――ううん、と呻いて毛布を……
文字数 9,417文字
ううん、と呻いて毛布を手繰り寄せて体を丸める。
寿郎は、何だか熱っぽいな、と思った。風邪でも引いたかもしれない。
ゆうべ、雨に濡れて帰ってきたっけ、とぼんやり思い出す。
外はまだ微かに明るい程度、目覚まし時計の電子音を聞いた覚えはない。なんだか胸が一杯で、もう少し寝ていようと寝がえりを打って、もう一度呻いた。
「……うん?」
耳までおかしくなったかも知れない。
何だか、自分の声がいつもより高い気がする。音楽の授業の合唱でパートはテノールで、員数合わせで女声のアルトに駆り出される事もあるとはいえ、地声の低さぐらい判っている。毎日聞いている声だもの。だから、寿郎は違和感を覚えた。
とくんとくん、と心臓が、早めに鼓動しているのが判った。
そっと、薄いパジャマの上から心臓を確かめてみようと掌を当て――。
柔らかかった。
「うわあ!」
たちまち毛布をけっ飛ばして跳ね起きる。
「もにゅ? もにゅってなった、もにゅって!」
高くなった声が叫ぶ。何て事を叫んでるんだぼくは、寿郎は頭をくしゃくしゃと掻き、髪が妙にさらさらする気もしたが、気のせいだと念じて。
「落ち着け、落ち着け……こう言う時は、そう、『人』って字を掌に書いて飲む」
言い訳がましい自己確認。やはり声が高いままだった。
自分の声に耳を貸さずうつむき、掌を観ると、視界の端に膨らんだ胸が映った。
細い指先が、胸に吸い込まれて、つんと押してしまい。
じわっと、体の芯から未知の感覚が染み出し、五体が細く震える。
吐く息も震える。
かわいらしく申し訳程度に膨らんだ胸も震えている。
震えて砕けた腰が抜けて、ぱたりと仰向けに、ベッドに倒れた。
天井が見える。寿郎の部屋の、壁紙の継ぎ目まで完全記憶している見慣れた景色。
首を巡らせる。寿郎の部屋だ。片付けが行き届いた、寿郎の性格を端的に表す部屋。
つまり、ここは自分の部屋で、自分は鳥井寿郎、十六歳、男である筈だ。
なのに今日の今までぴったりと、全体的に薄い寿郎の体を包んでいた、特売品で一年間愛用のコットンのパジャマ、その胸元と尻と太股が、少しきつかった。
全体的に、体が丸みを帯びてきたような。
呆然と、アルトどころかメッツォ、頑張ればソプラノまでカバーできそうな声で呟く。
「……どういう事?」
『もう朝ァ? まだ早いわよ。寝ててよねー』
声がした。
寝ぼけた様子が酷く甘ったるい、まるで砂糖とカカオがそれぞれたっぷりのチョコレートのような、大人の女の声だった。
『こちとら大流血かまして大変だったんだからさー、寝ろ寝ろ、お休みーっと』
「誰だーっ!」
またも跳ね起き、矢も盾もたまらず叫んだ。
「あなたは誰だーっ!」
もともと凄味とかドスの効いたとか、そう言う形容詞がまるで似合わない寿郎である。声が高くなると余計にそんなものとは無縁になったが、叫ばずにはいられない。
あたりを見回す、毛布を引っぺがす、どこにいるのだと探すが、寿郎の部屋はそんなに広くない。むしろ狭いと言っていい。人ひとりが隠れる事など困難である。
聞こえた声の近さ、すぐそばにいる筈なのに、どこにもいない。
どこにもいない女が、怒鳴んないでよねー、とまた眠そうに口を利いた。
『で、何だって? ――あ? ……アタシぃ?』
やはり、いる。どこにいるのか判らないが確かに、いる。
固唾をのんで、音源を見極めようと耳を傾け意識を凝らした寿郎だったが、んっふっふ、とふざけたような甘い笑い声がどこからともなく発して、
『アタシは誰なんでしょーねェ?』
「なんだそれーっ!」
『アタシの事なんてどーでもいーわ。キミの事が知りたいなー』
「鳥井寿郎 っ! 十六才、男っ! 答えたから、ぼく答えたから教えてよ! どこにいるの、あなたは誰なの!」
発見し次第掴みかからんばかりの寿郎の剣幕を楽しそうに受けた女が、優雅な発音で、
『Oui 、ジロー。礼儀正しくて結構けっこう。お姉さん好きよそーゆーの。アタシはね……ん? あり?』
柔らかい訛り、フランス語っぽい発音だな、と寿郎が感じた声が違和感に立ち止り。
『ないわ』
――ない。
何かの不在を示す言葉。
寿郎は恐ろしい事に気がついた。
最初に考慮するべきだった。
あって当たり前だと思っていた。
下腹部に手を伸ばして触れようとした。
血の気が引く。
ないものは、恐怖で収縮もしないのだった。
「……ない」
『そうよ、ないわ』
「なくなってる」
『なくなってるわね、嘘ォ。やっだ、なにこれ』
「ぼくの、ぼくの……」
『アタシの体がないじゃない』
今更寿郎は気がついたけれどもう、どうでもいい事のように思えた。
女の声は頭の中から聞こえてくるのだと言う事。そんな事よりも。そんな事よりもだ。
「ぼくのがないよ!」
『アタシの体もないわ! ……って、ジローは何がないのよ?』
「……えっ?」
急に冷静さに立ち返る女の声に寿郎は言い淀んでしまって、もじ、と両足の間に座る女性特有の座り方になった。
「あー、その……あのですね、何と言いましょうか、ええと……」
言い難い。とても、説明しにくい。
『何か失くしちゃった? 落としちゃった?』
急に親身になった声がちょっと可愛いと寿郎は思ったけれど、余計に困る状況であった。
「落ちた、のかな……どこにあるんだろう」
