――「――アタシとジローが一緒にいられる、奇跡を」

文字数 4,272文字

「――アタシとジローが一緒にいられる、奇跡を」
 寿郎はもう、返事をしなかった。
 眠らせる事が出来たようだ。
 ――寿郎とポワールを繋ぐ魔法。
 ――寿郎とポワールが、ともにある奇跡。
 果たして、ポワールにそれを語る資格はあるだろうか。
 自責が――全てを投げ捨てて自らを無に帰す念が、ポワールの中で確かに動いた。
 事態を収拾する方法が、確かにひとつある。
 寿郎を元の体に戻す方法が。
 そして、ポワールが消え去る方法が。
 ポワールは、自らを犠牲に、寿郎を元に戻す事が出来る。
 祈りとともに短剣で自らの喉を突き、命を断つのは聖女の行い。
 恥を(そそ)ぐために腹を切るのは侍の美徳。
 だが、ポワールは魔女だ。
 現代世界の影に巣食う魔女の社会――《魔女の森》で育った、一匹の魔女。
 自らを責めるよりも、魔女には行うべき事がある。
 それを例えば、掌の内にひとつある、美しい宝石の為に命を懸けると言う事。
 鳥井寿郎と言う少年と出会った運命を、守り抜く事。
 自分の行いがどんなに醜くとも、望みを信じ抜く事。
 今日一日で、いいや、夕べの出会いだけで、寿郎を理解するには充分だった。
 推理だ何だと理屈を並べ立てるまでもない。
 一目で判った。
 一日で確認した。
 鳥井寿郎とは、本当に優しい男の子なのだと言う事を。
 こんな正体不明を絵に描いたような女を認めてくれる、鳥井寿郎とは。
 奇跡のような出会いだった。寿郎が受け容れてくれなければポワールは魂も残さず死んでいた。妖精として生き(ながら)える事もなかった。何故――何故奇跡は起こったのだろう。
 そんな事はどうでもいい。
 ポワールにとって、奇跡の理由は全く、重要ではない。
 奇跡の理由を説明するほど愚かな事は無い。優しい寿郎と出会った奇跡とは、この国が平和の中にあるからとか、人の命が重いという価値観に支配された社会だからとか、寿郎はそんな世界で育った故に優しいとか、そんな理由の説明は不要だし、また間違っている。
 鳥井寿郎はきっと、どんな運命の下でも優しい。
 そんな寿郎と、奇跡のように出会った。
 いつだって論理を求めているのに、いつだって論理の破綻した奇跡に心を動かされる。
 何と皮肉で、何と愛しい運命だろう。
 そんな穢れない優しさにポワールは包まれた。だから身に染みて判る。魔女ひとりの魂を保存するぐらい、寿郎なら出来て当然。その結果に、理由は不要だ。寿郎は、寿郎だ。
 そして、ポワール=グレイグースはどんな運命の下でも、悪逆非道だ。
 ポワールは今日一日で痛感し続けた。お互いの間には溝がある事を。
 とても深い、覗き込んだ両者の魂を呑み込んでしまう、溝がある事を。
 寿郎がその溝に落ちれば、深く傷つくだろう。
 ポワールがその溝に落ちれば、今度こそ魂も残さず消え失せるだろう。
 自分たちの破局は、片方だけの問題では収まらない。
 寿郎は溝の存在を、観ないようにしている。それでいい。観たって面白いものじゃない。
 なら、その溝に落ちないように、アタシがちょっとだけ歩く向きを変えてしまおう。
 大人はこんなズルい事がお得意だ。
 誤魔化す事。茶化す事。騙す事。事態の重要な焦点をさりげなく迂回する事。
 気付かせないように振る舞う事。秘密を呑んで痛む胸を隠す事。
 博打を打つ事、詐欺を働く事。
 希望を――座視すれば崩れ落ちるだろう未来の獲得を、決して、ためらわない事。
 寿郎の体を操って、ポワールは雑踏から遠ざかるため、路地に入る。オランジェも黙って、後ろをついてきた。もう擬態(ミミック)を解いている、幼子のオランジェの足取りだった。
 追跡者もまた、それに倣う。
 路地とはいえ、人通りが完全になくなってはいない。
 ちらほらと、何も知らない市民たちが観える。誰も寿郎の体とオランジェに、気を配ってはいないけれど。
 もう、ここで始めちゃってもいいかな、とポワールは思った。
「実験、むっつ(シス)
 ポワールは目を閉じた。今日一日で書き出した、十一のルールの裏を掻くために。
 ポワールは死んで、魂だけが寿郎の体の中に入った。幽霊のようだと、そう思っていた。寿郎が巫女のような存在だと気付くまでは、自分が妖精になったと気付くまでは。
 幽霊と妖精。
 巫女と魔女。
 そのどちらも良く似ている。対象をどのように解釈するか、と言う観測者の問題に過ぎないほどに。
 ポワールは今の自身を幽霊ではなく、妖精と定義する。
 幽霊とは、妖精とは、肉体と言う《形象》を持たず、世界に漂う《本質》。
 巫女とは、魔女とは、世界に漂う《本質》とコンタクト出来る人間。
 人間は形のないものを観る事は出来ない。だが、形のないものは世界に存在する。妖精を観る為には、妖精を認めなくてはならない。僅かでも、《形象》を与えなくては。
 巫女は、魔女は、切なく世界を漂う魂に、形を僅かにでも与える事が出来るのだ。
 しかし、魔女は妖精とともにある。幽霊ではなく。
 この国では、幽霊と巫女は、魔法を起こすのだろうか。
 ポワールが暮らした魔女の森では、妖精と魔女が魔法を起こす。
 寿郎は巫女である。
 ポワールは妖精である。
 ふたつの定義で世界を切り(ひら)く。
 異なる世界の定義が今、同じ躰の内で、手を繋いでいる。

