――午後の最初、五時間目の授業中、

文字数 5,570文字

 午後の最初、五時間目の授業中、ちなみに日本史、担任の見島が担当する教科だった。
 ポワールが、ふと。
『ゆっくり構えて守ってもらうのも、女の甲斐性よ……アタシには無理だったけどね』
 授業中なので聞き返す事も出来ず、どういう事かと戸惑っていると。
『体と、ペンと紙。借りるわね』
 突然だった。
 ポワールは寿郎の体の主導権を取り、白紙のルーズリーフを一枚ファイルから外して、ひらがなを書き始めた。

+

 ぽわーる ぐれいぐーす と とりい じろー の ひみつ
 2かいめ

1・ぽわーるは じろー いがいの にんげんを そうさすることは できない
2・ぽわーるは じろー いがいの にんげんには みえない
3・ぽわーるは じろーの こえも そうさすることが できる
4・ぽわーるは じろーのなかで ねむることができる

+

 なんだ、と寿郎はほっとする。
 いきなり妙な事を言ったと寿郎は、どこか不安に思えていたが。
 ポワールが書いているのは、早朝のルールまとめの続きだった。
 書き出されたルールは、四つ。
 早朝の七つと比べると、追加されたルールはいかにも少ない。
 学校に持ってきた早朝のルーズリーフをファイルから外して並べ、二枚を見比べている。
『ふぅん……』
 ポワールが意識の声にするのはそんな、酷く簡単な嘆息だけで、しばらく体の主導権を取ったまま、唇に指を当てて、熟考。
 ちなみに、早朝に書きだしたルールは、こうだった。

+

1・ぽわーるは しんだ
2・ぽわーるは じろーの からだに はいった
3・ぽわーると じろーは ごかんを きょうゆう している
4・ぽわーると じろーは しこうを きょうゆう していない
5・ぽわーるは じろーの からだを そうさする ことができる
6・ぽわーるは じろーの からだから はなれる ことができる
7・じろーは おとこのこから おんなのこに なった

※ぽわーるの 1かいめ ちゅうかん こうさつ
A・ぽわーるの じょうたいは にほんの おばけ ゆうれいと よくにている かも
B・じろーの へんしんのひみつは まだ わからない

+

『なら、こうかな?』
 ぼつりとポワールの意識が呟き、やおらシャープペンの先が軽快に走りだした。
 降霊術の自動筆記のように、さらさらと、寿郎の意思以外がペン先を動かす。
 寿郎とは別の意思が、ルールを解読し、考察し、解釈していく。
 自らの死の事実すらも呑みこむロジックが、真実の近似値へと手を広げ、走る。

+

※ぽわーるの 2かいめ ちゅうかん こうさつ
A・ぽわーるは ほんとうに おばけ ゆうれいに そっくり
  ぽわーるは ひとりでは なにも できない
  ぽわーるは じろーの からだを かりなければ こういできない
  ぽわーるは じろーの からだと こころにしか はたらきかけられない
  ぽわーるは じろーに とりついている おばけ かも
  でも そのじじつは げんじょうの げんいんとは いえない かも

B・ぽわーると じろーが おなじ からだに はいっている
  じろーは おんなのこに なった
  これが げんじょうの すべて

C・ぽわーるが じろーに えいきょうした かも
  ぽわーるは おんなで じろーは おとこのこ
  じろーが おんなのこに なった げんじょうを かんがえた ばあい
  ぽわーるの せいべつの えいきょうを かんがえるのは しぜん
  ぽわーるが じろうを しんりゃく している かも
  げんじょうの げんいんは ぽわーるにある かも

D・じろーも げんじょうを ささえている かも
  ぽわーるは じろーに とりついている ぎゃくも かんがえられる かも
  じろーが ぽわーるを うけいれている かも
  おばけを からだに うけいれる よりしろ しゃーまん かみがかり
  じろーは みこさん かも