落ちたと口にして、気が遠くなるような話だった。茫漠と考える、探してくっつけたら治るのだろうか。まさかと思い付きに首を振る。昔話の瘤取り爺さんじゃあるまいし。
なら、体をなくしても口を利くこの女を、何と説明する。
『ねえ? ね? それがないと困るの? アタシのせい? 悪いことしちゃった?』
「だから、ですね、それほど深刻でもないと言いましょうか……なくなっても、膨らんだりしたし……」
『膨らむ? どこが? 腫れたの?』
「いや、その、あのー……もうやめましょうよこんな話!」
ばんと寿郎はベッドのマットレスを叩く。恥ずかしくて顔面から火が出そうだった。
ええー? と女は不満そうな声。追及がしつこい。
『なんでよー、なんでやめるのよ』
「これ以上言わせないで下さいよ……もうやだあ!」
枕をわしっと掴んで顔の熱さに押し付ける。ぐりぐりぐりぐり、押し付ける。
『思考停止は良くないわよ? いついかなる時も、観察、考察、判断、行動。生き残る秘訣はまず、良く観て、しっかり考える事よ。オーソドックスだけど一番大切……って、枕どけなさい、前が見えないじゃないの』
「やだやだ! これは夢だ、夢なんだ! 眼が覚めたらいつも通りなんだ、ちゃんとあるんだ、ないことなんてないんだ!」
『前が見えないったら、何よもう、小娘みたいに駄々るんじゃないの! しっかりしなさい、男の子でしょ!』
「男の子なのに女の子になっちゃったんです!」
口にしてしまえば、何ほどの事もなかった。
全然平気。
だからどうした。
膨らんだ胸を張って、丸みを帯びた腰に手を当てて、堂々と生きていけるような気がした……なんて事はなかった。
心境はむしろ、全くの逆。
全てが崩れ落ちたような気がした。
目眩がした。
もう駄目だ、いっそ死のうと、どこかで聞いたような劇的な独白 が頭の中で反響した。
モノローグも可愛くなってしまった女の子の声。男の子の頃の声を、もう思い出せない。
大切なものを失ったと寿郎は思った。
「……うえええん……」
泣き声まで女の子、寿郎の絶望を煽る高い声。学校の倫理の授業で聞いた、死に至る病は絶望である、キルケゴールがそう言ったと、倫理教師の氷上が言った。キルケゴールって何だか髭とか髪とかが尖がってそうな名前だよね、あと氷上先生禿げてる、と脈絡のない事を考えて授業など上の空だった。ごめんなさいキルケゴール、ごめんなさい氷上先生、髪とか髭とか尖がってるかもしれないヨーロッパのおじさん。あと、禿げてる氷上先生。あなたの言った事は本当だった。
女の子になった寿郎の肉体が、女の子の泣き方でべそべそぐすぐすと、顔に押し付けたままの枕を涙で濡らしていた。
女はしばらく黙っていたが。
『うーん』
と、無遠慮に唸る。
寿郎にとっての大事件をまるで斟酌しないようなマイペースな声で。
『だから……今はこう、だから、こうなって……うーん』
寿郎も全く、女の唸りを斟酌せずに泣いていた。
『よし……これなら、どうかな?』
何がどうだっていうのだ。寿郎は腹が立ってきた。
『あ、出来た。はーい、見える?』
「真っ暗に決まってるでしょう!」
『じゃ、枕取ってみようかしらね』
「もう嫌です、なんにも見たくない!」
『ままま、そう言わずにさー、お嬢さん。ほれほれ、ほーらほら』
「うるさい、ばか!」
軽口とお嬢さん呼ばわりに怒り心頭、枕を投げた。
枕が血みどろの女の頭に当たった、筈だった。
なのに、枕は女の背後の勉強机に命中した。
――つまり。枕が、女の体を、すりぬけた。
根性無しなりに沸騰した怒りの熱が、一気に氷点下まで下がった。
せこい涙も涙腺が凍ったように止まった。
血まみれの女が掌をひらひら。ニヤと笑っていた。
髪も、顔も、服も、体中が、血をたっぷり浸した巨大な筆で殴ったように斑 に赤い。
机から落ちたペン立てと、鉛筆が転がる乾いた音を背景に、
『どお? 感動のご対面 』
寿郎の口は、ぱくぱく、酸素の薄い水中の鯉のようにぱくぱく。
あとずさろうとして、また腰が抜けて、女の子座りのまま力なくひっくり返る。
胸が痛い。
呼吸が出来ない。
『こらこら、ちゃんと息して、深呼吸して』
血が滴る口元を近づけて、女がぬっと覗き込んでくる。女は浮いている。幽霊のように。心臓が止まりそうだ。寿郎は生まれて初めて幽霊を認識した。詰まった喉が声を絞り出す。
「お、おっ……おばけ!」
『ハイその調子、呼吸して、息吸ってー、平常心が大切よ』
「血、血がいっぱい、沢山出てる!」
『あ? 血ィ? ……ありゃいけねっ。間違えた……イメージを取り直して、と』
女は大量の流血にそぐわない軽い仕草で己の無惨な姿を一瞥するや否や、タイミング計算を間違えたアニメのように、服が漂白され、体中の血が一滴残らず消え失せた。
『これならどう?』
仰向けの寿郎と対面する形で浮いている女が、ウインクして腰をくねらせた。
赤い髪、灰色の瞳。白い肌。ブラウスとタイトスカートで簡素に、しかし上品に包まれた体は寿郎より背が高い。すらりとした骨格は、いかにも日本人離れしていた。何歳なのか良く判らない、大人の女の人。
そんな事は重要ではないと思う。寿郎は、この女の人を観た事がある、と思った。どこでだったか、血まみれ……血まみれと言う状況がひっかかり、つばを飲んだ。
「夕べの、死んじゃった人?」
『そうね。アタシは夕べ、死んじゃったみたい』
酷く軽く、女が肯定する。
そして、続けた。
