――三軒先まで届く声は、

文字数 10,916文字

 三軒先まで届く声は、もちろん寿郎の家の表に丸聞こえであるわけで。
 高木(たかぎ)美甘(みかん)がそっと、自転車の後輪からブレーキを絞り、慎重に停車した時の事だった。
 階上から叫びが聴こえてぎょっとする。美甘の次の行動は素早かった。
 おでん満タンのアルマイト鍋の事は一瞬で忘れた。自転車を横転させないようにスタンドを立てたのは習慣によるもので、それがおでんの生死を分けたがそんな事よりも美甘は寿郎の家の玄関に体当たりする勢いで走り寄り、寿郎の母から預けられている合鍵を殴りつけるように鍵穴に突っ込んで捻った。
 鍵はかかっていた。何か変だなと一瞬掠める思考を、変ではないと打ち消す。内側から鍵をかけたのかもしれない、玄関以外から侵入したのかも知れない、誰が? 決まっている、寿郎を襲う誰かだ。
 最悪の事態、と言う言葉が思考を満たした。
 蝶つがいも吹き飛べとばかりに開け放す。
「寿郎! どうしたの? 何かあったの!?
 がたん、と二階で、寿郎の部屋のあたりで派手に物音がした。
 髪の色を抜かないショートカットが逆立つような気さえして、頭皮がざわりと危機感に揺れた。
 おちつけ、おちつけ……(こご)ったように硬くて重い生唾を、ゆっくりと嚥下する。
 高校生になってもちっとも膨らんでくれない胸の奥、暴れる心臓を確かめるように手を当てる。
 こう言う時こそ平常心だ。
 全身から力みを抜け。
 心の自然体こそが最も体の力を発揮できる状態なのだから。
 賢く力を使え、意識を体に通して気を合わせろ、合気が今こそ試されるかも知れない。
 ――あたしが寿郎を守るんだ。
 芯を持った想いが鋭く撃発され、靴を脱ぎ捨て階段に突進した。
「寿郎! 返事して、答えてよ、寿郎!」
 叫びが出た。不安に負けるな、気をしっかり持て、二段飛ばしで駆けあがる。寿郎の部屋からばたばたと足音がする。

「――どうしようどうしようどうしよう!」
 ばたばたと右往左往、美甘が、美甘が来た、と呻くように呟いて右往左往、右往左往。
 ポワールは、あらら、と両目をぱちくり。
『随分若いお母さんみたいね』
「違うよっ幼馴染みっ」
 とぼけたポワールに声を殺して一喝するけれど、へぇー、ポワールはニヤニヤ笑う。
『毎朝起こしてもらってるってワケね。いいわねー、アタシ朝弱いから羨ましいな~』
「そう言う問題じゃなくてああああっ、どうしようどうしようどうしよう……っ!」
 どうしようとまくし立てながらしかしどうする事も思い付かず。
 どうしようと言う言葉に熔けた様々などうしよう。女の子になっちゃったってばれたらどうしよう、そもそも美甘に別人だと思われたらどうしよう、ポワールを観られたらどうしよう、これからどうやって生きていったらいいんだろうどうしよう、どうしよう!
