――美甘の迎えが遅い。
文字数 10,803文字
美甘の迎えが遅い。
寿郎は一階のリビングで、コーヒーを淹れる事にした。
ドリッパーをマグに乗せて、フィルターをかけて、粉のコーヒーをひと匙。
『アタシ、濃い目がいいなー』
無言で、もうひと匙。とんとんと、ドリッパーを軽く叩いて粉を平らにならす。
ヤカンで沸かしたマグ一杯分の湯。まずは、ドリッパーにそろりと垂らし、コーヒーを湿らせて蒸らす。
三十秒ぐらい適当に数えよう……とした所で、手がいきなり動いた。ヤカンで、繊細に湯を僅かばかり垂らすのは、ポワールの意思。
『もう少しだけお湯足した方がいいかも。しっかり蒸らすと味も香りも濃くなるわ』
「苦すぎるのは嫌いです」
寿郎は不機嫌な声を出した。
『なら、カフェオレにしましょ? 牛乳、あるわよね』
「低脂肪なら」
『……ぶー。乳脂って体にいいのよー? 美味しいし』
「カロリーを抑えるのも健康的です」
『あんまり摂取カロリー気にしすぎると、人生までげっそり、無味乾燥しちゃうわよ?』
「ぼくの体のライフスタイルですから。家計も節約しないといけませんから」
『しっかりしてんのねえ……ほら、そろそろ頃合いよ』
ポワールに促され、寿郎はヤカンをゆっくりと回しながら、湯を垂らすように注いでいく。ドリッパーに泡が立つ。香りも、立ち昇っていく。
『上手ぅ。専用のポットでもないのにバーマンみたい』
「独り暮らしが長いと誰でもこうなります。それにポワールさんだって、慣れてるし」
『お互いに優雅な独身生活ってワケね。二、三年ってとこ?』
ふふん、とポワールが楽しそうに笑い、やおらドリッパーをマグから降ろした。
「え? まだ量が……あと、何が二年とか、三年とか?」
『独り暮らしの年数。何だか色々慣れてるっぽいもの、昨日今日でも、一年でもなさそう……って、アタシは独り暮らしっていわないか。あのコ言い付け守れてるかしら……まーとにかく、コーヒーってのは抽出しはじめがいっちばん、美味しいんだから』
体とお勝手、勝手に借りまーす。ポワールは独り言を塗り隠すように冷蔵庫から低脂肪乳のパックを取り出し、半分しかコーヒーが入っていないマグになみなみと満たした。
『電子レンジの魔っ法。マイクロウェイーブ照射っ』
謎の旋律で歌うように、マグを加熱。
『ご両親のお仕事の都合で、独り暮らし。ジローはバレエを踊る人だから、教室に通うためにここに残った、ってとこでしょ』
「……どうして判るんです?」
『与えられた状況から推理すればおのずとね、判るわ。そこまで本格に踊るなら、コンクールとかに一丁、攻め込んだりしないの? パリ、ワガノワ、ヴァルナ、ローザンヌ、モスクワ。世界がジローを呼んでるわよ?』
「詳しいですね……その筈、だったんですけどね」
寿郎は、落胆が一周して呆れに変じたような、開き直った声になった。
そうとも、次こそ世界、ローザンヌの筈だった。ローザンヌ国際バレエコンクール 。
「勘違いしないで下さいね。ポワールさんには関係のない、女の子になる前の事です」
『ふぅん。じゃ、その話は追い追いと……お茶菓子ある? 甘いのがいいな』
寿郎は、ふと意地悪をしたくなった。しれっと、答えてみる。
「ありますよ? 戸棚の中、ああ、そこです」
『ショコラかなー? サブレでもいいわ~』
システムキッチンの戸棚をポワールが楽しそうに開けると、そこあったものは、クラッカーが一袋、だけだった。
『……なにこれ?』
「由緒正しい日本の美味しいクラッカー。前田のクラッカーです」
寿郎は、このクラッカーの飾り気も無駄もない、確かな味わいが好きだ。
『……ディップとか、チーズとか、クリームとか、ジャムとか……ある?』
「ありません」
ポワールは面白いほど沈んで、してやったりと寿郎はちょっとだけ、あくどい笑みを浮かべた。
「優雅な独身生活のお供です」
電子レンジが電子音を鳴らす。二杯分のコーヒーを使って、マグ半分の量しか抽出しない、とても贅沢な寿郎とポワール合作のカフェオレが完成した。
コーヒーに砂糖を入れないのは寿郎とポワールの共通の趣味だった。
低脂肪乳で薄めている筈なのに、コーヒー豆のエキスそのものといったような、強烈な風味が寿郎の眼球を熱くする。毎日何気なく使っている安価なコーヒーと同じものと、寿郎には思えない。思わず声が出る。
「……わぁ」
『うん、今日のコーヒーは良く出来た。ジローの腕がいいからよね』
さくさく、と貨幣 のように小さなクラッカーをふたつみっつ、まとめてポワールが寿郎の手を借りて齧る。んー、と咀嚼しながらポワールは熟考し、
『これ、結構イケるわね。すいすい食べられて、クセになりそう。ミルク系と相性いいし。こうなると何かにつけてみたくなるわね。もっと美味しくなるわよ、絶対』
「ぼくはこのままが好きですけどね」
『ふうん。日本の人って、クラッカーをオセンベイみたいに食べるのね』
「いや、少数派だと思いますよ? クッキーとかビスケットが好まれるのかも」
一つの体でふたりが、どうでもよさそうな茶飲み話をしながら、同じマグと同じ菓子盆でおやつのひと時。
体の貸し借りに断りもなく、自然にシェアしながら。
寿郎は、カフェオレで口中のクラッカーを湿らせて、嚥下してから。
「何だか、同じ体にふたりって事に、馴染んじゃいましたね」
寿郎が息をつくと、コーヒーの風味が鼻腔に抜けた。
『そうね。ずっと、このままがいい?』
あっさりと、突然に、ポワールはそんな事を言う。寿郎は、別にポワールが目の前にいる訳でもないのに、眼を伏せた。
「……ポワールさんの言う事は、いつも突然です。突然で、極端で……」
『じゃ、ひとつ突然で極端な小話をしてあげよっかな』
寿郎は唇を軽くでも、噛んだ。
五感を共有しているポワールに、唇の感覚が伝われと願いながら。
寿郎の体に重なったままで、きっと唇に歯の圧力を微かに感じながら、ポワールはそうね、と前置きして。
『アタシは見つけたのよ。判ったの』
嫌な予感に吸い寄せられるように。
「……なんです?」
恐る恐る、訊き返してしまう。
ポワールは、即答した。
『アタシを消す方法よ』
とても簡単な物言いだった。
その方法の実行が、とても簡単であるかのように。
『そして、ジローが元に戻る方法でもあるわ』
黒い粒子が這い上がるように、寿郎の肌が泡立つ。気が遠くなりそうだった。
ポワールを消す方法。
寿郎が元の体に戻る方法。