『で、キミは、アタシを看取ってくれた綺麗な男の子、ってワケね。ジロー』
フランス名のようにジローと発音し、灰色の瞳が興味深々と寿郎の瞳を覗き込んでくる。
整った頬のラインを少しだけ釣り上げ、にゅーっと笑いながら。
寿郎は、堪らず眼を逸らした。何故だろう、胸の中が一杯だった。
悲しいのか、そうではないのか、良く判らない。考えられない。考えたくない。
悲しかったのに。
悪い夢のようだったのに。
なのに、女は笑っていて。
おやおや? と女が顔を寄せてくる。動作がいちいち馴れ馴れしい。綺麗とか、綺麗じゃないとか、ぶつぶつと寿郎は口の中で呟いて。
「……ぼくもう、男の子じゃ、男じゃなくなっちゃったし」
『何でかしらねー。アタシもびっくりよ。ま、ジローが可愛いままで良かったけどね』
「ひとごとみたいに言わないでください」
外した視線を再び合わせて睨む。
女は寿郎の恨みがましい視線を真っ直ぐ、受け取った。
『確かにね。ひとごとなんかじゃ、ないわ……よねっ!』
急に女の姿が寿郎の目の前から消えた。
消えた、と思う間もあらばこそ。
寿郎の右手が勝手に動いた。
「……えっ?」
寿郎は、自分の右手を動かそうとはしていなかった。
『実験成功ゥ~……へっへっへ~』
いかにも悪者が悪だくみして、悪事を行おうとする時の笑い声。
寿郎の右手が勝手に、ぐーとぱーを何度か繰り返し、左手も動いた、体が起き上がる。手を添えず、腹筋だけを使って。
「あのっちょっとっ?」
『うっわー、ナニコレ。すっごい軽いわー。体が軽い、こんなにすいすい動くの初めて。やっぱ、運動してる人って違うのねー。ジローはダンサーだもんね』
「いや、そうですけど最近は、じゃなくて何をしようって……わーっやめてーっ!!」
『では実験――ひとつ ッ!』
寿郎の腕が、寿郎の意思に反して、寿郎の胸のふくらみを微かに、実に含みのある微かさで、ゆっくり、たっぷりと、撫で上げた。
「――ッッッ!」
寿郎の息が詰まった。
先ほども感じた未知の感覚だ。
男の子が普段意識しない肉体の部位、その部位が持つ機能としての感覚。
一撃されて腰が砕けた。足の爪先までが凝固する。反面腰ががくがくと抜けそうになり、しかし倒れまいと耐えているのは寿郎の意志ではなかった。
女は、んーっ、と嬉しそうに声を低く震わせて。
『……若いわ』
「な、何が言いたいんですか!」
『アタシがジローの体を、コントロール出来るって事よ。そしてっ!』
更に寿郎の手が胸に伸びる。寿郎は反射的に強く、抵抗しようと、腕を止めようとした。
腕が止まった。
やった、と寿郎はほっとする。
『――気を抜くんじゃないの、はッはァーっ!』
止まった腕が急に動き、殴りつけるような乱暴さで胸に伸び、むんずとふくらみを掌に収めていた。
もみもみ、揉みしだく。
寿郎は頭が早々と真っ白になった。
女は、勢いに乗っていた。乗りに、乗っていた。
『このようにっ、両者のっ、体を動かそうとする意思が拮抗した時っ、最終的な行動の主導権は意思力の強い一方に、決する! 修行が足らなくってよ、若い若い、若いわーッ!』
もう勝手にしてください。
あなたが何を言っているのかもうぼくにはわかりません。
寿郎の真っ白くなった意識がもみもみと、もみもみと揺れていた。
『……あらら、もうへにゃへにゃ? やり過ぎちゃったわね、ごめんごめん』
女の意識が寿郎の手を、寿郎の胸から離す。
ぐったりしているのに体が倒れる事を許さないとは、酷く拷問なのだなと寿郎は思った。
女は続ける。
『今の実験結果を鑑みるに、アタシとジローは五感を共有しているけれど、感受性は別々である事も判るわね。何よもう、初めてだからってすっごい気持ちよさそうに』
けらけらと女が笑う。寿郎はぜーはーと、女の子の喉を鳴らして太い息をした。
「――お……犯されるかと、思いました」
『そお? して欲しかったみたいだったけど?』
「……ぼくの体の中に入ってるんでしょ! それぐらい判って下さいよ!」
叫んでみて、あっ、と声が漏れる。
女が、まるでニヤと笑ったように間があった。
『そう、気付いたみたいね。ふたつ ……お互いの思考は共有されない。感覚は共有されるけれど、それを解釈する心、感受性が異なるように、お互いが思った事は直接、お互いの心に伝わらないのね。アタシは、声に出して喋るつもりで、こうやってジローと話してるんだけど……アタシは今、朝ごはんについて考えました。何が食べたいと思ってるかな?』
いきなり質問を振られたので寿郎は慌てて、思い付いたまま口早に。
「トーストと、コーヒー。目玉焼きとサラダ」
『ザンネン。クロワッサンとカフェオレとオレンジよ。定番で悪いけど』
「あ、冷蔵庫にありますクロワッサン。オレンジは無いけど、みかんなら……」
『わお! 幸運!』
跳びあがらんばかりに喜ぶ女は、そのまま寿郎の体を奪ってベッドの上をぴょんと飛んだ。寿郎は、酷く雑な体の動かし方で、でも本当に喜んでる人の動きだと思った。何だかそんなに喜ばれるとは思ってなかったので、
「コンビニのパンだからそんなに美味しいものじゃないですけど……みかんも――」
みかん。
美甘。
寿郎は、ふと思い当って口を噤んだ。女はその隙を見逃さない。
『ミカンがどうしたの? 古くて痛んでるっぽい?』
「あ、いや、みかんの話じゃなくて、ですね、その……ぼくの体からあなたが、幽霊みたいに出ていけるって話なんですけど」
