――そして、昼休みを告げる鐘が響いた時、

文字数 5,944文字

 そして、昼休みを告げる鐘が響いた時、寿郎は机に突っ伏していた。
 男の子の頃の感覚で机に上半身を預けると胸が潰れて少し苦しいけど、お構いなしだった。苦しいが、これで息の根が止まると楽になるかも知れない、思考が捨て鉢だった。
『お疲れさーま』
 おでこを乗せる腕を顎までずらして、半開きのだるい目を上目遣いに。息の根が止まっている女がいる。机に優雅に腰掛けるフリをして、腰から体を(かし)げて覗き込んでいる。
 独り言ぐらいは周囲も大目(おおめ)に見てくれるだろうと、寿郎は呟いた。
「……たらい回しって言葉、知ってる?」
『アタシお役所行った事ないから知らなーい』
 けらけらとポワールが笑う。知ってるんじゃないか、と口の中でもごもご。市役所で窓口の不手際に逢った哀れな市民よろしく、右に左にと引きまわされた午前中だった。
 ホームルーム終了後、まだ教職採用されて二年の若輩教師、担任の見島(みしま)を廊下で掴まえて、肉体の変化を打ち明けた所から、午前中いっぱいを活用したたらい回しが始まった。
 まだ幼さの残る日本史教師見島秋穂(みしまあいお)、二十四歳、男、がはっきりと慌てふためいた。とにかく一時間目の授業を受けるようにと優柔不断な指示を受けた。
 一時間目の途中突然教室の前の戸が開き、学年主任の古株教師、古文の梅本が現れた。見島が沙汰を持て余し、いかにも頼れるおばちゃんと言った風情の梅本に泣き付いたのが見え見えだった。授業の途中で事情聴取のため、生徒指導室に直行。流石に昨晩の不思議な出来事とポワールの存在を明かす訳にも行かず、朝起きたらこうなっていた、の主張一点張りで凌いだ。これはまだ、後の展開と照らしてみると短く済んだ方。梅本は、困ったらいつでも相談に乗る、と手を握ってくれた。頼れるおばちゃんだと思った。肥満体なのに手には脂っ気がなくカサついていたのが主婦そのもので、実に逞しかった。
 教室に戻り、席を立っている間に崩壊していた中世ヨーロッパのとある国家について確認するべく教科書を開くと、すぐさま次が来た。教頭の田口が教室をノックした。いきなり教頭が来るなど予想だにしていなかった寿郎は慌てた。そのまま生徒指導室に逆戻り、かと思ったが、連行された先は茶道部室の、茶室。茶道部顧問である教頭の田口は、美しい手並みで抹茶の碗を、寿郎に勧めた。
 田口の話はとても長かった。話の要点はなんだったっけ、良く思い出せない。確か、私には十歳になる娘がいる、遅くに授かったたった一人の娘でね……と迂遠な話が始まった気がする。抹茶は美味しかった。ポワールも美味しいと感動していた。強いカフェインと渋みで口と頭がサッパリしたが、サッパリ要領を得ない話が続き、カフェインの効能が薄れて眠くなってきたあたりで、ポワールは薄情にも寝る、と言って途中で寝た。幽霊のような存在である彼女は眠れるのだと再確認した。三時間目の中ほどまで話は続いた。田口の話は、男の子が女の子になると言う事はとても大変な事なのだ、心して生きていくように、と言うような内容だったのかも知れない。別段、田口は性転換経験のある人間ではなく、五〇も過ぎた初老の紳士である。
 カウンセリングを受けていくようにと田口に言われ、正座続きで爪の先まで痺れた足を引きずり茶室を出て直接保健室に向かった。授業中の静まり返った廊下を歩いていると、つくづく、迂闊な事をしたかも知れないと身に詰まされる思いだった。保健室はすぐに用が済んだ。近々に病院に行って受診しろ、と指示されるだけの時間はカウンセリングとは呼ばない。保健室の主である西川は、あまり人気のない養護教諭だった。黙っていれば美人だが、喋ると事務的で、特に女子人気がないと聞いた事がある。病院には掛からないでおこう、と寿郎は決意したが口には出さず生返事で押し通った。
 保健室を退出し、では授業に戻ろうとした所でポワールが起きた。
 気分爽快に目覚めたポワールに薄情者、といじけた言葉をこぼした所で内線電話が保健室で鳴るや扉が開き、校長室に行くように、と西川が事務的に寿郎に指示した。
 校長室の応接ソファーで、番茶ではないだろういい香りのする緑茶が出た。ポワールが興味津々だったが、寿郎はもう誰にも何も貰いたくなかったので手をつけなかった。
 校長と言う職業のご多分に漏れず、長い話を基本技能に持つ校長の海老原の話も長かった。ただ、教頭の田口がしたような教育的な話ではなく、今後の処遇に終始した感がある。
 校長と言う人種と差し向かいで話をしたことなどついぞない。恐縮して小さくなりながら頷いていると話は四時間目の半分が過ぎた辺りで終わった。学校としては、という言葉が連発したと気がする。彼こそが学校である、何せ校長だもの。朕は国家なり、と豪語したのはフランスのルイ何世だったっけ。ともかく曰く、学校としては――性急な判断を保留し、このまま様子を観て、教育委員会などには報告しない、と言う。