 ポワールは、そうねえ、と形のいい顎に指を当て、うん、と明朗な笑顔で頷いた。
『あきらめたら?』
「いやああああーっ!」
「いるのね、寿郎! 入るからね!」
 ドアノブが回る瞬間を寿郎は観た。寿郎は酷くゆっくりと、まるで時間が粘り気を帯びてスローモーション映像のようになった視界の中で、確かに観た。
 スローモーション出来るなら、巻き戻し出来てもいいよね、と考えたと思う。

 内開きの扉が蹴破られるように開いた。
「寿郎!」
 右手を前手に軽く突き出し、左手を後ろ手に腰だめした構えを取って、美甘が鋭い摺り足で一歩入る。
『わお。勇ましいコね』
 美甘は視線を広く取った。きょろきょろ瞳を動かさず、視界全体から動くものを拾い上げる観察方法。眼だけではなく、肌や耳にも緊張の糸を張り詰めて、動体を余さずセンシングしようと――もぞもぞもぞもぞもぞ。
 体の中心をへそと捉え、体をひねらずに美甘が動くものに素早く向き直る、が、美甘は見開いたまぶたを二度、三度とまばたきして、体が凝固した。
 もぞもぞと、毛布の塊がベッドの上で転がっていた。
 ひらひらと、ポワールが美甘の目の前で掌をかざしてみる。
 美甘は無反応で、ポワールは首をすくめて。
『あら、アタシが見えてない……ザンネン。じゃ、中に入れるかどうか実験(じっけーん)よっつ(カトル)
 もぞっ。
 毛布が動いた。
「……寿郎?」
 ポワールは軽く美甘の頭に手を伸ばし、前髪の下の広めのおでこを掌で掴むように――。
『……ふふふふ、この体は頂いたわ。若い、若いわ……力がみなぎっていてよ、ははは!』
 ポワールの哄笑が高々とあがる。
 ぎゅっ、と布団がくの字に折れ、何かに耐えるように震え始めた。
 美甘は、ため息をひとつ。緊張をほどいてベッドに近寄る。
「寿郎さー。朝っぱらから独りで何してんのよ、大声出してさ、ご近所迷惑でしょうが」
『……ちぇーっ。アタシが見えない聴こえない、アタシも中に入れないーっ。ザンネン』
 布団の中身がほっとしたような、もぞっと身じろぎ。
 結局、寿郎の人生の巻き戻しボタンはなかったので、通常再生のままベッドに逃げ込んだのだが、ほっとしたのもつかの間、事態は何も変わらず進行中であり、むしろ状況は悪化しているのだと、胎児のように丸まりながら寿郎は震えた。
 ベッドの傍に美甘が立ち、腰に手を当て、
「聞いてんの? 起きてんでしょ?」
 ごほんごほん、と寿郎はワザとらしく咳をする。声が太めになるように頑張ってみる。
「……ごめん、美甘。風邪、引いちゃって。熱があるみたいで……」
「嘘つけ!」
 寿郎の危惧する展開がいきなり起こった。
 美甘は毛布の裾を無造作に掴み、引っぺがしにかかった。
「風邪引きがあんな大きな声出す訳ないでしょ! 数学の田崎先生の宿題やってないから休みたいとかじゃないでしょうね? 何よ、何隠してんのよ、正直に白状しなさいよ!」
 布団の中に何かを隠している、と思われたらしい。そう言えば強面の数学教師、田崎の科した宿題を忘れていたけれど、そんな事よりも最悪の展開。
『ふぅん、同じ学校に通ってんのね。いいわねー、青春』
 楽しそうなポワールとは正反対に寿郎はひいいい、と肺の底から悲鳴を上げて毛布を繋ぎとめようと、全身のあらゆる箇所の何処でも構わないので毛布をひっかけようともがいた、足掻いた、握力に自信は無かった、指が早くも痺れてきた。
「待って、待ってよ! 話せば判る!」
「話す時はお互いが目を観てするもんでしょ! 隠してるもの出せ、出さんかーっ!」
「ねね猫、猫隠してる、猫猫、朝拾ったんだ、美甘に見つかったら怒られるから! 抱いてないと死んじゃうから、死んじゃうの嫌だから、泣いちゃうから!」
『にゃおん、チェシャ猫でーす。頑張れー、アリスうー、負けるなー、アリスー、アタシを助けてー、救ってーっ』