寿郎は心に浮かんだ懸念を封じ、話をすり替え、誘導してみた。
『現状について考える気になったのねぇ。お姉さん嬉しいわー、うんうん』
気付かれなかったらしい。本当に、両者の思考は共有されていないようだ。
ええと、何が言いたかったんだっけ、と呟き、口から出まかせた事を整理する。
「つまりですね……ぼくの体から出ていけるなら、それでいいんじゃないかなって」
『それは、どういう事かなー?』
失言だったと思う。受け取り方によっては即刻、体から出ていけ、とも取れる。んー? と女は続きを待つ。傷ついたり、癇に障ってはいないらしい。
「あの、だから……もし、ですよ。あなたがぼくの体に入った事で、ぼくが女の子になったとしたら、ですね。あなたがぼくの体から出て行った時は、ぼくは男の子に、男に戻れるんじゃないかなって、そう思って」
考えた事をちゃんと話せたと思ったけれど、何か居心地の悪い、突拍子もない事を喋ってしまったような気もした。
女はさくりと指摘する。
『ジローが女の子になった理由があたしの存在にある、って仮定から入ってて、論理に飛躍があるけど、まあ何事も、やってみましょうか。実験、みっつ 』
すらりとした女が、寿郎の体と重なって現れ、そして離れた。
ふわふわと浮く。おばけ、幽霊とは半透明のような固定観念があるが、寿郎の眼には生身の肉体を持つ物体のように、女がはっきりと見えた。重力を無視して、膝を組んで座った状態で浮いているけれど。
『んー。ザンネン。やっぱり外から見ると、ジローは女の子のままね。本人的にはどう? ほれほれ、また胸を揉んでみ?』
わきわき、と妖しい手つきでジェスチャーする女に思わず顔を赤らめて、
「胸の話はいいじゃないですか! ……触らなくたって、判りますよ。変わらないって事」
触らずとも判る。ぼくのは、相変わらず、無いのだった。
鳥井寿郎は、女の子になってしまった。
冗談みたいだ。
――冗談だって? 片肘を抱く、二の腕が柔らかい。
体の細胞が、血が肉が腑 が骨が、全てが女の子に置換されたのだと寿郎は思い知る。
「……どうしたら、いいんだろう」
途方に暮れない声で言えただろうか……駄目だよね。寿郎は伏せた眼を瞑った。
どうしたらいいんだろう。
最近、こればっかりだ。
踊る事も。ついには、生きる事も。
女は寿郎を観て、ふむ、と少しだけ重いと感じる息をついて。
『そうね。どうしたら……いいのかしらね』
女は足を崩し、床に立つフリをした。上半身をだらりと下げて、足元に転がっている鉛筆を手に取ろうとしたが、指先は鉛筆をすり抜け、触れる事が出来ない。
『どうしたらいいか判んない時は、さ……鉛筆拾って欲しいなー』
何言ってんだろうこの人、と寿郎が女を観ると、甘えた笑顔で寿郎を手招きしていた。
寿郎はベッドから降りて、女が指でしつこいぐらいのジェスチャーで示す鉛筆に触れた。
そして、もうすっかり方法を心得た女が寿郎の体に重なる。
『体と鉛筆と紙、借りるわよ。あー、白い紙ある? 白紙』
「ルーズリーフなら、机の引き出しの一番上に……」
『じゃ、ポルノグラフィは一番下の引きだしなのね』
「そんなのそこにはありません!」
『ははーん?失言 。じゃあ、この部屋のどっかにあるのねー?』
B5のルーズリーフを束から一枚引きだしながら女が笑う。
「どうしてそんなデリカシーのないことばっかり!」
『だってアタシ大人だもーん。大人は切なくエロスを持て余して生きてんの。死んだけど』
「そんな中学生みたいな大人……幻滅です」
げんなりと肩を落としたい所だったけれど寿郎の体は、愛 を持て余しているらしい女が支配しているので、肩は落ちない。
女は鉛筆をルーズリーフに走らせ始めた。
――ゆう合ごのよう点。
鉛筆の芯を眺めていると文章が現れた。
不思議な形をした平仮名と、観るからに不案内な漢字がトッピングされた、不思議な悪筆だった。
「……漢字、書けないんですか?」
『うっ……うっさいな! 日本語って難しいのよ!』
意地になった女がを荒げて恥ずかしそうに乱暴に、鉛筆の尻の消しゴムで文字を消す。思わず寿郎はくすりと笑った。
素直じゃないなあ。
「漢字を使わず、全部平仮名で書くといいですよ」
『……生意気ぃ~。胸揉むぞ、このーっ』
本気で悔しがっているので、寿郎は女の事を、何だか許せてしまった。
「単語と単語の間に、少し隙間を挟むと読みやすいです」
句読点は忘れてもらった方が良いだろう。代筆しようかな、とも思ったけど、この女は自分で書きたいのだから、手は出さなかった。
自分の手が、自分の心とは裏腹にむっつりとした動きで鉛筆を走らせていくのは妙な気分だった。
さっきより、よほど寿郎には読みやすくなった。
『アタシたちの状態について判った事は、逐一書いていこうと思うのよね』
鉛筆を机に置いて、体の主導権を寿郎に返しながら女が言う。
『この紙に書いてある事が、アタシたちのルールってわけ』
「そのうち、ルールなんて当たり前になっちゃって、読み返さなくなりそうですけど」
寿郎は、家電の取扱説明書は使用前に一度眼を通し、後は困った時にしか読み返さない。
『基本は大切だわ。ルールが存在する以上、ルールの隙を突いて裏を掻けるかも知れない。基本を意識し続ける事はとても大切。ジローは、元の体に戻りたい?』