 なんだ、担任の見島が話を持て余したのと大差ないじゃないか。寿郎はどっと疲れた。
 教室に戻ると世界史の授業だった筈が数学になっていた。宿題を忘れた事は強面の教師田崎に気付かれなかった。ちょっと儲けた気分だが、色々割に合わない。そもそも授業を色々受け損ねた格好だ、中間テストは終わったばかりだが期末テストが少し心配。はたして今日の午前中が有意義であったかどうか、判断する事さえ寿郎には億劫だ。
『採点するなら、百点満点だったと思うわよ?』
 他人事のように寝ていたくせにポワールが採点者のような事を言った。
 寿郎は独り言の頻度を減らすため、責めるようなジト目を注いで続きを促した。
『だからさー、ジローの心情的な問題はさて置いて、女の子になっちゃった事に付きまとう社会的な問題は、こと学校の先生たちに限っては一掃できたと思うのよ。ずるずると通告を先延ばしにすれば、相手側に情報を仕入れたり整理する時間を与えてしまったかも知れない。それならもっと話が面倒くさくなったかも知れないわ。こちらから先制を一発くれて、ペースに巻き込んだ格好ね。女の子になっちゃった――って状況を盾に急な決済を相手に迫って、無難な着地点に強引に着陸させる。取引としては上等よ』
「そんなつもり、なかったんだけど……」
 思わず独り言が出た。そんな風に評価されると、自分が大層な事をやってのけたように思えるが、そんなつもりも手ごたえも、さらさらないのだった。
『まあね、結局先生たちがみんな、いい人たちだったって事がこの展開の(キモ)だろうし。それぞれの裁量で、それぞれの職分で、可能な限り迅速に、事態に波風を立てないように……ジローの学校の先生って有能で誠実なのね。驚いちゃった。もっと悪党がいるかと思ったわ。恣意(しい)的に展開を誘導したり、私利私欲でジローをハメようとしたり……』
 くくく、とポワールが暗い視線で楽しそうに笑っている。多分ポワールは今、自分が悪党の教師ならどう寿郎をハメようか、またそのようにハメようとした相手に反撃するにはどう手を打つべきか、またその反撃に対して悪党の自分は……と、独りで詰将棋のような思考ゲームをしているのだと寿郎は思う。彼女の高校生活の思い出と世界の善意に乾杯。
『対大人戦はケリがついたけど、後はクラスメイトね。ほーら、みんなジローに興味一杯』
 ご覧あれ、とポワールが大仰に腕を水平に振ってみせた。もうちょっと肩と腰を入れて柔らかく使うと手が長く見えて綺麗になるなーと、寿郎は思ったが口に出さない。
 ポワールがそうだと言うのだからそうなのだろうと、周りを見回しもしない。
 一時間目に二回も呼び出され、四時間目の終わり際まで帰ってこなかった寿郎の事を、周囲がどう思っているかは寿郎にも容易に想像がついた。なにがあったんだろう、呼び出しで絞られたのか、そう言えば今日鳥井の様子がおかしい、とか何とか、その類だろうと。
『教壇空いてるし、一発アジってみるとかどお?』
「……(アジ)?」
『アジテーション、煽動よ。訴えかけて泣き落とし、お涙頂戴で全米震撼なロングスピーチを一丁ぶちあげるのよ。拍手喝采が聴こえるようだわ』
 つくづく、この女は元気だなと寿郎はぐったり、顔を腕にうずめる。
「……今日はもういいや、なんだか疲れたし」
 あらら、とポワールは肩をすくめた。
『若いのに淡白ねぇ。折角、周りに働きかけていこうって思ったんでしょ?』
「……そうなのかな?」
 何で自分はこんな事をしているのだろうと、寿郎はふと今更疑問に思った。
 寿郎は、元の体に戻りたいと思っている。
 元の体に戻れるまで、変化を受け容れて、当たり前のように過ごしてみる。
 だから、ポワールと一緒に、女の子の体で学校に来た。
 だったら、自分の躰の変化について誰も知らなくても、構わないような気がする。
 なのに、友だちに秘密を自分の意思で打ち明けて、担任の見島にも自分で話を始めた。
 それは、ポワールの言うように、社会的な問題を解決するための行動ではないのだ。
 ただ、単純なことだった。
 どきどきしていたのだ。浮かれていた。この気持ちを、寿郎は良く知っている。
 ステージに立つように。
 何度となく練習して体に覚え込ませ、それでもまだ満足ではない振付を抱いていると、ベルが鳴って、緞帳が上がって――踊らなくちゃ。小さな頃からずっとそうだった。バレエ教室の発表会も、国内のコンクールも、いつだって客席の視線に曝されると、胸がどうしようもなく高鳴り、緊張と集中で精いっぱい、表現を望んで限界以上に躰が動く――。
「……同じなんだ」