+

「……みこさん?」
 ルーズリーフに視線が釘付けの寿郎、思わず呟きが漏れた。
「……え、ええ。そうです。巫女です」
 思わぬ所から返事が返ってきた。
 ぎょっとして顔を上げる――ポワールはもう寿郎に体を返していた。返事をしたのは、教壇で板書していた教師の見島だった。まさか、生徒から突っ込まれるとは思っていなかったらしく、戸惑い顔である。
 黒板には『シャーマン・口寄せ・柳田学』などの、教科書には載っていない言葉がズラリと書かれていた。
『あの先生からヒントを貰ったわ。それにしても、面白い話をするコね』
 二十代前半の見島を捕まえて男の子呼ばわり、と言うのが少し気になったが、それはそうと見島の授業は実に不安定である。教科書をたんたんとなぞるだけかと思えば時々、授業ペース配分を逸脱して、思った事や知っている事をいきなり長々と語りだしたりする。授業をテストのための準備と捉える生徒からはウケが悪く、授業を楽しもうとする生徒からも半端に見えて評価は渋い。ポワールに気を取られていて授業の流れを完全に見失っていたが、今はその見島の語りタイムであるらしい。
 どういう経緯か、巫女の話になっていたらしい。
 どうせ誰も聞いていないのだろうと見島自身が思っていたらしく、一瞬無言の空白が生まれ、見島はわざとらしく貫禄がまるで足りない咳払いをして、続けます、と言った矢先、
「――先生!」
 寿郎は、思い切り手を挙げて、大声を出して、見島の話の腰をへし折っていた。
 見島がぽかんとした後、よろめいて後ずさる。
 教室中の視線が寿郎に集中する。
 あ、と寿郎は短く声を漏らしたがもう遅い。
 また、やってしまった。
 心が動いたように、体が動いて、声が出てしまった。昼休みのように。
 ドヨともしない、打つような静寂が寿郎の耳に痛い。
 自分でも何故こんな事をしているのかと、何が言いたいのかと判らなくて。
 ただ、胸が窮屈で、一杯で。
 ――ステージに、立つように。
 寿郎は、ゆっくりと、起立した。
 ゆっくりと、しかし強く、心が立ちあがるように足腰が自然と動いていた。
「……な、なにか? 鳥井君――あ、いや鳥井さん」
 さん付けに呼び直したのは朝の経緯があるからだろうけれど、まるでこれから暴行でもされるのではないかと怯えるような格好の見島である。逃げ腰である、腰が砕けている。
 しかし見島は、寿郎の眼に吸い寄せられたように視線を逸らす事が出来ないでいる。
 観られている、怯えのようでも何かを期待されている、と寿郎は感じる。
 胸が()けそうなほど甘く騒いだ。
 寿郎には言いたい事がある。尋ねたい事がある。見島が、それを待っている。
 窮屈な胸から心が飛び出していきそうだった。
「質問ですけど、その、巫女さんって……」
 胸の内の振動が五体に伝播し、もじもじと落ち着かない。振り切るように、寿郎は言葉を継いだ。
「――巫女さんって、男でもなれますか?」

 へ? と、どこかの席から腑抜けた疑問符がこぼれ。
 見島が見開いた瞳をまばたきして。
 寿郎は、よし、ちゃんと訊きたい事を言葉にできたと手応えを得た。
 ――勿論、教室がまたしても沸騰した。