さっきまで寿郎の胸を強引に揉んだり、些細な事で意地を張ったりしても、今、女の声はとても理性的で、医師や学者のようだった。その声に、まるで計算式の解を求める、『= 』そのもののような声の色に。
どうしたらいいんだろうと、さっき呟いたばかりの寿郎の唇が。
「――戻りたいです」
自然と、答えていた。
可愛くなってしまった、女の子の声で。
――叩けよ、されば開かれん、と女が微笑む吐息が聴こえた。
『きっと文中に、答えが隠されている筈よ』
ルーズリーフには、小学生のような平仮名で横書きに、こうある。
寿郎は、何だか熱っぽいな、と思った。風邪でも引いたかもしれない。
ゆうべ、雨に濡れて帰ってきたっけ、とぼんやり思い出す。
外はまだ微かに明るい程度、目覚まし時計の電子音を聞いた覚えはない。なんだか胸が一杯で、もう少し寝ていようと寝がえりを打って、もう一度呻いた。
「……うん?」
耳までおかしくなったかも知れない。
何だか、自分の声がいつもより高い気がする。音楽の授業の合唱でパートはテノールで、員数合わせで女声のアルトに駆り出される事もあるとはいえ、地声の低さぐらい判っている。毎日聞いている声だもの。だから、寿郎は違和感を覚えた。
とくんとくん、と心臓が、早めに鼓動しているのが判った。
そっと、薄いパジャマの上から心臓を確かめてみようと掌を当て――。
柔らかかった。
「うわあ!」
たちまち毛布をけっ飛ばして跳ね起きる。
「もにゅ? もにゅってなった、もにゅって!」
高くなった声が叫ぶ。何て事を叫んでるんだぼくは、寿郎は頭をくしゃくしゃと掻き、髪が妙にさらさらする気もしたが、気のせいだと念じて。
「落ち着け、落ち着け……こう言う時は、そう、『人』って字を掌に書いて飲む」
言い訳がましい自己確認。やはり声が高いままだった。
自分の声に耳を貸さずうつむき、掌を観ると、視界の端に膨らんだ胸が映った。
細い指先が、胸に吸い込まれて、つんと押してしまい。
じわっと、体の芯から未知の感覚が染み出し、五体が細く震える。
吐く息も震える。
かわいらしく申し訳程度に膨らんだ胸も震えている。
震えて砕けた腰が抜けて、ぱたりと仰向けに、ベッドに倒れた。
天井が見える。寿郎の部屋の、壁紙の継ぎ目まで完全記憶している見慣れた景色。
首を巡らせる。寿郎の部屋だ。片付けが行き届いた、寿郎の性格を端的に表す部屋。
つまり、ここは自分の部屋で、自分は鳥井寿郎、十六歳、男である筈だ。
なのに今日の今までぴったりと、全体的に薄い寿郎の体を包んでいた、特売品で一年間愛用のコットンのパジャマ、その胸元と尻と太股が、少しきつかった。
全体的に、体が丸みを帯びてきたような。
呆然と、アルトどころかメッツォ、頑張ればソプラノまでカバーできそうな声で呟く。
「……どういう事?」
『もう朝ァ? まだ早いわよ。寝ててよねー』
声がした。
寝ぼけた様子が酷く甘ったるい、まるで砂糖とカカオがそれぞれたっぷりのチョコレートのような、大人の女の声だった。
『こちとら大流血かまして大変だったんだからさー、寝ろ寝ろ、お休みーっと』
「誰だーっ!」
またも跳ね起き、矢も盾もたまらず叫んだ。
「あなたは誰だーっ!」
もともと凄味とかドスの効いたとか、そう言う形容詞がまるで似合わない寿郎である。声が高くなると余計にそんなものとは無縁になったが、叫ばずにはいられない。
あたりを見回す、毛布を引っぺがす、どこにいるのだと探すが、寿郎の部屋はそんなに広くない。むしろ狭いと言っていい。人ひとりが隠れる事など困難である。
聞こえた声の近さ、すぐそばにいる筈なのに、どこにもいない。
どこにもいない女が、怒鳴んないでよねー、とまた眠そうに口を利いた。
『で、何だって? ――あ? ……アタシぃ?』
やはり、いる。どこにいるのか判らないが確かに、いる。
固唾をのんで、音源を見極めようと耳を傾け意識を凝らした寿郎だったが、んっふっふ、とふざけたような甘い笑い声がどこからともなく発して、
『アタシは誰なんでしょーねェ?』
「なんだそれーっ!」
『アタシの事なんてどーでもいーわ。キミの事が知りたいなー』
「
発見し次第掴みかからんばかりの寿郎の剣幕を楽しそうに受けた女が、優雅な発音で、
『
柔らかい訛り、フランス語っぽい発音だな、と寿郎が感じた声が違和感に立ち止り。
『ないわ』
――ない。
何かの不在を示す言葉。
寿郎は恐ろしい事に気がついた。
最初に考慮するべきだった。
あって当たり前だと思っていた。
下腹部に手を伸ばして触れようとした。
血の気が引く。
ないものは、恐怖で収縮もしないのだった。
「……ない」
『そうよ、ないわ』
「なくなってる」
『なくなってるわね、嘘ォ。やっだ、なにこれ』
「ぼくの、ぼくの……」
『アタシの体がないじゃない』
今更寿郎は気がついたけれどもう、どうでもいい事のように思えた。
女の声は頭の中から聞こえてくるのだと言う事。そんな事よりも。そんな事よりもだ。
「ぼくのがないよ!」
『アタシの体もないわ! ……って、ジローは何がないのよ?』
「……えっ?」
急に冷静さに立ち返る女の声に寿郎は言い淀んでしまって、もじ、と両足の間に座る女性特有の座り方になった。
「あー、その……あのですね、何と言いましょうか、ええと……」
言い難い。とても、説明しにくい。
『何か失くしちゃった? 落としちゃった?』
急に親身になった声がちょっと可愛いと寿郎は思ったけれど、余計に困る状況であった。