 完全に外野に回ったポワールが楽しそうに応援していた。なにその愉快犯的な態度、寿郎は本当に頭にきた。
「良くそんな事言えますね! 誰のせいだと思ってるんですか!」
 美甘の手が止まった。
 むうーっ、とポワールが不満げに声を洩らすのが聴こえたが、そんな事よりも美甘の事、安心のできない、むしろ剣呑な様子であると、毛布の中からでも判った。
「……誰と話してるのよ。寿郎の言う猫ってのは、クチを利くわけ?」
 トーンを落とした声だった。
 寿郎が良く知る、怒りが破裂する寸前の美甘の声だ。
 もう駄目だと思った。
 この幼馴染は、どうしてこんなに勘が良いのだろう。合気道、いや、合気柔術だったか、あれが良くない。あれは人間の素質を鋭く磨きあげてしまう。もともと気がつく女の子の美甘だけど、道場に通い始めてからと言うもの、あらゆる力が活性倍増されたように思う。
 寿郎は何も言えない、何も説明できない。見てもらうのが一番かも知れない。女の子になってしまった体を晒して、隠してたのはこれだよ、ごめんね、ぼく女の子になっちゃったんだ、恥ずかしくて、訳判らなくて、もう何も判らなくて、怖くて寂しくて、どうしたらいいか、どうしたらいいか……。
 そんな言い訳の代わりに、無音で涙が滲んだ。
 寿郎の部屋の時間は凍りついた。
 ポワールは蚊帳の外から、おやおや、と肩をすくめて、さて、と言った。
『取引しましょ?』
 ポワールが囁く。
『この騒ぎの責任は、ジローを騒がせちゃったアタシにもあるわけだし、アタシが事態を収拾する。その代わり、後でお願い、聞いてね?』
 んふ、とワザとらしい含み笑いが、寿郎の返事を待った。
 美甘が、気合にも似た長く鋭い息を吸ったのが聴こえて、寿郎はたまらず。
「――お願い!」
『りょーかーい』
 ポワールは寿郎の体と重なるや否や、体の主導権を取って、毛布にくるまったまま美甘の手を手さぐりで探し、掴んで引いた。
 思い切り、引き込んだ。
「えっ?」
 まさか寿郎にそんな事をされるとは思ってもいなかった美甘は、合気の心はどこへやら、するりと、まるで人さらいにあった乳幼児のような軽やかさで、毛布の中に導かれた。
「お願い。こんな事して、許してもらえないよね。でも、顔を観て話せないの、お願い」
 毛布ですっかり美甘を包んで、寿郎が言った。
 寿郎の意思は、こんな事を喋ろうとはしていない。
 ――なんで、声が?
 戸惑うけれど、答えはすぐに出た。声とは、喉を鳴らして出すもので、喉を鳴らすとは声帯を振動させる事で、声帯とは筋肉。つまり、手足を動かす事と、原理的には大差ない。
 ポワールは五体の主導権を取るように、寿郎の声までも自由にできるのだ、愕然とする事実。女の子になった寿郎の声は、ごめんね、ごめんね美甘……と、涙に滲んだ声で繰り返してから。
「触ってみて」
「なな、何を? なに、いいい言ってんの?」
 美甘は明らかにうろたえている。引き込まれた毛布の中で触れと言われて何を触らせられるのかと怯えているのが寿郎にも判ったし、ポワールの意図も判った。
 ――やめてーっ!
 声に出すつもりで意識が叫んだ、声にはならなかった。
「ほら、ここ」
 美甘が息を短く呑む、その音が寿郎の耳に痛かった。
 寿郎の手は、繊細に美甘の手首を掴み、そっと寿郎の胸に誘導した。
 タッチする。美甘の手が信じがたい違和感に凍りついた。
「……判る?」
 女の子の声になったとはいえ、自分の声がこんなにも切なげに話す所を聴くのは、寿郎は妙な心地だった。
 美甘はえ? と短く、繰り返している。寿郎の声はすかさず。
「朝起きたらね。体や声だけじゃなくて、気持ちも何だか、落ち込んだり、悲しくなったり、どうしていいか判らなくて大声出しちゃったり、ごめん、何だか不安定で、体も心も全部女の子になっちゃったみたいで、どうしたらいいか判らないんだけど、でも、でもね」
 ぐす、と寿郎は鼻を鳴らし、声が水っぽく崩れていった。
