――シトロンは、伏せた体を起こした。

文字数 1,156文字

 シトロンは、伏せた体を起こした。
 鼻をせわしく鳴らし、匂いを嗅ぐ。
「どうしたの、お前?」
 美甘が不安に駆られて、シトロンの背中を腕で押さえる。シトロンはそれを、振り払う事もせず、匂いを嗅いでいた。
 流れてきた風が魔力を含んでいる事を、シトロンは嗅ぎ取った。
 何かが降ってくる、小さく薄い。それは何の偶然か、シトロンの目前に音もなく落ちた。
 それは、小さく白い花弁だ。
 カラントの匂いがした。夕べ死んだ、魔女たちの匂いがした。
 そして、シトロンを裏切らない匂いが、べったりと付着していた。
 激情が犬と化したシトロンの心を突き上げて、遠吠えが出た。
 犬の神様に届けと、力の限りに遠吠えした。
 見つけた、奴を見つけた。人ならそう叫ぶ所だ。
 犬のシトロンは、押さえている美甘の腕をすり抜けて、走り出した。
 遠くで呼びとめる声がする。振り向かない。犬は振り向かない。言い訳をしない。許しを乞うのは後でいい。全てが繋がった。三つのセットになった疑惑たちが、更に大きな上位階層を構成する三つの要素のひとつになり、ピラミッド状の真実を現していた。
 その答えが示す通りなら、あの少女の大切な人を殺さなくてはならない。
 犬は許しを乞う事が出来る。生殺与奪を主に投げ出し、腹を見せて屈服する事が出来る。後で、そうしよう。ポワールを殺した後の生があるとしたら、そこにシトロンは何も持っていくものがないのだから。
 さらば。掟と誇りを主と定めた空っぽの私の、ひと時の主になってくれた少女。私と同じ、誰かを守る夢に惑ったひとよ。私は必ず帰る。貴女に罰せられるため、私は必ず戻る。
 かつての主を殺すために、私は行く。
 優しくないけれど大好きだった掌を、噛み砕きに行く。
 シトロンは、風のように、弾丸のように、夕暮れの狭い道を走った。
 シトロンの体に何故なのか判らないが、半分混ざった犬の妖精(クー・シー)の血を、嘆いた事はない。
 生まれた時から、シトロンの半分は犬の妖精であり、半分は人間だった。両者の不幸な接触で生まれ落ち、捨てられたのかもしれない。赤子の頃に《魔女の森》に拾われた。殺しを稼業とする魔女たちの家族(ファミーユ)に。
 それでも、犬として生きて幸せだった。人にもなれる事は望外の喜びだった。
 優しい掌にも出会えた。そして、それを失い、長い時を戦ってきた。
 それも、今日、この街で終わりにする。
 匂いをたどり、風の向きを計算し、走って、走った先に。
 記憶の中の、優しくない掌の記憶と寸分たがわない人の形が待ちうけていた。
 燃えるような赤い髪をした魔女、ポワール=グレイグース。天地(あまつち)の全て、火風水土(エレメンタル)のあらゆるを操る魔女、《祝祭のポワール》。
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