どちらも、主語があるようで、ない。
誰が、ポワールを消すのか。
誰が、寿郎を元に戻すのか。
その主語がない。
ポワールは続けた。寿郎の覚える悪寒など、共有されていないかのように。
『アタシがジローの中から綺麗サッパリいなくなる方法。これはすっごく、簡単な事なの。今日一日がウソみたいに、ジローが男の子に戻れちゃうの。それはジローが、今すぐにでも出来ちゃう事。聞きたい?』
寿郎、と、主語が提示された。
試すような、ポワールの言葉だった。
寿郎は、試されていると思った。自分にとってポワールが必要であるかどうかと。
いや、そうではなく、もしかしたらと思う。
ポワールが試しているのは、寿郎の心根であって、そうではないのかも知れない。
方法自体を試しているのかも知れない。
今正に、この時にでも実行可能な方法は、この会話によって発効するのではと。
寿郎の返答次第で、その方法は実行に移るのではないかと。
掌が冷たかった。寿郎は、マグで掌を温めるように、両掌で強く握った。
「……聞きたく、ないです」
眼を伏せたまま絞り出す声は細く、かすれてしまっていた。
『……なら、考えてみて? 出来るでしょ?』
ポワールが、寿郎の座る椅子の隣に、そっと立つフリをしたのが判った。
試すような、しかし優しい顔をしているのが、判った。
ポワールはさきほど、自分が妖精になった、と確信を得たらしい。
まるで、クラシックバレエが語る御伽噺 のようだ、と寿郎は思う。
クラシックバレエの代表的な演目の多くは、古い御伽噺 を語る。白鳥に変えられた娘、魔女の呪いを受けた眠り姫、くるみ割り人形と少女の恋、大いなる神へ捧げられる生け贄の娘……人と人ならざる者が絡み合うお話が多いと思う。
ポワールとは、《ジゼル》なのかも知れない。
ヒロインのジゼルは第一幕で恋敗れて、悲しみの内に死んで、第二幕から水の妖精 になるが、妖精ではなく水の霊と解釈する人もいる。幽霊とも妖精とも、解釈する振付家 や踊り手 によって定義が変わるほどの、曖昧な存在。
ただ、ジゼルが肉体を失う事だけは変わらない。
どれほど軽やかに踊ってもジゼルとは、質量や速度とは最も縁遠いものだ。体重さえ感じさせてはならない、この世にあるのに、この世にいないものでなくてはならない。
どんなに騒がしくて、楽しい人でも、もう肉体がないポワールと同じように。
ジゼルを縛る存在の矛盾が、ポワールを縛っている。
そんなポワールに、寿郎は何をしているのだろう。
何もしていないようなものだ。
願っている事は、本当にひとつだけなのだ。
寿郎は、ポワールに、いて欲しい。
消えて欲しくなんかない。
ジゼルのように、朝日の中に儚く、消えて欲しくなんかない。
判っている。ポワールが消える方法なんて、とっくに判っている。
そうでしか元の体に戻る事が出来ないなんて、ひどい、あんまりだと思う。
寿郎が、今の寿郎と、反対の事をすれば良いだけなんて。
寿郎の耳朶にかかるような、柔らかい吐息が聴こえた。
『……はい、時間切ぃ~れっ!』
ポワールは、寿郎に重なると、手をむんずと操り、クラッカーをひとつかみ。
豪快に寿郎の口に詰め込んだ。
「――むぐっ!」
寿郎が慌てて噛む。小食の寿郎は口いっぱいに頬張る行為に慣れていなくて焦った。
少しずつ口中から喉へと砕けたクラッカーをリリースして隙間が生まれたあたりで、ポワールの意思が大変に熱いカフェオレを流し込んできた。
「ん――っ!」
拷問のようで、口の中と喉を掻きまわされるような、それこそ激しいキスのようなと寿郎は連想して顔が熱くなるほどどきどきして、悪寒も消し飛ぶ。口の中のものを全部呑みこむとぷはっ、と息をついた。
『あー、美味しいわ。ホント』
「……乱暴です!」
『そうよ? アタシは乱暴なオンナ、今頃気付いた?』
「知ってます!」
『アタシ、ジローの事が知りたいなー』
「何ですか突然!」
『これは突然じゃないわ。今朝からずっと、そう言ってきたのに全然、説明してくれないんだもの。推理するのは楽しいけれど、心を開いてくれないみたいでお姉さん寂しーい』
「……そんなつもり、ないです」
もじ、と内股を寄せて座り直す。
ポワールは、気付けばジローと向かいの席に座るフリをしている。頬杖をついて、にゅーっと軟体生物のように柔らかい笑いを浮かべている。
流れ落ちる炎のように見事な、長い赤毛を、そっと、掻き上げて。
『傍にいるだけで飽きない、楽しい。ずっと傍にいたい』
笑顔で細められた瞳の奥、眼の光。
『ジローの踊りが観てみたいわ』
それは、ポワールが遺言した事と同じだった。
踊るだけで良かったのに、死に瀕していた彼女を慰める事さえ出来なかった。
寿郎はきつく、膝を握りしめる。
何が、踊り手 だ。
ポワールは自分の細い首をぺたりと、撫でるフリをした。
『生き還らせてもらったのよ』
ポワールは白く長い指を組んで、珍しく俯いた。
寂しさが、消えのこった熾火のように、濡れた瞳に燃えていた。
寂しい視線なのに、炎のような熱量があった。
『アタシにはまだ、やり残したことがある。ジローの踊りだけじゃないわ。欲しいものもたくさんある。ミカンちゃんだってアタシは欲しい。欲しいものは何でも手に入れる、それがアタシの生き方……死んじゃったけどね、こうして生きているフリが出来るもの、生きているのと同じよ。ジローと一緒にいられて嬉しいって事は、生きてるって事なのよ。だから、やり残したことも変わらないわ。それを遂げるまでは絶対、ジョーブツも天に召されたりも、地獄に落ちたりもしない……あら、なーんだ。アタシってば、今現在、大絶賛でこの世にタタってる真っ最中、なのね?』
炎が、ほの暗い闇をはらんだ。
ただ、唇の端をゆるやかに上げるだけ、そっと微笑むだけ。
そこに濡れたような闇があった。炎のような熱さで。
論理 を小さな建材に、高々と天を征するほど精緻に積み上げた傲慢の塔の上で。
それが自身の望みであると声高く朗々と、また精緻に、なによりも美しく。
祟 りを成そうと、魔女が笑っている。
生と死から解き放たれ、世界に害悪を望みのままにばら撒くだろう、魔女が笑っている。
――貴女の望みが、貴女を殺したのか。
寿郎は、その一言を口に出せなかった。
なのに、どうしてだろう。
こんなにも恐ろしい人が目の前にいるのに、躰の中に入っているのに。
寿郎は、逃げ出すのが嫌だった。