「ミカンにごめんねって、言いたくて。ずっと一緒にいてくれたのに、女の子になっちゃって、ごめんねって、何でだろうね、判らない、ミカンに謝りたかった!」
 ぎゅっと、寿郎の体が美甘を抱きしめた。
 寿郎の声が泣いていた。寿郎の目が涙を流していた。
 寿郎の心も、泣きたかった。
 謝る、と言う選択肢を寿郎は全く、形に出来ていなかったけれど。
 近づく事が怖かった。秘密を明かす事がただ、恐ろしかった。美甘に嘘をつきたくないのに、みっともなく慌てるばかりで、美甘を傷つけてしまう所だった。
 謝るべきだったと寿郎は打たれた。
 本当に思考が共有されていないのか寿郎は疑う。ポワールはまるで、寿郎の心を手に取るように理解していると思った。
 この人は、なんて人なんだろう。
 なんでこんな事が出来るんだろう。
 寿郎は思う。
 この人は、ポワール=グレイグースと言う人は、どれだけの人と出会い、どれだけの人と判りあい、そして何故、ぼくの傍に今、いてくれるのだろう、と。
 美甘は、泣き続ける寿郎の体に、しばらく、抱かれていたけれど。
 片手を寿郎の背中に回して、ぽん、と叩いた。
「そーゆーことは素直に言え。ばか」
 ぽん、ともう一度叩く。
「あんたのこと、あたしは何でも判ってるつもりだからさ」
 ぽん、と背骨に温かく響くように叩いてくる。
 美甘にはかなわないな、と寿郎は思った。寿郎が出来心で手に入れた一八歳未満お断りの書籍も、一週間と経たずに発見したのである。厳重に隠していたのに。あの時は大目玉だったよね、と寿郎は声に出したい気持ちで、届かないと知りつつ美甘に語りかけた。いつでもそこにいてくれた。もう一度、思い出を語りかけるような心で繰り返す。
「えっちな本こっそり買った時だって、美甘にはバレバレだったもんね、怒られたっけ」
 考えていただけの筈なのに涙声になった。
 ぎょっとするとひぐっ、としゃくり上げてしまった。
『ジローに声の主導権がない状態で喋るみたいに念じると、アタシにも聞こえるみたいよ? なーんだ、やっぱりあったんじゃないの。えっちな、ご、ほ、ん』
 体の支配権を一度返して寿郎に喋らせたポワールが、美甘には聞こえない声でけけけと魔性に笑った。
 このタイミングでそれはないと寿郎は慌てたが、会話の流れとしては自然だったので美甘は寿郎とポワールのやり取りに気付かなかった。
「いいよ、もう。昔の話だもん、気にしないでよ」
「うん……ごめん」
『じゃ、第二フェイズに行こうっ。もう一回借りるわね~』
 再びポワールが寿郎の体を乗っ取る。
 寿郎の体を奪って泣き落としまでしておいて、ポワールの声がうきうきと弾んでいるのが、とても寿郎には嫌な予感である。
「お願い、いいかな?」
 迫真の演技である事が明らかになった切ない声で、ポワールの魂が美甘に甘えた。
「任せてよ。何でも言って。力になる」
 美甘がぐすりと鼻を鳴らす。抱きあっていて顔が見えないけれど、美甘は泣いているのだと寿郎は気付く、妙な心だった。先ほどと妙さが一転して、申し訳ない心だった。
「制服、どうしようかなって。女の子になっちゃったし、でも、隠して生きていくなんて出来ないし……学校、行かなくちゃ。こもってたって、何にもならないから。女の子として、生きていかなくちゃ」
 そこか! と寿郎は思いっきり突っ込んだ。突っ込みが声になって全部ご破算になればいいと心の底から願って意識が叫ぶ。しかし、ポワールの欲望の方が強かったらしく、体の支配は奪えず、声にはならなかった。
「いいよ、いい。あたしが貸したげる。これから持ってきてあげるから。寿郎細いし、サイズあんまり変わんないもんね、平気だよ、心配しなくていいよ」
 いいのか! と寿郎はまたも思いっきり突っ込むけれど、結果は同じであった。
 寿郎は思う。