「落ちた、のかな……どこにあるんだろう」
落ちたと口にして、気が遠くなるような話だった。茫漠と考える、探してくっつけたら治るのだろうか。まさかと思い付きに首を振る。昔話の瘤取り爺さんじゃあるまいし。
なら、体をなくしても口を利くこの女を、何と説明する。
『ねえ? ね? それがないと困るの? アタシのせい? 悪いことしちゃった?』
「だから、ですね、それほど深刻でもないと言いましょうか……なくなっても、膨らんだりしたし……」
『膨らむ? どこが? 腫れたの?』
「いや、その、あのー……もうやめましょうよこんな話!」
ばんと寿郎はベッドのマットレスを叩く。恥ずかしくて顔面から火が出そうだった。
ええー? と女は不満そうな声。追及がしつこい。
『なんでよー、なんでやめるのよ』
「これ以上言わせないで下さいよ……もうやだあ!」
枕をわしっと掴んで顔の熱さに押し付ける。ぐりぐりぐりぐり、押し付ける。
『思考停止は良くないわよ? いついかなる時も、観察、考察、判断、行動。生き残る秘訣はまず、良く観て、しっかり考える事よ。オーソドックスだけど一番大切……って、枕どけなさい、前が見えないじゃないの』
「やだやだ! これは夢だ、夢なんだ! 眼が覚めたらいつも通りなんだ、ちゃんとあるんだ、ないことなんてないんだ!」
『前が見えないったら、何よもう、小娘みたいに駄々るんじゃないの! しっかりしなさい、男の子でしょ!』
「男の子なのに女の子になっちゃったんです!」
口にしてしまえば、何ほどの事もなかった。
全然平気。
だからどうした。
膨らんだ胸を張って、丸みを帯びた腰に手を当てて、堂々と生きていけるような気がした……なんて事はなかった。
心境はむしろ、全くの逆。
全てが崩れ落ちたような気がした。
目眩がした。
もう駄目だ、いっそ死のうと、どこかで聞いたような劇的な
モノローグも可愛くなってしまった女の子の声。男の子の頃の声を、もう思い出せない。
大切なものを失ったと寿郎は思った。
「……うえええん……」
泣き声まで女の子、寿郎の絶望を煽る高い声。学校の倫理の授業で聞いた、死に至る病は絶望である、キルケゴールがそう言ったと、倫理教師の氷上が言った。キルケゴールって何だか髭とか髪とかが尖がってそうな名前だよね、あと氷上先生禿げてる、と脈絡のない事を考えて授業など上の空だった。ごめんなさいキルケゴール、ごめんなさい氷上先生、髪とか髭とか尖がってるかもしれないヨーロッパのおじさん。あと、禿げてる氷上先生。あなたの言った事は本当だった。
女の子になった寿郎の肉体が、女の子の泣き方でべそべそぐすぐすと、顔に押し付けたままの枕を涙で濡らしていた。
女はしばらく黙っていたが。
『うーん』
と、無遠慮に唸る。
寿郎にとっての大事件をまるで斟酌しないようなマイペースな声で。
『だから……今はこう、だから、こうなって……うーん』
寿郎も全く、女の唸りを斟酌せずに泣いていた。
『よし……これなら、どうかな?』
何がどうだっていうのだ。寿郎は腹が立ってきた。
『あ、出来た。はーい、見える?』
「真っ暗に決まってるでしょう!」
『じゃ、枕取ってみようかしらね』
「もう嫌です、なんにも見たくない!」
『ままま、そう言わずにさー、お嬢さん。ほれほれ、ほーらほら』
「うるさい、ばか!」
軽口とお嬢さん呼ばわりに怒り心頭、枕を投げた。
枕が血みどろの女の頭に当たった、筈だった。
なのに、枕は女の背後の勉強机に命中した。
――つまり。枕が、女の体を、すりぬけた。
根性無しなりに沸騰した怒りの熱が、一気に氷点下まで下がった。
せこい涙も涙腺が凍ったように止まった。
血まみれの女が掌をひらひら。ニヤと笑っていた。
髪も、顔も、服も、体中が、血をたっぷり浸した巨大な筆で殴ったように
机から落ちたペン立てと、鉛筆が転がる乾いた音を背景に、
『どお? 感動のご
寿郎の口は、ぱくぱく、酸素の薄い水中の鯉のようにぱくぱく。
あとずさろうとして、また腰が抜けて、女の子座りのまま力なくひっくり返る。
胸が痛い。
呼吸が出来ない。
『こらこら、ちゃんと息して、深呼吸して』
血が滴る口元を近づけて、女がぬっと覗き込んでくる。女は浮いている。幽霊のように。心臓が止まりそうだ。寿郎は生まれて初めて幽霊を認識した。詰まった喉が声を絞り出す。
「お、おっ……おばけ!」
『ハイその調子、呼吸して、息吸ってー、平常心が大切よ』
「血、血がいっぱい、沢山出てる!」
『あ? 血ィ? ……ありゃいけねっ。間違えた……イメージを取り直して、と』
女は大量の流血にそぐわない軽い仕草で己の無惨な姿を一瞥するや否や、タイミング計算を間違えたアニメのように、服が漂白され、体中の血が一滴残らず消え失せた。
『これならどう?』
仰向けの寿郎と対面する形で浮いている女が、ウインクして腰をくねらせた。
赤い髪、灰色の瞳。白い肌。ブラウスとタイトスカートで簡素に、しかし上品に包まれた体は寿郎より背が高い。すらりとした骨格は、いかにも日本人離れしていた。何歳なのか良く判らない、大人の女の人。
そんな事は重要ではないと思う。寿郎は、この女の人を観た事がある、と思った。どこでだったか、血まみれ……血まみれと言う状況がひっかかり、つばを飲んだ。
「夕べの、死んじゃった人?」
『そうね。アタシは夕べ、死んじゃったみたい』