寿郎は、判ってしまった。心が動いた。頭で考えたわけでは絶対になかった。
この人は時々、酷い事を言う。欲しいものは必ず手に入れる。奪われる者の事など全く、斟酌しないかのように、そう言う事を言う。
寿郎は、それを聞いていた。
そのロジックに否定はしたが、心から嫌がった事は無かった。
最低だ外道だ、鬼畜以下だと罵った事など無かった。
ポワールを卑下するなど、思いつきもしなかった。
なぜならそれは、とても簡単な事だ。言葉で考えているとつい、忘れてしまう簡単な事。
ジゼルは、魔性の者だと言う事。
ジゼルは、男を死ぬまで踊らせる魔性の怪異を持つ。
だからこそ、ジゼルは美しい。
「休業中です」
寿郎は、ふ、と胸の中に重く一杯になった感動を、鼻息で一掃しながらそう言った。
一瞬一瞬の大きすぎる感動がちょっと重たく感じる時もある。時には心の掃除や整理整頓が必要だ。寿郎は、ごく自然と、喋った。
「今、ダンサーの鳥井寿郎は休業中です」
『えー? なんでー? 女の子になっちゃったからー? 勿体ないわよー、そんなのー』
部屋中を呑みこんだような暗黒をパッと消し去って、ポワールが唇を尖らせる。
この人は本当に百面相だな、と寿郎は思ったが。
「十三年間、教えて貰ってた先生がいきなり鎌倉に引っ越しちゃって、予告なしでバレエ教室畳んじゃうし、ローザンヌの応募も取り消しで……どうしたらいいのか判らなくなって。どうしてかな、最近はあの神社で、ひとりで踊ってたんです。誰かに看て貰うわけでも、誰かに見せるためでもなかったけど、辞められなかった……休業中なんです」
喋ってしまえば、本当に、どうでもいい挫折だったんだと気付く。
どうしたらいいんだろうと、立ち止まるのももったいない。
だってまだ、踊っているのだから。
休業だから、必ず再開する。
躰があって、魂があって、踊りたい意思も確かに、あるのだから。
ポワールが傍にいると、何故だろう、寿郎は人生に開き直れる気がした。
だってこの人は、躰と命を失っても、少しも後ろを振り向きもしないのだから。
前しか、観ていないのだから。
でも、今まで男の振り付けでしか踊ってなかったけど、女の踊りをする事になるんだな、と寿郎は考え始めた。本当にジゼルを踊る体になってしまった。なのに、女の人の心を寿郎はまだ何も知らない。これは致命的ではないのか。振付の底を支える心から変わっていかないと……自身の弱点を見つけて、立ち竦むよりも先にマイムのプランに様々に考えが及んだ所で、よくなーい、休業はんたーい、ポワールがぶーぶーと文句を垂れる。
『《一日レッスンを休めば三日後退する》、バレエの練習についてのことわざよねー?』
「本当に詳しいですね……踊ってた事とかあるんですか?」
『アタシがジローのレッスン、看てあげよっか?』
「――え?」
とくん、と心臓が少女まんがの擬音のような音を立てたのを、寿郎は聞いた。
なんだろう、この出来過ぎた展開。
寿郎は、人生の師にまでも巡り合ってしまったのかと、運命に打ち震えた。
『……なんてね』
何期待してんのよ、とポワールは肩をすくめて鼻で笑った。
鼻で笑うのは酷いんじゃないかと、寿郎が今度は唇を尖らせる番だった。
『残念ながら踊れませんのよ。魂を美しく、想いのままに全身で表現するなんて高尚な芸術には向いてないのよね。観るのは、踊ってもらうのは、大好きなんだけど』
「だと思いましたよ」
寿郎も肩をすくめて鼻で笑ってみる。大仰なマイムに心を込めるのは大の得意だ。首を横にゆらゆら振って、本当に呆れてますよー、とジェスチャーも加えてみた。
「だってポワールさん、動きがすっごい、雑だし」
『ざっ――雑ゥ~?』
「そうですよ。同じ体に入っているから、余計に判ります。踊る人の体の使い方じゃないです。運動全般も苦手でしょ? 百メートルを全力で走っても三十秒台だったりしません? ガサツで、動きがばたばた、見苦しいったらないです」
『こっ――こここここのぉ~小娘ぇえええ……言わせておけばァアァアッ!』
全て図星だったらしかった。山姥のように赤毛を振り乱してポワールが跳びかかって来る。躰の制御を奪う気だと寿郎は直観し、体中にぐぐっと強く意識を込める。
『堕ちろォーッ!』
なんだかロボットアニメのパイロットの台詞のような鋭い一声、寿郎の体に重なるや否や、ポワールが右手の支配を千切り取るように奪った。まるでスーパースポーツカーのエンジンのように瞬間的に高い馬力を発揮する魂だ、ポワールの魂は高回転への吹け上がりが違う。しかし寿郎は一歩も引かず、奪われた右手が向かうであろう急所に対する、反射にも屈することなく、
「片手だけならどうと言う事はない!」
右手に注力したポワールの意思を体中で察して、左手で右手の手首を押さえた。くくくここここの、猪口才なァあああああっ、とポワールの声は正に亡者、狂気、地獄の夜叉。
『生まれてきた事を後悔するほどの快楽 の地獄に叩き込んでくれるわぁあああっ、だらけ切って崩壊した顔面を晒してにっこり笑えーっ! ピースサインをポラロイドカメラでばっちり撮られろおおーっ! ひひひひひ、お上品なお人形さんのお顔がおペルソナを剥ぎ取られ本性を曝け出すのよおおぉっ!』
「なんですかその濃すぎる状況は! しかも何でポラロイドなんですか、デジカメじゃないんですか、怖い、怖すぎます、すっごい怖い!」
『デジタルデータ流出防止の措置に決まってるわ! ネガが流出する可能性のあるフィルムも許さない! ジローはアタシだけのものよお! はははは、恐怖せよ小娘ぇええっ! 女の身体の躍動を本日ただいまこのアタシがご教授して差し上げてよおおおォっ!』
「いやあああっ! だめっ美甘が、美甘が来ちゃううううっ!」
『あ、ミカンちゃん、やっほー?』
「その手は喰いませんよ! 美甘は普通、家に上がる前に呼び鈴を鳴らすんです!」
『ちィッ! 知恵付きおって! ――ピンポーン……少しは引っかかりなさいよ!』
襲い来る右手、防衛する左手、無限の綱引き、タイトロープ上の決戦。躰を扱うセンスがまるでないポワールだが魂を仮に力量に換算すると寿郎の数倍、もしかすると百倍する出力を持ち、一方の寿郎は自身を爪の先まで熟知していて容易には制御を明け渡さない。
だが。
しかしである。
『疲れてきたようねッ!』
結局は寿郎の躰なのである。
疲れているのは、寿郎の躰なのである。