 こんな情けない自分でも、自分なりの人生を賭けた局面で心から願った想いよりも尚、純粋な欲望が力量として勝るとは。
 寿郎は、思う。
 このポワール=グレイグースと言う女は、どんな煩悩(ぼんのう)に胸を焦がして生きているのだと。
 寿郎の懊悩(おうのう)など露知らぬ美甘は、寄せた頭を力強く後ろに引いて、薄暗い毛布の中で寿郎の目を観た。
 寿郎の良く知る、美甘の最高に良い顔だった。まっすぐ、勇気と元気を推進力に、地の果てまででも走っていける、そんな女の子の笑顔だった。
 ごめんと寿郎は心の底から謝ってしまうのだった。
「四の五の抜かす奴は、あたしがみーんな、投げ捨ててやるわ」
 最近、美甘は一級の茶帯を取得した。美甘の所属する流派では、初段の黒帯からは流派に一生を尽くすと誓いを立てなくてはならないらしく、茶帯は学生の最高位であるらしい。寿郎は世界中にお願いした。誰もぼくにつっこまないでください。とても、痛いから。
「オーバーニーソックス、ある? スカート初めてだから、足が冷えそうで、怖いの」
「贅沢言うな。下着も買ってくるけどタイツかハイソックスで我慢してよ」
 こつん、と美甘が寿郎の頭を小突く。ポワールの魂は、寿郎の顔を使って、とても弱々しく笑った。
「ソックスは白がいいな」
「判ったわよ」
「何だかミカン、お姉ちゃんみたい」
「ばかな事言わないの。でも、そうね……悪くない、かな」
 寿郎の声と、美甘が、笑いあう。
 蚊帳の外で寿郎は途方に暮れる。どうやらこれから美甘を姉として仰いで生きていかなくてはならないらしい。ため息が出そう。
 だから寿郎は次の展開を全く、予期できなかった。
 笑いながらポワールの魂が、自然と、唇を美甘に寄せた。
 美甘は笑いながら、寿郎の顔が迫る事態にやはり全く対処できなかった。
 唇が、触れた。
 おでこに。
 ――ほんとうに、ちゅっ、て音、するんだ。
 寿郎はぼんやり、思った。

 毛布を跳ねあげる勢いで美甘が上体を起こす。何故か正座であった。
 調子に乗ったポワールの魂は、毛布に包まれたまましなだれかかるように、美甘にもたれかかり、上気した頬で、潤んだ瞳で見上げる。
 発情したように匂い立つ吐息を洩らして、寿郎の細い腕が美甘の首筋にかかり。
 美甘はふぅ、と機械が排気するような息をついて、酷く簡単に寿郎の手首を掴んだ。
 次の瞬間寿郎は、毛布を吹き飛ばしながら、空中を一回転した。
 マットレスに背中から綺麗に落ち、体重が軽いとはいえ寿郎の体が二度三度とバウンドする。呼吸も一瞬止まる寿郎、何が起きたのか全く分からない、それは美甘も同じで、何故自分は寿郎を投げてしまったのかと、はたとおでこに手を当て、気付いて。
「――ばばばばばばっばかあ!」
 両の瞳にぐるぐる渦巻きを書いてみたような凄い形相で、美甘は立ち上がり後ずさりする。ベッドから落ちて臀部をしたたか打った、それさえ意に介さず瞬時に立ちあがって、もつれる足で階段を飛ぶように駆け下りて、玄関の扉を派手に鳴らし逃げ去った。
 寿郎はひっくり返ったまま、壁紙の継ぎ目まで完全記憶している自分の部屋の天井をぼんやり、眺めていた。
『……ミカンちゃん。若いわ……』
 体、返すわね。ぐったりとうっとりを混合したようにけだるく、ポワールが笑う。
『あのコ、日本のニンジャーかサムラーイか何かなの?』
「そんな職業、今時残ってると思います?」
 寿郎はただぐったりと重く答えた。ポワールは本当に意外そうに。
『えっ? あるんじゃないの?……サムラーイの女の子って感じよね。気に入ったわ』
 くすくすと笑うポワールに、寿郎は残る気力の限りを尽くして、むっとしようと決めた。
 ポワールは、言った。
『アタシは欲張りなの。欲しいものは何でも、手に入れる』
 けだるさの中から覗いた、ポワールの芯、のようなものかも知れない。
『気にいったものも、ひとも、全部、愛し抜いてみせるわ』
