだけ、ポワールの思惑に乗ってみようと思った。台詞劇は寿郎の専門外だけど。
 ポワールはきっと、こう聞いて欲しいと思っていると。
「なんで、ぼくが太るのがそんなに嫌なんですか?」
 ポワールは、堂に入った沈黙をまず、返してきた。
 寿郎は、待たなくてはならない。沈黙を味わわなくてはならない。
 ポワールの沈黙が意味するものは困窮ではなく、沈黙自体が彼女の意図だからだ。
 次に絶対このひと、とんでもない事を言うぞ、とへそに力を込めて寿郎は待った。
 くるり、とベッドに体を預けたフリのまま、ポワールの首がめぐって寿郎と眼があう。
 やっぱりニヤッと笑ってる……と言う所まで寿郎は読んでいたが。
『お人形遊びは、女の子の花だもの』
「……はい?」
 意味が判らない。寿郎はきょとんと小首を傾げる。
 ポワールは、はふぅ、と胸に手を当ていきなり悶え始めた。両の瞼は、感無量を現す顔文字のようにギュッと力いっぱい結ばれていた。
「いいわー、その動き、その仕草。お人形さんって感じよねー。何と言う幸運、僥倖、アタシは期せずして、最高のお人形さんを手に入れた!」
 寿郎は、だんだん話が見えてきた。
 ろくでもない事を話だと言う事が判ってきた。
 こほん、と喉仏がなくなってつるりとした喉を、敢えて太目に鳴らす。
「……それで? ぼくを人形に見立ててどうしようって言うんです?」
『まず、生活を管理するわ。人形はお手入れが大切だもの』
 ポワールの即答、かつ断言だった。
 ポワールの癖なのだろう、寿郎は段々理解してきた。この女は、熱弁を振るうと長い。そんな、長くなりそうな話が口火を切ろうとした瞬間。
「お断りします」
『……ええー?』
 出鼻をくじかれて、ポワールは思いっきり不満そうな顔と声。
 寿郎は、はあ、とため息をついてから息を吸い、気合を充填して、即座に放つ。
「ぼくを何だと思ってるんですか!」
『独り暮らし中に、女の子になってしまった可哀そうで可愛い男の子よね』
 けろっとポワールがとんでもない弁を返す。寿郎は、今の生活について説明した覚えはなかった。一瞬でも動揺が心中に走る。もしや、寿郎はポワールの心を読めないが、ポワールは寿郎の心を読めるのではないか、それを寿郎に隠していたのではないかとの疑惑が。
「な、何で……独りだって……」
 ニヤ、とポワールが満足そうに笑う。
 そして長台詞をゆうゆうと、差し込んできた。
『観察に基づく単純な推理って奴よ、ヘイスティングス大尉。十六歳のジローがこんな早朝から大声で何度も怒鳴っていても、家中に物音ひとつ動きがない。その理由は、家族がたまたま不在か、それともジローが今独り暮らしか、どちらかになるわね。本当に家族が寝てる可能性は論外ね。ジローは家族に遠慮するタイプだと観たから、誰かいるならアタシに怒鳴らないと思うし』
 ヘイスティングスタイイって誰だと寿郎は混乱、ポワールは容赦なく続けた。
『アタシとしては是非後者、独り暮らしであって欲しかったから、そうならいいなーって希望を述べただけなのよ? ジローが認めてくれたから、裏付けが取れた格好ね。素直なコは大好きよ。ほんと、食べちゃいたいぐらい』
 ひ、ひ、ひ、と区切って笑う、魔性の哄笑が〆た。
 とても些細な事だが、嵌められた事に寿郎は愕然となった。
『日本じゃ、こう言うの《死神の鎌が首筋にかかる》、っていうんでしょ?』
「違います! 《かまをかける》、っていうんです!」
『知ってるわ。ほら、ジローは素直ないい子ね~』
 おおよしよし、とポワールは立ちあがって、寿郎の頭を優しくなでるフリ。
 実際に触れていないのに、撫でられてもいないのに、優しい顔をした魔性の手触りが感じられるようで、寿郎はポワールを指差し、
「魔女ーっ!」
『ハロウィン終わっちゃったけど、魔女っ娘の服とかもいいわよね!』
 寿郎の心からの絶叫に重ねて、ポワールは本性的な欲望を剥き出しにした。
 その欲望とは、衣服が、とても重要であると顔に描いてあった。
『アタシ、憧れていたのよ? 日本には素晴らしいものがある、それは魔女っ娘アニメ! 地球全域をお花畑にする勢いでアタシに甘い夢を届けてくれた魔女っ娘たち! 日本の人は判ってる、女の子とは衣装が重要、華やかな装いは女の子の心性の外部化、魂の表現型に他ならないって事を! ああだめ、いけないわ、嗜好の一本化には早すぎる、色々試してみなくては勿体なくてお化けが出るわ。フリルは基本だけれど、敢えてそれを捨てた挑戦も良いわよね、ジローの魂はどんな服を求めているのかしら、ふくらみのあるもの? それともシャープに際立つもの? あああ着せたい、着せ換えたい、髪をすいて、お化粧をしましょう、美しく咲くわ、可愛く羽ばたくのよ、折角女の子になったんですもの、色々と遊ばなくちゃ、花の命は短いの、過ぎ去ってからではもう取り返しがつかないの、まばたきをするほどに綺麗になるわ、アタシが保証する、だってジローはこんなにも、こんなにもお人形さんみたいな女の子なんですものーっ!』
 百面相どころか物の怪のような顔面だった。見開かれた両目、その瞳孔が開いていた。
 寿郎は、真に恐怖した。
 恐怖の表情は、何故か笑い泣きだった。
「いやーっおかーさーんっ変な人がいるうううーっ!」
 室内から三軒先まで届く魂の咆哮だった。
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