五感を共有する以上、筋肉に蓄積される乳酸、肉体的な疲労もポワールは共有するだろう。しかし、ポワールには、自分の体ではないと言う心の逃げ場所がある。疲れているのは寿郎だと、寿郎に疲れの所在をおっ被せる事が出来る。
捨て鉢になれる人間ほど強い。死兵と言う言葉もある。勝負の行方は、命をも厭わない者が必ず制す。ましてポワールは死人、何をか況や、である。
力を振り絞った右手も左手も痺れてきた。もともと寿郎はダンサーである。単純な力仕事には向いていない。しかし、両手が痺れたからといってこの死闘が流局する筈もない。
痺れた右手でも、ポワールはやる気だ。間違いなく。痺れちゃって感覚無くなると自分の右手じゃないみたい、とかなんとか喜んでやるに決まっている。
『ふふふふふ後一五センチ、一三センチ……一〇センチ! ようこそジロー、快楽の園! 新しい世界へ! ジロー、世界へっ!』
「……それでも! 守りたい純潔があるんだァあああーっ!」
寿郎が力の限りに、近づきつつあった左手を押し出した、右手が断末魔間際の震えをのたうたせながら遠のいていく。
『ばっ――莫迦なああーっ! 光が闇を打ち払うだと、あり得ん、あり得るものか! アタシは認めない、宇宙とは暗黒なのよ、ボイド空間の虚無を想像した事あって? こんな、こんな、こんな根拠のない、ロジックではない魂の世迷言などわあーっ!』
「暗黒宇宙にも星の光は届く、これがぼくの、魂の光だ!」
ばん!
――と、音でも立てそうな勢いで、左手が右手を伸ばしきった。
胸の前で、二等辺三角形のように両腕が真っ直ぐに伸び、勝った、と寿郎は荒い呼吸で呟いた。
ジョーブツしそう……とポワールも弱っていた。疲労を共有する以上、当然である。
「約束しましょう」
腕を伸ばしたままのポーズで、すかさず寿郎は和議に持ち込んだ。
「でも、その前に訊きます」
ポワールは、きっと論理 に正直でいたい人なのだと、寿郎にも何となく判ってきた。
「朝、美甘をなだめてくれたお礼を、まだぼくは聞いてませんよね。ポワールさんは、ぼくにひとつだけ、お願いをする権利があるわけですよね? どっちがいいですか? その、ぼくがにっこり笑ってピースサインと……」
言葉にしてみると情けなくなるほど酷い画面が想像出来たので、寿郎は思わず口ごもる。頭どころか首筋まで赤くなる。全く、何て事を言うんだとポワールが恨めしかった。
『あー、魅力的ねー、それ。お願いしたいわ』
ぐでんぐでんに疲れた様子のポワールが、もうそれでもいいや、と言うような無思慮の軽さ。本当にこの人は、百メートルを全力疾走したら死ぬのではないかと思う。いや、もう死んでいるのだけれど。生前はそうだったのではないかと思う。
「そうじゃなくて、もうひとつ! ……ポワールさんのためにぼくが踊るって事です」
条件は提示した。
さあ、どうだと、寿郎は待つ。
ふむ、と若干疲れが引いて落ち着いてきたらしいポワールだった。
『条件を提示される理由がアタシにそもそもないし、お願いをする権利をジローが認めてくれた以上、無制限にお願いを拡大してジローに課す事も出来るわよね?』
ふふん、と強気に笑うポワールだったが、寿郎は何故だろう、信じていた。
怖 じる事なく、続きを待った。
『でも、そうね。折角のお申し出だもの。受けるわ』
この人はこう言う事を言う人だと、寿郎はなんとなく判るようになった。
『勿論前者――』
喉が咳払いのように鳴った。待とうと思ったのに。
『――じゃなくて、後者よ』
ほ、と寿郎は息をつく。展開がなんとなく読めるとはいえ、心臓に悪いのは変わらない。
『何だかアタシってジゼルみたいね。悲劇のヒロインはガラじゃないけど、死ぬまでジローを踊らせちゃうかも知れないわよ?』
本当にバレエが好きな人なんだな、と寿郎は手応えを得る。
「踊る事が大好きですから、死ぬまでもみくちゃにされるよりずっといいです……あっ」
口が滑った。自分の言葉に自分で赤面してしまう。
ポワールがそっと笑うのが判った。
『ジローのそう言うトコ、好きよ? でも、アタシは、本当に欲しいものを、本当に欲しい時に手に入れるオンナ、だからね。寿郎の花のつぼみのように硬く閉じた可愛い純潔は、いずれ、必ず手に入れて見せるわ……焦らず、ゆっくりとね。楽しみにしていなさい』
微笑みを引きに残すポワールに、寿郎は目を細めて口をへの字に曲げる。このような不敵な言葉もポワールの本心だと、寿郎には判るのだった。
「でもぼく、女の子ですけど、それでもいいんですか?」
責めるように突っ込んでみる。これまでの展開を鑑みると、いかにも愚問だった。
『女の子も男の子も、大好きよ。年齢も性別も、可愛い魂の区別の方法にはならないわ』
いかにも愚問であっても、ポワールは丁寧に応対した。
「……じゃあ、なんですか。物凄い可愛い百歳のお年寄りでもかまわないってことですか?」
『ごっ、ごめんジロー……物凄く可愛いおじい様おばあ様想像したら、はー、アタシ興奮しちゃって鼻血でそう。はー、くらくらするほど可愛いんでしょうね、はー、堪らないわ、はー……どなたかご存知なの? いらっしゃるの? 紹介してくれる? はーっ!』
「そんな究極生物は知りません! あと呼吸を自分でしてる訳でもないのに荒い息はやめてください! ……ってそういう問題じゃなくて、ポワールさんは無節操です、誰か一人だけに寄せる心とかないんですか? 例えばその、ぼくだけにとか、その……」
ああもう、こんな事がいいたいんじゃないのに! と寿郎は頭を掻きむしるけれど、ポワールは、まるで余所でも観ているようなよそよそしさで、
『それにしてもミカンちゃん、遅いわね。迷子にでもなっちゃったかしら』
と言った。
寿郎の言葉に否定も肯定もしない。
しかし、寿郎は否定と取った。
「いけず、色魔、呪ってやる!」
ポワールは、マグを口につけて、若干ぬるくなったカフェオレをぐいッと一気に呷った。必然的に寿郎の口がふさがり、寿郎は食道を満たす熱量に黙らざるを得ない。
『アタシを呪おうなんて、それにしては修行が足りないわよ?』
寿郎の願いに否定も肯定もしないが、呪いについて肯定する。
そして、呼び鈴が鳴った。
寿郎は一階のリビングで、コーヒーを淹れる事にした。
ドリッパーをマグに乗せて、フィルターをかけて、粉のコーヒーをひと匙。
『アタシ、濃い目がいいなー』
無言で、もうひと匙。とんとんと、ドリッパーを軽く叩いて粉を平らにならす。