 一つの体に重なった今、寿郎にはポワールの眼を観る事は出来ないけれど。
 ポワールは今、とても遠くに焦点を合わせて、世界の果てまでも両手に収めようとして。
 本心から、嘘などつかず。
 望むままに生きようとする意志を、とても大きく膨らませ。
 溢れる意欲のままに、自由に飛んで行こうとするような……そんなポワールの心ではと、寿郎は感じた。
 だからこそ、むっとする。
「気に入ったとか、そんな事で……キスなんてしないで下さいよ。大切なものなんです、勝手に取らないでください」
『それはキスそのものよりも、ミカンちゃんを大切に想ってるって事よね』
 またポワールの、真を突き過ぎる喝破が始まった。ああそうですよ、そうです、と寿郎はうんざりして来たので早くも降参して。
「幼馴染なんです。ずっと一緒だった、同じバレエの教室に通ってた事もあったし、学校だって、ううん、幼稚園からずっと一緒で……判るでしょう? 関係を壊して欲しくない、美甘を困らせたくないんです」
 ちゃんと言えた、と寿郎は思う。結局、問題はそこなのだ。
 女の子になってしまった事で、何が一番困るかと言うと、周りが迷惑するのではないか、また周りの態度が変わるのではという危惧なのだと……でも、本当にそれだけだろうか。
「ぼくがどうしたらいいか判らないのは、本当だけれど……」
 寿郎は我知らず心臓のあたり、胸に手を当て目を伏せて、言葉を探していた。
 胸が膨らんだとは言っても肉付きが薄いのは変わらなくて、胸骨を指でそっと押さえると、男の子の時と変わらず切なかった。
 ポワールは、黙って聞いている。
「ぼくは……どうしたいのか、判らないけれど」

 寿郎は気付いていない。
『けれど』と、二回も続けた事を。
 けれどと、何かを希望している事を。
 しかし、その先は、ない。

『――でも、ミカンちゃんは、受け容れてくれたわ』
 どれほどの間、寿郎が言葉を探していただろうか。時間切れなのか、ポワールの言葉が軽く、間を切った。
『いいコよね。フツー退く場面よ? ジローがミカンちゃんに大切に想われてる証拠だわ。ジローはまだ、なにがしたいのか判らなくてもいいのよ』
 突き放されたのかと、寿郎は一瞬思った。
 ポワールは続けた。
『そりゃ大ごとだわ、女の子になっちゃったなんて。そんな立場だったらアタシだってガガーンとくるかもね。周りの視線も変わるだろうし、その中で自分がどうしたらいいのかも判らない。性別が変わるって事はきっと、自分と自分の持つ関係全部が一気に変わっちゃうって事だと思うのね。怖いわよフツー。当たり前だわ。考えて答えを出せる方がどうかしてる。だから、考え込んで答えが出ないなら、動いてみるのが一番なのよ』
 むっとしていようと、決めた筈なのに。
 寿郎はまたしても、何故だろう、ポワールの言葉に聞き入っている自分をみつけていた。
『ミカンちゃんが受け容れてくれたような善意を全ての人に期待するのは無理かも知れないけど、周りに働きかけていく事も、ジロー自身が周りを受け容れる事も出来る筈だもの。まずはいつも通りでいいの。周囲の目が怖くて、自分の事も怖いなら、まずその怖さが本当かどうか確かめてみましょ? 案外楽しかったりするかもしれないわ。楽しくする事も出来るかもしれない。ジローにはミカンちゃんって味方がいるじゃない。アタシは、ジローが思っていそうな事しかミカンちゃんに喋ってないから、いつも通りでいいのよ』
 寿郎はもう、むっとしていられなくて、おうむ返しのように、確認のように呟く。
「いつも通りに行動して、周りを受け容れてみる、ですか」
『そう。気楽にね』
「なんだか、ポワールさんのことみたいですね」
 何気なく呟いておいて、寿郎にとっても不意の一言だった。
 ポワールは、黙った。
 急に、寿郎の胸の内に、不安のような塊が起こった。
 急な変化に対していじけている自分に、わざわざあれこれと相談に乗ってくれるひとは、自分よりも尚悪い状態にあるのだ。