 ポワールは寿郎の巫女性に受け容れられ、妖精になり、その体に入った。
 その結果、寿郎は女の子になった。
 つまりポワールの《本質》、妖精化した魂は、寿郎の体の《形象》に働きかけている筈だ。
 それを、極大解釈すると――。
 ポワールは、自分の体を思い出していった。
 もう失われた体。どこに消えたのかも判らない体。
 百メートルを全力疾走したら、本気で死ぬ自信がある、運動がまるで出来ない体。
 そのくせ、肉体から出る色気だけは昔から一人前で、男どもが涎を垂らしたあの体。
 胃下垂だから、どれだけ食べても太らない代わりに、食事が苦痛でもあった。それを、楽しみにしようと努力もしてきた。人生を楽しくやろうと、前だけ向いてきた。
 ポワールのもう、終わってしまった人生に、確かに付き合ってくれたあの体。ケーキをホールでドカ食いすると、ちゃんと応えてくれたあの体。
 ――それは、燃えるような、真っ直ぐの赤毛だった。
 寿郎の髪が伸び、色が鮮やかに移ろって行った。
 ――自分の体が女らしくなった事が誇らしかったのは、丁度今の寿郎ぐらいの歳で。
 華奢な寿郎の体が、スリーサイズを基軸にふくらみとくびれを強調していく。
 寿郎の体が、物質ではなく存在のレベルから変わっていくのを感じながら、目を開ける。
 ――川の底の砂のような、灰色の濡れた瞳だった。
 寿郎の眼の色素が急に褪せた。

 今朝の、寿郎の言葉が思い出された。
 ――あなたがぼくの体に入った事で、ぼくが女の子になったとしたら、ですね。
 そうとも。
 ――あなたがぼくの体から出て行った時は、ぼくは男の子に、男に戻れるんじゃないかなって、そう思って。
 考えてみれば、当たり前だった。
 あの時、自分は論理の飛躍があると断じたのだったか。論理を組み立てるための材料がまだ足りない、回答を出すにはまだ早いのだと。
 論理を積み上げ、回答を推理する。謎に対する手段としてはなるほど、間違っていない。
 だが、凡庸だ。
 寿郎は最初から、真実の匂いを嗅ぎ取っていたのだ。
 寿郎の言った通り、変身の原因はポワールにあった。
 ポワールの魂が寿郎に働きかけている。
 つまり、ポワールが消えると寿郎は元に戻るだろう。
 そして、ポワールが消える為に必要な事とは――。

「ちょっと、ズルかもね」
 ポワールは、手首をくるりと回して、白くなった肌の肌理(きめ)を観ていた。
 ポワールは寿郎の体を、拝借する事も出来る。
「どうして、卑怯なのですか?」
 オランジェが尋ねる。観て判るでしょ? とポワールは、くすりと笑う。
「だって、アタシの十代半ば頃の姿だもの。観てよもう、このつやつやのお肌。死んで若返るなんて、女の人生にとってズルだ卑怯だ以外のなにものでもないわ」
 赤毛で、気の強そうで、不敵な魂を核爆弾のように呑んだ少女がそこにいた。
「そうね。若返ったんじゃなくて、十六歳のジローの体をやっぱり借りてるだけなのよ」
「形は変わっても、魂は変わりません。お母さんは、お母さんです」
 信じるもののゆるぎない、オランジェの真っ直ぐな言葉だった。
 ありがと、と呟いてポワールは、振り向く。
 戸惑いを怒りで塗り潰したような、わななく魔女がひとりいた。
 距離にして十メートルほど。
 短くオランジェに指示を呟く――《ラ・シルフィード》。オランジェの動きが変わった。オランジェは擬態する。妖精に擬態(ミミック)する。妖精人形が踊りだした。擬態者の踊り(ミミック・バレエ)を。
 シルフィード。人間に恋した風の妖精。悲恋の風に舞う、乙女の魂。
 魔女、カラント=ダンツカが小瓶のコルクを引き抜く。
「死ね! 祝祭のポワール!」
 わぁお、とポワールは白い歯を見せて笑った。
「もっと、ひめやかに行きましょうよ。おたがい、女の子ですもの」
 何かが物凄い速さでポワールに殺到し、届くかと思われた寸前にぶつかり弾けて飛んだ。
 ポワールは、カーディガンを脱いで、オランジェに手渡す。
「帽子を頂戴」
 はい、とオランジェが頷き、革張りのトランクの中からそれを取り出し、カーディガンを仕舞った。
 お伽噺に出てくるような、魔女の背の高い三角帽子だった。
 それを浅く被る――ポワールの体が緑の光を帯びた。
 緑の光は細かい糸に――繊維になり、ロングコートの形を編み上げて、ポワールはそれを肩にひっかけて羽織る。
 緑に光るコートの袖に通さない、ブラウスの腕を、軽く組む。
 運動する姿勢ではない。
 百メートルを全力疾走出来なくても、直立不動で行える、殺しの技の支度は整った。
「じゃ、遊んであげるわ」
 くすり、と笑う。
「この奇跡が、消えてしまわないように」
 濡れながらも炎のように熱い闇が、笑顔の隙間から覗いていた。
「アタシたちを繋ぐ魔法が、解けてしまわないように――貴女の命を頂戴」
 命を、煮えたぎった釜に投げ入れて炊く、魔女の相貌だった。
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