ヤカンで沸かしたマグ一杯分の湯。まずは、ドリッパーにそろりと垂らし、コーヒーを湿らせて蒸らす。
三十秒ぐらい適当に数えよう……とした所で、手がいきなり動いた。ヤカンで、繊細に湯を僅かばかり垂らすのは、ポワールの意思。
『もう少しだけお湯足した方がいいかも。しっかり蒸らすと味も香りも濃くなるわ』
「苦すぎるのは嫌いです」
寿郎は不機嫌な声を出した。
『なら、カフェオレにしましょ? 牛乳、あるわよね』
「低脂肪なら」
『……ぶー。乳脂って体にいいのよー? 美味しいし』
「カロリーを抑えるのも健康的です」
『あんまり摂取カロリー気にしすぎると、人生までげっそり、無味乾燥しちゃうわよ?』
「ぼくの体のライフスタイルですから。家計も節約しないといけませんから」
『しっかりしてんのねえ……ほら、そろそろ頃合いよ』
ポワールに促され、寿郎はヤカンをゆっくりと回しながら、湯を垂らすように注いでいく。ドリッパーに泡が立つ。香りも、立ち昇っていく。
『上手ぅ。専用のポットでもないのにバーマンみたい』
「独り暮らしが長いと誰でもこうなります。それにポワールさんだって、慣れてるし」
『お互いに優雅な独身生活ってワケね。二、三年ってとこ?』
ふふん、とポワールが楽しそうに笑い、やおらドリッパーをマグから降ろした。
「え? まだ量が……あと、何が二年とか、三年とか?」
『独り暮らしの年数。何だか色々慣れてるっぽいもの、昨日今日でも、一年でもなさそう……って、アタシは独り暮らしっていわないか。あのコ言い付け守れてるかしら……まーとにかく、コーヒーってのは抽出しはじめがいっちばん、美味しいんだから』
体とお勝手、勝手に借りまーす。ポワールは独り言を塗り隠すように冷蔵庫から低脂肪乳のパックを取り出し、半分しかコーヒーが入っていないマグになみなみと満たした。
『電子レンジの魔っ法。マイクロウェイーブ照射っ』
謎の旋律で歌うように、マグを加熱。
『ご両親のお仕事の都合で、独り暮らし。ジローはバレエを踊る人だから、教室に通うためにここに残った、ってとこでしょ』
「……どうして判るんです?」
『与えられた状況から推理すればおのずとね、判るわ。そこまで本格に踊るなら、コンクールとかに一丁、攻め込んだりしないの? パリ、ワガノワ、ヴァルナ、ローザンヌ、モスクワ。世界がジローを呼んでるわよ?』
「詳しいですね……その筈、だったんですけどね」
寿郎は、落胆が一周して呆れに変じたような、開き直った声になった。
そうとも、次こそ世界、ローザンヌの筈だった。
「勘違いしないで下さいね。ポワールさんには関係のない、女の子になる前の事です」
『ふぅん。じゃ、その話は追い追いと……お茶菓子ある? 甘いのがいいな』
寿郎は、ふと意地悪をしたくなった。しれっと、答えてみる。
「ありますよ? 戸棚の中、ああ、そこです」
『ショコラかなー? サブレでもいいわ~』
システムキッチンの戸棚をポワールが楽しそうに開けると、そこあったものは、クラッカーが一袋、だけだった。
『……なにこれ?』
「由緒正しい日本の美味しいクラッカー。前田のクラッカーです」
寿郎は、このクラッカーの飾り気も無駄もない、確かな味わいが好きだ。
『……ディップとか、チーズとか、クリームとか、ジャムとか……ある?』
「ありません」
ポワールは面白いほど沈んで、してやったりと寿郎はちょっとだけ、あくどい笑みを浮かべた。
「優雅な独身生活のお供です」
電子レンジが電子音を鳴らす。二杯分のコーヒーを使って、マグ半分の量しか抽出しない、とても贅沢な寿郎とポワール合作のカフェオレが完成した。
コーヒーに砂糖を入れないのは寿郎とポワールの共通の趣味だった。
低脂肪乳で薄めている筈なのに、コーヒー豆のエキスそのものといったような、強烈な風味が寿郎の眼球を熱くする。毎日何気なく使っている安価なコーヒーと同じものと、寿郎には思えない。思わず声が出る。
「……わぁ」
『うん、今日のコーヒーは良く出来た。ジローの腕がいいからよね』
さくさく、と
『これ、結構イケるわね。すいすい食べられて、クセになりそう。ミルク系と相性いいし。こうなると何かにつけてみたくなるわね。もっと美味しくなるわよ、絶対』
「ぼくはこのままが好きですけどね」
『ふうん。日本の人って、クラッカーをオセンベイみたいに食べるのね』
「いや、少数派だと思いますよ? クッキーとかビスケットが好まれるのかも」
一つの体でふたりが、どうでもよさそうな茶飲み話をしながら、同じマグと同じ菓子盆でおやつのひと時。
体の貸し借りに断りもなく、自然にシェアしながら。
寿郎は、カフェオレで口中のクラッカーを湿らせて、嚥下してから。
「何だか、同じ体にふたりって事に、馴染んじゃいましたね」
寿郎が息をつくと、コーヒーの風味が鼻腔に抜けた。
『そうね。ずっと、このままがいい?』
あっさりと、突然に、ポワールはそんな事を言う。寿郎は、別にポワールが目の前にいる訳でもないのに、眼を伏せた。
「……ポワールさんの言う事は、いつも突然です。突然で、極端で……」
『じゃ、ひとつ突然で極端な小話をしてあげよっかな』
寿郎は唇を軽くでも、噛んだ。
五感を共有しているポワールに、唇の感覚が伝われと願いながら。
寿郎の体に重なったままで、きっと唇に歯の圧力を微かに感じながら、ポワールはそうね、と前置きして。
『アタシは見つけたのよ。判ったの』
嫌な予感に吸い寄せられるように。
「……なんです?」
恐る恐る、訊き返してしまう。
ポワールは、即答した。
『アタシを消す方法よ』
とても簡単な物言いだった。
その方法の実行が、とても簡単であるかのように。
『そして、ジローが元に戻る方法でもあるわ』
黒い粒子が這い上がるように、寿郎の肌が泡立つ。気が遠くなりそうだった。
ポワールを消す方法。
寿郎が元の体に戻る方法。
どちらも、主語があるようで、ない。
誰が、ポワールを消すのか。
誰が、寿郎を元に戻すのか。
その主語がない。
ポワールは続けた。寿郎の覚える悪寒など、共有されていないかのように。
『アタシがジローの中から綺麗サッパリいなくなる方法。これはすっごく、簡単な事なの。今日一日がウソみたいに、ジローが男の子に戻れちゃうの。それはジローが、今すぐにでも出来ちゃう事。聞きたい?』
寿郎、と、主語が提示された。
試すような、ポワールの言葉だった。