 ポワール=グレイグースは死んでいるのだ。
 本人の見立てによると、寿郎の中に幽霊のような状態で心だけが残っている。
 女の子に変わってしまったぐらいが何だと言うのか。ポワールは死んでいるのだ。
 しかしと、寿郎は思う。周りを受け容れて、いつも通りにしてみる。それがポワールのアドバイスであり、ポワールもそうして自身の異常な状況と対決しているのだとしたら。
 この人は死んでも変わらない強い魂を持ち。
 自分の出来る精一杯で、現状と真っ直ぐに向き合っているのではないかと。
 そんなに人に自分は、何が出来るのだろうかと。
 そんな事を、寿郎は――。

『――否定がないって事は、肯定よね』
 ポワールは、ぽつりと呟く。
「……はい?」
 寿郎は、話が見えない。
 だからね? ポワールは少しばつが悪そうに、前置きした。
 その態度で、なんだか、寿郎は判ってしまった。
 ポワールは、寿郎の一言に否定をする気がないのだと。
 この人も一生懸命なんだと。
「そうですね」
 前置きしかしていないポワールに、寿郎は言葉を優しくかぶせた。
『でしょ?』
「そうです。そう言う事です」
『ふぅうううん?』
 ニヤ、と姿を見せないポワールが笑うのを感じた。
 妙な反応だった。
「……ポワールさん?」
『つまり、こう言う事よね? ――アタシはジローが思ってそうな事しか喋ってないと言い、ジローはそれを否定しない。ならジローは、アタシがミカンちゃんにおねだりした、学校の女の子の制服とタイツと白いハイソックスを待ってる、って事なのよねーと』
 何を言うのかと頬どころか、生え際も変わったおでこまでが熱くなった。
「否定! この魔女! 感動して損した!」
『ぶっぶー。肯定しておいて否定は男らしくありませーん。こう言うの日本だと《サムラーイは否定しない》って言うんでしょ?』
「違います! 《男に二言は無い》って言うんです!」
「知ってるわ~。ホント、ジローは素直ないい子よねー? はーい、もう一度ぶっぶー。一度肯定しておいて否定したジローは、もう男の子じゃありませーん、女の子の格好をするのが当たり前の女の子でーすっ!」
 はっはァーっ! 寿郎には、赤い髪を振り乱してけたたましく笑うポワールの姿が容易に想像出来た。もう駄目だ、この人、何だか色々駄目な人だと寿郎は理解が進んだが、
「……でも、逃げた美甘が持ってくると思います? 服とか」
『……やっぱり無理だと思う?』
 急に笑いを引っ込め、ポワールは心底寂しそうな声を出した。
「無理に決まってるでしょう! 大体なんですか、キスとかキスとかキスとか、美甘が嫌がらなかったらどうするつもりだったんですか!」
『んー、行く所まで行こうかなって思ってたけど?』
「何処へだーっ!」
『アタシなりに気を使ったのよ? いきなり唇なんて急すぎる、(おもむき)ってものがないわ。おでこで逃げられるとは思わなかったけどねー、次はほっぺで、次に唇で、唇を丹念に這わせて、固く閉じたつぼみを優しく解きほぐすようにね? ミカンちゃんの感情と衝動を少しずつ高めていくのね? そして次はこう――ねっ?』
「何処だーっ!」
『聞きたい聞きたい聞きたいっ?』
「聞きたくなーいっ!」
『まぁまぁ、そう言わずに聞いていきなさいよ、お代は聞いてのお帰りよ~?』
「いーやーっおかーさーんっ変な人がいるううううーっ!」
 ――と言うようなやり取りの末、寿郎は学校に行く事にした。
 女子の制服を、美甘は持って来なかった。
 今日の着せかえのテーマは、遺憾ながら男装! ――と、ポワールは宣言する。
 ばたばたしたので結局遅刻しそうな時間で、クロワッサンひとつを咥えて、寿郎とポワールは家を飛び出した。
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