酷く軽く、女が肯定する。
そして、続けた。
『で、キミは、アタシを看取ってくれた綺麗な男の子、ってワケね。ジロー』
フランス名のようにジローと発音し、灰色の瞳が興味深々と寿郎の瞳を覗き込んでくる。
整った頬のラインを少しだけ釣り上げ、にゅーっと笑いながら。
寿郎は、堪らず眼を逸らした。何故だろう、胸の中が一杯だった。
悲しいのか、そうではないのか、良く判らない。考えられない。考えたくない。
悲しかったのに。
悪い夢のようだったのに。
なのに、女は笑っていて。
おやおや? と女が顔を寄せてくる。動作がいちいち馴れ馴れしい。綺麗とか、綺麗じゃないとか、ぶつぶつと寿郎は口の中で呟いて。
「……ぼくもう、男の子じゃ、男じゃなくなっちゃったし」
『何でかしらねー。アタシもびっくりよ。ま、ジローが可愛いままで良かったけどね』
「ひとごとみたいに言わないでください」
外した視線を再び合わせて睨む。
女は寿郎の恨みがましい視線を真っ直ぐ、受け取った。
『確かにね。ひとごとなんかじゃ、ないわ……よねっ!』
急に女の姿が寿郎の目の前から消えた。
消えた、と思う間もあらばこそ。
寿郎の右手が勝手に動いた。
「……えっ?」
寿郎は、自分の右手を動かそうとはしていなかった。
『実験成功ゥ~……へっへっへ~』
いかにも悪者が悪だくみして、悪事を行おうとする時の笑い声。
寿郎の右手が勝手に、ぐーとぱーを何度か繰り返し、左手も動いた、体が起き上がる。手を添えず、腹筋だけを使って。
「あのっちょっとっ?」
『うっわー、ナニコレ。すっごい軽いわー。体が軽い、こんなにすいすい動くの初めて。やっぱ、運動してる人って違うのねー。ジローはダンサーだもんね』
「いや、そうですけど最近は、じゃなくて何をしようって……わーっやめてーっ!!」
『では実験――
寿郎の腕が、寿郎の意思に反して、寿郎の胸のふくらみを微かに、実に含みのある微かさで、ゆっくり、たっぷりと、撫で上げた。
「――ッッッ!」
寿郎の息が詰まった。
先ほども感じた未知の感覚だ。
男の子が普段意識しない肉体の部位、その部位が持つ機能としての感覚。
一撃されて腰が砕けた。足の爪先までが凝固する。反面腰ががくがくと抜けそうになり、しかし倒れまいと耐えているのは寿郎の意志ではなかった。
女は、んーっ、と嬉しそうに声を低く震わせて。
『……若いわ』
「な、何が言いたいんですか!」
『アタシがジローの体を、コントロール出来るって事よ。そしてっ!』
更に寿郎の手が胸に伸びる。寿郎は反射的に強く、抵抗しようと、腕を止めようとした。
腕が止まった。
やった、と寿郎はほっとする。
『――気を抜くんじゃないの、はッはァーっ!』
止まった腕が急に動き、殴りつけるような乱暴さで胸に伸び、むんずとふくらみを掌に収めていた。
もみもみ、揉みしだく。
寿郎は頭が早々と真っ白になった。
女は、勢いに乗っていた。乗りに、乗っていた。
『このようにっ、両者のっ、体を動かそうとする意思が拮抗した時っ、最終的な行動の主導権は意思力の強い一方に、決する! 修行が足らなくってよ、若い若い、若いわーッ!』
もう勝手にしてください。
あなたが何を言っているのかもうぼくにはわかりません。
寿郎の真っ白くなった意識がもみもみと、もみもみと揺れていた。
『……あらら、もうへにゃへにゃ? やり過ぎちゃったわね、ごめんごめん』
女の意識が寿郎の手を、寿郎の胸から離す。
ぐったりしているのに体が倒れる事を許さないとは、酷く拷問なのだなと寿郎は思った。
女は続ける。
『今の実験結果を鑑みるに、アタシとジローは五感を共有しているけれど、感受性は別々である事も判るわね。何よもう、初めてだからってすっごい気持ちよさそうに』
けらけらと女が笑う。寿郎はぜーはーと、女の子の喉を鳴らして太い息をした。
「――お……犯されるかと、思いました」
『そお? して欲しかったみたいだったけど?』
「……ぼくの体の中に入ってるんでしょ! それぐらい判って下さいよ!」
叫んでみて、あっ、と声が漏れる。
女が、まるでニヤと笑ったように間があった。
『そう、気付いたみたいね。
いきなり質問を振られたので寿郎は慌てて、思い付いたまま口早に。
「トーストと、コーヒー。目玉焼きとサラダ」
『ザンネン。クロワッサンとカフェオレとオレンジよ。定番で悪いけど』
「あ、冷蔵庫にありますクロワッサン。オレンジは無いけど、みかんなら……」
『わお! 幸運!』
跳びあがらんばかりに喜ぶ女は、そのまま寿郎の体を奪ってベッドの上をぴょんと飛んだ。寿郎は、酷く雑な体の動かし方で、でも本当に喜んでる人の動きだと思った。何だかそんなに喜ばれるとは思ってなかったので、
「コンビニのパンだからそんなに美味しいものじゃないですけど……みかんも――」
みかん。
美甘。
寿郎は、ふと思い当って口を噤んだ。女はその隙を見逃さない。
『ミカンがどうしたの? 古くて痛んでるっぽい?』
「あ、いや、みかんの話じゃなくて、ですね、その……ぼくの体からあなたが、幽霊みたいに出ていけるって話なんですけど」
寿郎は心に浮かんだ懸念を封じ、話をすり替え、誘導してみた。
『現状について考える気になったのねぇ。お姉さん嬉しいわー、うんうん』
気付かれなかったらしい。本当に、両者の思考は共有されていないようだ。