寿郎は、試されていると思った。自分にとってポワールが必要であるかどうかと。
いや、そうではなく、もしかしたらと思う。
ポワールが試しているのは、寿郎の心根であって、そうではないのかも知れない。
方法自体を試しているのかも知れない。
今正に、この時にでも実行可能な方法は、この会話によって発効するのではと。
寿郎の返答次第で、その方法は実行に移るのではないかと。
掌が冷たかった。寿郎は、マグで掌を温めるように、両掌で強く握った。
「……聞きたく、ないです」
眼を伏せたまま絞り出す声は細く、かすれてしまっていた。
『……なら、考えてみて? 出来るでしょ?』
ポワールが、寿郎の座る椅子の隣に、そっと立つフリをしたのが判った。
試すような、しかし優しい顔をしているのが、判った。
ポワールはさきほど、自分が妖精になった、と確信を得たらしい。
まるで、クラシックバレエが語る
クラシックバレエの代表的な演目の多くは、古い
ポワールとは、《ジゼル》なのかも知れない。
ヒロインのジゼルは第一幕で恋敗れて、悲しみの内に死んで、第二幕から
ただ、ジゼルが肉体を失う事だけは変わらない。
どれほど軽やかに踊ってもジゼルとは、質量や速度とは最も縁遠いものだ。体重さえ感じさせてはならない、この世にあるのに、この世にいないものでなくてはならない。
どんなに騒がしくて、楽しい人でも、もう肉体がないポワールと同じように。
ジゼルを縛る存在の矛盾が、ポワールを縛っている。
そんなポワールに、寿郎は何をしているのだろう。
何もしていないようなものだ。
願っている事は、本当にひとつだけなのだ。
寿郎は、ポワールに、いて欲しい。
消えて欲しくなんかない。
ジゼルのように、朝日の中に儚く、消えて欲しくなんかない。
判っている。ポワールが消える方法なんて、とっくに判っている。
そうでしか元の体に戻る事が出来ないなんて、ひどい、あんまりだと思う。
寿郎が、今の寿郎と、反対の事をすれば良いだけなんて。
寿郎の耳朶にかかるような、柔らかい吐息が聴こえた。
『……はい、時間切ぃ~れっ!』
ポワールは、寿郎に重なると、手をむんずと操り、クラッカーをひとつかみ。
豪快に寿郎の口に詰め込んだ。
「――むぐっ!」
寿郎が慌てて噛む。小食の寿郎は口いっぱいに頬張る行為に慣れていなくて焦った。
少しずつ口中から喉へと砕けたクラッカーをリリースして隙間が生まれたあたりで、ポワールの意思が大変に熱いカフェオレを流し込んできた。
「ん――っ!」
拷問のようで、口の中と喉を掻きまわされるような、それこそ激しいキスのようなと寿郎は連想して顔が熱くなるほどどきどきして、悪寒も消し飛ぶ。口の中のものを全部呑みこむとぷはっ、と息をついた。
『あー、美味しいわ。ホント』
「……乱暴です!」
『そうよ? アタシは乱暴なオンナ、今頃気付いた?』
「知ってます!」
『アタシ、ジローの事が知りたいなー』
「何ですか突然!」
『これは突然じゃないわ。今朝からずっと、そう言ってきたのに全然、説明してくれないんだもの。推理するのは楽しいけれど、心を開いてくれないみたいでお姉さん寂しーい』
「……そんなつもり、ないです」
もじ、と内股を寄せて座り直す。
ポワールは、気付けばジローと向かいの席に座るフリをしている。頬杖をついて、にゅーっと軟体生物のように柔らかい笑いを浮かべている。
流れ落ちる炎のように見事な、長い赤毛を、そっと、掻き上げて。
『傍にいるだけで飽きない、楽しい。ずっと傍にいたい』
笑顔で細められた瞳の奥、眼の光。
『ジローの踊りが観てみたいわ』
それは、ポワールが遺言した事と同じだった。
踊るだけで良かったのに、死に瀕していた彼女を慰める事さえ出来なかった。
寿郎はきつく、膝を握りしめる。
何が、
ポワールは自分の細い首をぺたりと、撫でるフリをした。
『生き還らせてもらったのよ』
ポワールは白く長い指を組んで、珍しく俯いた。
寂しさが、消えのこった熾火のように、濡れた瞳に燃えていた。
寂しい視線なのに、炎のような熱量があった。
『アタシにはまだ、やり残したことがある。ジローの踊りだけじゃないわ。欲しいものもたくさんある。ミカンちゃんだってアタシは欲しい。欲しいものは何でも手に入れる、それがアタシの生き方……死んじゃったけどね、こうして生きているフリが出来るもの、生きているのと同じよ。ジローと一緒にいられて嬉しいって事は、生きてるって事なのよ。だから、やり残したことも変わらないわ。それを遂げるまでは絶対、ジョーブツも天に召されたりも、地獄に落ちたりもしない……あら、なーんだ。アタシってば、今現在、大絶賛でこの世にタタってる真っ最中、なのね?』
炎が、ほの暗い闇をはらんだ。
ただ、唇の端をゆるやかに上げるだけ、そっと微笑むだけ。
そこに濡れたような闇があった。炎のような熱さで。
それが自身の望みであると声高く朗々と、また精緻に、なによりも美しく。
生と死から解き放たれ、世界に害悪を望みのままにばら撒くだろう、魔女が笑っている。
――貴女の望みが、貴女を殺したのか。
寿郎は、その一言を口に出せなかった。
なのに、どうしてだろう。
こんなにも恐ろしい人が目の前にいるのに、躰の中に入っているのに。
寿郎は、逃げ出すのが嫌だった。
寿郎は、判ってしまった。心が動いた。頭で考えたわけでは絶対になかった。
この人は時々、酷い事を言う。欲しいものは必ず手に入れる。奪われる者の事など全く、斟酌しないかのように、そう言う事を言う。
寿郎は、それを聞いていた。
そのロジックに否定はしたが、心から嫌がった事は無かった。
最低だ外道だ、鬼畜以下だと罵った事など無かった。
ポワールを卑下するなど、思いつきもしなかった。
なぜならそれは、とても簡単な事だ。言葉で考えているとつい、忘れてしまう簡単な事。
ジゼルは、魔性の者だと言う事。
ジゼルは、男を死ぬまで踊らせる魔性の怪異を持つ。
だからこそ、ジゼルは美しい。
「休業中です」
寿郎は、ふ、と胸の中に重く一杯になった感動を、鼻息で一掃しながらそう言った。
一瞬一瞬の大きすぎる感動がちょっと重たく感じる時もある。時には心の掃除や整理整頓が必要だ。寿郎は、ごく自然と、喋った。
「今、ダンサーの鳥井寿郎は休業中です」
『えー? なんでー? 女の子になっちゃったからー? 勿体ないわよー、そんなのー』
部屋中を呑みこんだような暗黒をパッと消し去って、ポワールが唇を尖らせる。