 訴えかける事、声を出す事、《感じ》や《思い》を実行する事。
 誰かの影に隠れて静かに生きているだけでは、味わえないこの感覚。この感動。
 自分が行為によって立ち現われる瞬間。
 寿郎の中には何もない。行動する事で寿郎が現れる。
 鳥井寿郎とは、行動した結果の現象なのだ。
 顔を上げ、上体を起こす。口に出す。強く、言葉になる。
「踊る時と、同じなんだ」
 想いは顔に出た。少し遠い目で赤らむ頬。熱に浮かされたような、とても大きくて熱くて輝くものが体から出ていこうとして、肉体が酔っ払っているような。
『……気持ちがよかったのね?』
 ポワールが優しい目をして、念を押して尋ねる。
「うん。とっても。胸がきゅんってしたから、いても立ってもいられなくって……」
『今は、どう?』
 ポワールの声は、重ねて優しかった。
「疲れたけど、すっごい気持ちいい」
 きゅっと、目を細めて寿郎が笑う。
 ()のように形なく、また鮮やかな、寿郎の笑顔だった。

 ――誰かが箸を落とした。
 その小さな音に寿郎は、ふと辺りを見回す。見回すそばから変だなと思った。
 誰もが寿郎を観ていた。
 少なくとも、約一八〇度、視線を巡らせた範囲内のクラスメイトは全員。
 おのおのが弁当包みを解いて、昼食だと賑わっていた教室の筈だった。
 教室は静まり返っていた。
 女子の誰かが、可愛い、とポツリ呟いた。
 誰が可愛いのかと、寿郎はぽうっとした意識で思ったがすぐに顔から熱が褪せて、たちまち青くなる。何を言ったのだ自分はと、恐ろしい勢いで血の気が引いていった。制服姿の周囲と比較するとひと際浮いているポワールが、うんうん、と大きめの胸が際立つ腕の組み方で、感心したように何度も頷いていた。
『さっすがジローね。みんな夢中みたいよ? 凄かったわー、なんていうの? こう……』
 鳥井、エロい……と性衝動と言動に境目がなくなった男子が身も蓋もない事を言った。
『そうそれそれ。エロスね。実にエロス。艶っぽくってもう、お姉さんもドキドキよっ』
「――今のなしっ! 忘れて!」
 思わず叫ぶと教室が沸騰した。歓声が沸き起こった。全米は震撼しなかったが教室ひとつが大音声で震撼した。声が塊だった、教室が一塊になった。
「ちょ、ちょっとみんな落ち着いて、落ち着いて!」
 勿論誰も黙らない。落ち着くわけがない。初めての恐怖があった。ステージには何度となく立ち、客席のために踊って来たが、客席が暴徒化した事はなかった。そう、暴徒と対する時の不安、土石流が今まさに寿郎めがけて突っ込んでくるような恐怖。反射的に仲間を探す、藁にもすがるとはこの事だ、黒崎と甲賀と里村を、沸き上がる級友たちの中から見つけた時は不覚にも涙が出そうだった、巨大な弁当箱を小脇に抱えた里村がうおーっ! と拳を突き上げて絶叫しているのを観て本当に泣きたくなった、一緒になって騒いでるじゃないか! 里村を羽交い締めにする黒崎、唖然とする甲賀、全く状況を変えるには至らない寿郎の仲間たちは無力だった。
 最後の頼みの綱、ポワールを観る。一瞬で諦めた。誰にも見えない彼女の姿は、まるで群衆を煽るように両手を下から上にリズムをつけた仕草で、心底楽しそうな顔で……思えば、寿郎の言葉を誘導したのはポワールだ。この女はこの状況を狙って作った。
 気持ちいいってどーゆーことだーっ! と性欲が辛抱堪らなくなったらしい男子がひと際大きく聞えよがしに吠えると、女子が仲良しグループの塊単位で悲鳴を上げる、バカ、最低、何考えてんのよと、下半身への衝動でデリカシーが欠片も残さず吹き飛んだ男子を糾弾する、寿郎は自分が糾弾されているように思えて、もう本当に泣こうと思った。
 男の子だから泣くな、と言われ続けた人生だった。
 女の子なんだから、泣いたって誰も文句言わないよね。
 自尊心と我慢を投げ捨て、不安と恐怖と戸惑いを大急ぎで悲しみに変換する。涙腺が実包を製造し、鼻腔にまず降りた水分質を思い切りすすりあげる、目から鼻へのバイパスが渋滞を起こし、いよいよ目尻から女の子の最終兵器がこぼれようとする、その時だった。

 どかん!
 ――と、教室の後ろの扉が弾けたように開かれた。
 誰もが、異常な騒乱を聞き付けた教師の介入かと、一瞬で口を噤んだ。
 寿郎のせこい涙も、爆発寸前で止まった。
 再び静まり返った教室をつかつかと渡る足音は、寿郎の隣に立ち、無言で強引に腕を掴むと引っ張って連れ去った。
『あらら。白馬の王子様って感じね』
 寿郎にくっついてのこのこと歩くフリをしながらポワールが少し惜しそうな声で言った。
『いや、女騎士様、かな?』
 サムラーイだもんねと、呟きが少しだけ寂しげに、聞こえた。
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