ええと、何が言いたかったんだっけ、と呟き、口から出まかせた事を整理する。
「つまりですね……ぼくの体から出ていけるなら、それでいいんじゃないかなって」
『それは、どういう事かなー?』
失言だったと思う。受け取り方によっては即刻、体から出ていけ、とも取れる。んー? と女は続きを待つ。傷ついたり、癇に障ってはいないらしい。
「あの、だから……もし、ですよ。あなたがぼくの体に入った事で、ぼくが女の子になったとしたら、ですね。あなたがぼくの体から出て行った時は、ぼくは男の子に、男に戻れるんじゃないかなって、そう思って」
考えた事をちゃんと話せたと思ったけれど、何か居心地の悪い、突拍子もない事を喋ってしまったような気もした。
女はさくりと指摘する。
『ジローが女の子になった理由があたしの存在にある、って仮定から入ってて、論理に飛躍があるけど、まあ何事も、やってみましょうか。実験、
すらりとした女が、寿郎の体と重なって現れ、そして離れた。
ふわふわと浮く。おばけ、幽霊とは半透明のような固定観念があるが、寿郎の眼には生身の肉体を持つ物体のように、女がはっきりと見えた。重力を無視して、膝を組んで座った状態で浮いているけれど。
『んー。ザンネン。やっぱり外から見ると、ジローは女の子のままね。本人的にはどう? ほれほれ、また胸を揉んでみ?』
わきわき、と妖しい手つきでジェスチャーする女に思わず顔を赤らめて、
「胸の話はいいじゃないですか! ……触らなくたって、判りますよ。変わらないって事」
触らずとも判る。ぼくのは、相変わらず、無いのだった。
鳥井寿郎は、女の子になってしまった。
冗談みたいだ。
――冗談だって? 片肘を抱く、二の腕が柔らかい。
体の細胞が、血が肉が
「……どうしたら、いいんだろう」
途方に暮れない声で言えただろうか……駄目だよね。寿郎は伏せた眼を瞑った。
どうしたらいいんだろう。
最近、こればっかりだ。
踊る事も。ついには、生きる事も。
女は寿郎を観て、ふむ、と少しだけ重いと感じる息をついて。
『そうね。どうしたら……いいのかしらね』
女は足を崩し、床に立つフリをした。上半身をだらりと下げて、足元に転がっている鉛筆を手に取ろうとしたが、指先は鉛筆をすり抜け、触れる事が出来ない。
『どうしたらいいか判んない時は、さ……鉛筆拾って欲しいなー』
何言ってんだろうこの人、と寿郎が女を観ると、甘えた笑顔で寿郎を手招きしていた。
寿郎はベッドから降りて、女が指でしつこいぐらいのジェスチャーで示す鉛筆に触れた。
そして、もうすっかり方法を心得た女が寿郎の体に重なる。
『体と鉛筆と紙、借りるわよ。あー、白い紙ある? 白紙』
「ルーズリーフなら、机の引き出しの一番上に……」
『じゃ、ポルノグラフィは一番下の引きだしなのね』
「そんなのそこにはありません!」
『ははーん?
B5のルーズリーフを束から一枚引きだしながら女が笑う。
「どうしてそんなデリカシーのないことばっかり!」
『だってアタシ大人だもーん。大人は切なくエロスを持て余して生きてんの。死んだけど』
「そんな中学生みたいな大人……幻滅です」
げんなりと肩を落としたい所だったけれど寿郎の体は、
女は鉛筆をルーズリーフに走らせ始めた。
――ゆう合ごのよう点。
鉛筆の芯を眺めていると文章が現れた。
不思議な形をした平仮名と、観るからに不案内な漢字がトッピングされた、不思議な悪筆だった。
「……漢字、書けないんですか?」
『うっ……うっさいな! 日本語って難しいのよ!』
意地になった女がを荒げて恥ずかしそうに乱暴に、鉛筆の尻の消しゴムで文字を消す。思わず寿郎はくすりと笑った。
素直じゃないなあ。
「漢字を使わず、全部平仮名で書くといいですよ」
『……生意気ぃ~。胸揉むぞ、このーっ』
本気で悔しがっているので、寿郎は女の事を、何だか許せてしまった。
「単語と単語の間に、少し隙間を挟むと読みやすいです」
句読点は忘れてもらった方が良いだろう。代筆しようかな、とも思ったけど、この女は自分で書きたいのだから、手は出さなかった。
自分の手が、自分の心とは裏腹にむっつりとした動きで鉛筆を走らせていくのは妙な気分だった。
さっきより、よほど寿郎には読みやすくなった。
『アタシたちの状態について判った事は、逐一書いていこうと思うのよね』
鉛筆を机に置いて、体の主導権を寿郎に返しながら女が言う。
『この紙に書いてある事が、アタシたちのルールってわけ』
「そのうち、ルールなんて当たり前になっちゃって、読み返さなくなりそうですけど」
寿郎は、家電の取扱説明書は使用前に一度眼を通し、後は困った時にしか読み返さない。
『基本は大切だわ。ルールが存在する以上、ルールの隙を突いて裏を掻けるかも知れない。基本を意識し続ける事はとても大切。ジローは、元の体に戻りたい?』
さっきまで寿郎の胸を強引に揉んだり、些細な事で意地を張ったりしても、今、女の声はとても理性的で、医師や学者のようだった。その声に、まるで計算式の解を求める、『
どうしたらいいんだろうと、さっき呟いたばかりの寿郎の唇が。
「――戻りたいです」
自然と、答えていた。
可愛くなってしまった、女の子の声で。
――叩けよ、されば開かれん、と女が微笑む吐息が聴こえた。
『きっと文中に、答えが隠されている筈よ』
ルーズリーフには、小学生のような平仮名で横書きに、こうある。