この人は本当に百面相だな、と寿郎は思ったが。
「十三年間、教えて貰ってた先生がいきなり鎌倉に引っ越しちゃって、予告なしでバレエ教室畳んじゃうし、ローザンヌの応募も取り消しで……どうしたらいいのか判らなくなって。どうしてかな、最近はあの神社で、ひとりで踊ってたんです。誰かに看て貰うわけでも、誰かに見せるためでもなかったけど、辞められなかった……休業中なんです」
喋ってしまえば、本当に、どうでもいい挫折だったんだと気付く。
どうしたらいいんだろうと、立ち止まるのももったいない。
だってまだ、踊っているのだから。
休業だから、必ず再開する。
躰があって、魂があって、踊りたい意思も確かに、あるのだから。
ポワールが傍にいると、何故だろう、寿郎は人生に開き直れる気がした。
だってこの人は、躰と命を失っても、少しも後ろを振り向きもしないのだから。
前しか、観ていないのだから。
でも、今まで男の振り付けでしか踊ってなかったけど、女の踊りをする事になるんだな、と寿郎は考え始めた。本当にジゼルを踊る体になってしまった。なのに、女の人の心を寿郎はまだ何も知らない。これは致命的ではないのか。振付の底を支える心から変わっていかないと……自身の弱点を見つけて、立ち竦むよりも先にマイムのプランに様々に考えが及んだ所で、よくなーい、休業はんたーい、ポワールがぶーぶーと文句を垂れる。
『《一日レッスンを休めば三日後退する》、バレエの練習についてのことわざよねー?』
「本当に詳しいですね……踊ってた事とかあるんですか?」
『アタシがジローのレッスン、看てあげよっか?』
「――え?」
とくん、と心臓が少女まんがの擬音のような音を立てたのを、寿郎は聞いた。
なんだろう、この出来過ぎた展開。
寿郎は、人生の師にまでも巡り合ってしまったのかと、運命に打ち震えた。
『……なんてね』
何期待してんのよ、とポワールは肩をすくめて鼻で笑った。
鼻で笑うのは酷いんじゃないかと、寿郎が今度は唇を尖らせる番だった。
『残念ながら踊れませんのよ。魂を美しく、想いのままに全身で表現するなんて高尚な芸術には向いてないのよね。観るのは、踊ってもらうのは、大好きなんだけど』
「だと思いましたよ」
寿郎も肩をすくめて鼻で笑ってみる。大仰なマイムに心を込めるのは大の得意だ。首を横にゆらゆら振って、本当に呆れてますよー、とジェスチャーも加えてみた。
「だってポワールさん、動きがすっごい、雑だし」
『ざっ――雑ゥ~?』
「そうですよ。同じ体に入っているから、余計に判ります。踊る人の体の使い方じゃないです。運動全般も苦手でしょ? 百メートルを全力で走っても三十秒台だったりしません? ガサツで、動きがばたばた、見苦しいったらないです」
『こっ――こここここのぉ~小娘ぇえええ……言わせておけばァアァアッ!』
全て図星だったらしかった。山姥のように赤毛を振り乱してポワールが跳びかかって来る。躰の制御を奪う気だと寿郎は直観し、体中にぐぐっと強く意識を込める。
『堕ちろォーッ!』
なんだかロボットアニメのパイロットの台詞のような鋭い一声、寿郎の体に重なるや否や、ポワールが右手の支配を千切り取るように奪った。まるでスーパースポーツカーのエンジンのように瞬間的に高い馬力を発揮する魂だ、ポワールの魂は高回転への吹け上がりが違う。しかし寿郎は一歩も引かず、奪われた右手が向かうであろう急所に対する、反射にも屈することなく、
「片手だけならどうと言う事はない!」
右手に注力したポワールの意思を体中で察して、左手で右手の手首を押さえた。くくくここここの、猪口才なァあああああっ、とポワールの声は正に亡者、狂気、地獄の夜叉。
『生まれてきた事を後悔するほどの
「なんですかその濃すぎる状況は! しかも何でポラロイドなんですか、デジカメじゃないんですか、怖い、怖すぎます、すっごい怖い!」
『デジタルデータ流出防止の措置に決まってるわ! ネガが流出する可能性のあるフィルムも許さない! ジローはアタシだけのものよお! はははは、恐怖せよ小娘ぇええっ! 女の身体の躍動を本日ただいまこのアタシがご教授して差し上げてよおおおォっ!』
「いやあああっ! だめっ美甘が、美甘が来ちゃううううっ!」
『あ、ミカンちゃん、やっほー?』
「その手は喰いませんよ! 美甘は普通、家に上がる前に呼び鈴を鳴らすんです!」
『ちィッ! 知恵付きおって! ――ピンポーン……少しは引っかかりなさいよ!』
襲い来る右手、防衛する左手、無限の綱引き、タイトロープ上の決戦。躰を扱うセンスがまるでないポワールだが魂を仮に力量に換算すると寿郎の数倍、もしかすると百倍する出力を持ち、一方の寿郎は自身を爪の先まで熟知していて容易には制御を明け渡さない。
だが。
しかしである。
『疲れてきたようねッ!』
結局は寿郎の躰なのである。
疲れているのは、寿郎の躰なのである。
五感を共有する以上、筋肉に蓄積される乳酸、肉体的な疲労もポワールは共有するだろう。しかし、ポワールには、自分の体ではないと言う心の逃げ場所がある。疲れているのは寿郎だと、寿郎に疲れの所在をおっ被せる事が出来る。
捨て鉢になれる人間ほど強い。死兵と言う言葉もある。勝負の行方は、命をも厭わない者が必ず制す。ましてポワールは死人、何をか況や、である。
力を振り絞った右手も左手も痺れてきた。もともと寿郎はダンサーである。単純な力仕事には向いていない。しかし、両手が痺れたからといってこの死闘が流局する筈もない。
痺れた右手でも、ポワールはやる気だ。間違いなく。痺れちゃって感覚無くなると自分の右手じゃないみたい、とかなんとか喜んでやるに決まっている。
『ふふふふふ後一五センチ、一三センチ……一〇センチ! ようこそジロー、快楽の園! 新しい世界へ! ジロー、世界へっ!』
「……それでも! 守りたい純潔があるんだァあああーっ!」
寿郎が力の限りに、近づきつつあった左手を押し出した、右手が断末魔間際の震えをのたうたせながら遠のいていく。
『ばっ――莫迦なああーっ! 光が闇を打ち払うだと、あり得ん、あり得るものか! アタシは認めない、宇宙とは暗黒なのよ、ボイド空間の虚無を想像した事あって? こんな、こんな、こんな根拠のない、ロジックではない魂の世迷言などわあーっ!』
「暗黒宇宙にも星の光は届く、これがぼくの、魂の光だ!」
ばん!