 鳥井が巫女服のコスプレするってよ!
 性衝動と言動の境目がすぐに崩れる男子生徒の絶叫が、震撼する教室の中でもひと際高い。馬鹿、最低、何考えてんのよと紋で切ったような糾弾の声がこれに対抗し、その他大勢が似合うの似合わないのと、可愛いの可愛くなるのともう収拾がつきそうにもない騒乱が立ちあがった所で見島が教壇を両の掌で殴打した。
「――キミたちいい加減にしなさいッ!」
 騒乱を切り裂く見島の悲鳴。あの頼りない見島でも怒り心頭に達する時があるのかと、教室が息を呑んだ。
 見島がもう一度教壇を打った。
 尚も打った。
 更に。
 まだ。
 ばんばんばんと、叩く叩く。
 叩き続ける。
 両目をきつく瞑って、何度も何度も。
 キレたか。
 誰かが呑んだ緊張をほどいて、呆れてそう呟いた時、
「キレてはいません、いいですか!」
 逆上す(キレ)るも何も殆ど泣き顔の見島は文化人類学的、民俗学的にですねと早口に前置きし、
「巫女服などと言う名称の衣服は、ありません!」
 見開かれた見島の眼が、血走っていた。
 それは、見島にとって、とても重要な事であるらしい。
 学術的な誤りは学術の徒である教師の自分が許さないと、眼が燃えていた。
 何言ってんだこいつと置いていかれた教室の空気に、いいですかと見島は畳みかける。
「いいですか、社務に於いて巫女が着用する装束は一般的に白衣(はくい)(はかま)と称するものです! 衣の白は神聖な色、同時に袴の(しゅ)もまた神聖な色であり、巫女の装いとは神に仕えるための意味があります! 社務ではなく神事の際に白衣の上に重ねる千早(ちはや)など、名前からして神聖です。巫女とは神聖なものです! いい加減な言葉と意識による侮辱も凌辱もやめて下さい、いいですねっ?」
 掌に力を込めて教壇によじ登ろうとするかのような、見島の剣幕だった。
『へえ~、あの綺麗なキモノってそんな名前なのね。憶えとこっと』
 いつの間にか姿を現し、寿郎の机に足を組んで座るフリのポワールは楽しそうである。
「いいですねっ!?
 今にも泣き出しそうに潤んだ目を剥いて、見島が叫ぶ。
 まだ誰も観た事のない、学級担任の表情だった。
 ポワールは学校に通い始めたばかりの小学一年生のように楽しげに、挙げた腕をぶんぶん振る。
『良く判りました。ミコサンは神聖、ミコサンは素敵。テストに出してね先生、でもね――』
「あの、でも、先生っ」
 寿郎の気持ちが前に出た。このまま、自分の質問が立ち消えになりそうな気がしたからで、きっとポワールが突っ込もうとした事と同じだと確信もある。
「男の子が巫女さんになるのは、いけない事ですか? その、考えちゃいけないような事ですか? 侮辱ですか? 凌辱しちゃったんですか?」
「それは違います、違うんです、大変良い質問なんです、鳥井さん!」
 侮辱の凌辱のとふしだらな言葉を無自覚に慌てて並べる寿郎と、見島の必死の抗弁におおっ、とどよめきが上がる。
 このまま見島ににじり寄られて両手を握られそうな勢いである。本当にそうなったら、寿郎は見島の手を取って踊ってしまうかもしれないと思う。
 美甘が反射的に投げ飛ばしてきたように、反射的に踊ってしまいそうな自分がいる。
 見島もそうなのかもしれない、と寿郎はふと思った。
 寿郎の沙汰を持て余した朝の例を挙げるまでもなく、優柔不断が服を着て歩いているような、そんな教師だった。常に曖昧で優しく、激した場面など寿郎は観た事が無い。
 でも、そんな見島にも、実は譲れないものが、彼の言う所の文化人類学や民俗学への想いが魂の内に熱く強く秘められているのだとしたら。
 見島を触発したのは、寿郎自身なのだろうかと――。
 寿郎は高まり昇り詰めている気持ちのまま、見島の教えを訊く。
「結論から言います。巫女は女性だけの職能ではありません。とても古くには男性が神と交わる役目を担うと言う資料もありますし、現代でも女性の神に男性の神職が巫女のように仕える例が、幾つもあります。巫女(みこ)とは、それほど古い言葉ではありません。英語訳すればシャーマンが適当でしょうか『(かんなぎ)』に(おんな)と、はい、こう言う字、こう言う熟語ですね」
 やおら振り向いてチョークも折れよと、殴るように『(かんなぎ)(おんな)』とルビ付きで黒板に板書をする見島は口早に、酷く温度の高い言葉を続けた。
「女と言う点が重要です。美しい神には、美しい者が仕えると昔の人は当たり前に考えていたのかも知れません。女の人は美しい、故に神に仕える資格がある。美しく舞い、美しく(がく)を奏で、美しく祝詞(のりと)を挙げる、女の人はなんと美しい! いつからか女性の巫女が一般化した。でも人類はいつでも人類です。美しい男の人は、少年は、男の子は? 資格充分です! 人類は美しい、男も女も美しいのです、私は、鳥井さんのような子が巫女なら、とても素敵だと思います!」
 加速した論理を炸裂する感動で引きちぎるように、昂然と見島は振り向いた。
 潤んで輝く瞳が、寿郎を観ていた。
 不可思議な寿郎の存在に文化人類学と民俗学の太鼓判を押すような、熱い眼差しだった。
「――ありがとうございます!」
 寿郎は力一杯の笑顔で応えていた。
 わっと拍手が上がる。万雷の拍手が教室を満たす。
 この日この時に巫女フェチとして生徒に愛される日本史教諭、見島秋穂が誕生したのだ。
 祝福の拍手喝采であった。
 何だか誰かを幸せにしてしまったような、とてつもない高揚感がある。
 ブラヴァ! 寿郎にだけ聴こえる称揚、周囲に交じって手を叩くポワールは、実に楽しそうに、だからね、と寿郎に語りかけた。
『アタシはお化けや幽霊――ううん? 妖精になったのよ。ほら、手を叩いて、ね?』
 ポワールに手を叩けと言われたので、寿郎は手を叩く。
『アタシはジローに、受け容れて貰ったのよ。夕べね、きっと』
『ジローはミコサンで、アタシは妖精なの。手を叩いて貰えなくなったら、きっと、ね?』
 何言ってんだろうと、笑顔のままポワールの表情を窺う。
 ポワールは、勿論、笑っていた。
 愉快でたまらないような、そんな笑顔だった。

 カーテンコールは続く。
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