――と、音でも立てそうな勢いで、左手が右手を伸ばしきった。
胸の前で、二等辺三角形のように両腕が真っ直ぐに伸び、勝った、と寿郎は荒い呼吸で呟いた。
ジョーブツしそう……とポワールも弱っていた。疲労を共有する以上、当然である。
「約束しましょう」
腕を伸ばしたままのポーズで、すかさず寿郎は和議に持ち込んだ。
「でも、その前に訊きます」
ポワールは、きっと
「朝、美甘をなだめてくれたお礼を、まだぼくは聞いてませんよね。ポワールさんは、ぼくにひとつだけ、お願いをする権利があるわけですよね? どっちがいいですか? その、ぼくがにっこり笑ってピースサインと……」
言葉にしてみると情けなくなるほど酷い画面が想像出来たので、寿郎は思わず口ごもる。頭どころか首筋まで赤くなる。全く、何て事を言うんだとポワールが恨めしかった。
『あー、魅力的ねー、それ。お願いしたいわ』
ぐでんぐでんに疲れた様子のポワールが、もうそれでもいいや、と言うような無思慮の軽さ。本当にこの人は、百メートルを全力疾走したら死ぬのではないかと思う。いや、もう死んでいるのだけれど。生前はそうだったのではないかと思う。
「そうじゃなくて、もうひとつ! ……ポワールさんのためにぼくが踊るって事です」
条件は提示した。
さあ、どうだと、寿郎は待つ。
ふむ、と若干疲れが引いて落ち着いてきたらしいポワールだった。
『条件を提示される理由がアタシにそもそもないし、お願いをする権利をジローが認めてくれた以上、無制限にお願いを拡大してジローに課す事も出来るわよね?』
ふふん、と強気に笑うポワールだったが、寿郎は何故だろう、信じていた。
『でも、そうね。折角のお申し出だもの。受けるわ』
この人はこう言う事を言う人だと、寿郎はなんとなく判るようになった。
『勿論前者――』
喉が咳払いのように鳴った。待とうと思ったのに。
『――じゃなくて、後者よ』
ほ、と寿郎は息をつく。展開がなんとなく読めるとはいえ、心臓に悪いのは変わらない。
『何だかアタシってジゼルみたいね。悲劇のヒロインはガラじゃないけど、死ぬまでジローを踊らせちゃうかも知れないわよ?』
本当にバレエが好きな人なんだな、と寿郎は手応えを得る。
「踊る事が大好きですから、死ぬまでもみくちゃにされるよりずっといいです……あっ」
口が滑った。自分の言葉に自分で赤面してしまう。
ポワールがそっと笑うのが判った。
『ジローのそう言うトコ、好きよ? でも、アタシは、本当に欲しいものを、本当に欲しい時に手に入れるオンナ、だからね。寿郎の花のつぼみのように硬く閉じた可愛い純潔は、いずれ、必ず手に入れて見せるわ……焦らず、ゆっくりとね。楽しみにしていなさい』
微笑みを引きに残すポワールに、寿郎は目を細めて口をへの字に曲げる。このような不敵な言葉もポワールの本心だと、寿郎には判るのだった。
「でもぼく、女の子ですけど、それでもいいんですか?」
責めるように突っ込んでみる。これまでの展開を鑑みると、いかにも愚問だった。
『女の子も男の子も、大好きよ。年齢も性別も、可愛い魂の区別の方法にはならないわ』
いかにも愚問であっても、ポワールは丁寧に応対した。
「……じゃあ、なんですか。物凄い可愛い百歳のお年寄りでもかまわないってことですか?」
『ごっ、ごめんジロー……物凄く可愛いおじい様おばあ様想像したら、はー、アタシ興奮しちゃって鼻血でそう。はー、くらくらするほど可愛いんでしょうね、はー、堪らないわ、はー……どなたかご存知なの? いらっしゃるの? 紹介してくれる? はーっ!』
「そんな究極生物は知りません! あと呼吸を自分でしてる訳でもないのに荒い息はやめてください! ……ってそういう問題じゃなくて、ポワールさんは無節操です、誰か一人だけに寄せる心とかないんですか? 例えばその、ぼくだけにとか、その……」
ああもう、こんな事がいいたいんじゃないのに! と寿郎は頭を掻きむしるけれど、ポワールは、まるで余所でも観ているようなよそよそしさで、
『それにしてもミカンちゃん、遅いわね。迷子にでもなっちゃったかしら』
と言った。
寿郎の言葉に否定も肯定もしない。
しかし、寿郎は否定と取った。
「いけず、色魔、呪ってやる!」
ポワールは、マグを口につけて、若干ぬるくなったカフェオレをぐいッと一気に呷った。必然的に寿郎の口がふさがり、寿郎は食道を満たす熱量に黙らざるを得ない。
『アタシを呪おうなんて、それにしては修行が足りないわよ?』
寿郎の願いに否定も肯定もしないが、呪いについて肯定する。
そして、呼び鈴が鳴った。