――夜を歩く。

文字数 1,661文字


 夜を歩く。
 石段を登っていく。
 灯りもなく、暗闇にぼんやりと白く浮かびあがる石段は現実感に乏しく、踏み外さないよう気を配りながら、水の底の暗さとはこのようなものかと、鳥井寿郎(とりいじろう)はふと思った。
 夜風も、冴え冴えとした水のようだった。
 ――『ジゼル』、と言う御伽噺(おとぎばなし)を、鳥井寿郎は思い出していた。
 石段にかけた足が止まる。
 首を軽く振る。
 何かにつけて、そんな事ばかり考えてしまう。
 いつだって、同じ事を考えている。
 どんな事があっても……愚かにも、寿郎はバレエの事を考えてしまう。
 そんな自分が、寿郎は少しだけ厭になった。
 悔しいのに、苦しいのに、涙も出てこない。
 涙の代わりに己を嘲おうと出来そこないの溜息一つさえ、いじけていて気が滅入った。
 鳥井寿郎は、ダンサーだ。高校生であり、アマチュアだが、舞踏(バレエ)に生きると心を決めたのなら、生き方はダンサーだと寿郎は思う。三歳の頃から、古典(クラシック)現代(コンテンポラリ)の両方を学ぶ。
 いや、学んでいた、と言うべきか。
 それとも、学んでいる、と貫くべきか。
 寿郎の細くしなやかな手足は、そんな日々たゆまぬ修練で作られたものだ。中性的な童顔――王子様、と言うには寿郎自身に言わせると身長が足りない。バレエダンサーに必要な身長と言うものがある。舞台で王子様を演じるなら、背は高くあるべきだと寿郎は思う。
 小さな体はいつだって恨めしかった。
 小さくて、細身で、女の子のよう、と言われる度に気分は沈んだ。
 それでも、持って生まれたものは仕方がない、出来る事は必ずある。そう言い聞かせてきた。自分自身に。
 再び、石段を登り始める。
 冷たく重い水のような夜、登る先は果たして、水面(みなも)だろうか。
 それとも、登っているつもりが実は、潜っているのだろうか。
 ――『ジゼル』。
 またしても脳裏によぎる、ジゼル。水の女。
 それは、クラシックバレエの代表的な演目(タイトル)だ。

 寿郎の友人たちはバレエと聞くと難しそうな顔をするけれど、寿郎にはそれが不思議だ。
 御伽噺(おとぎばなし)は難しくないからだ。
 クラシックバレエの多くは、題材に御伽噺(フォークロア)を採る。
 王子様がいて、お姫様がいて、妖精がいて、悪い魔法使いもいる、そんな御伽噺(フォークロア)
 ジゼルの物語とは、悲恋を巡る物語。
 ジゼルと言う少女が、アルブレヒトと言う青年に騙され、恋破れた悲しみの内に死ぬ。
 そして、森の奥の沼で、水の妖精に生まれ変わる。
 裏切られ、打ちひしがれ、人ならざる者となったジゼルは月光のように淡く、夜風のように透明に、夜の沼に立つ。
 ほら、観る分にはとても簡単だ。ジゼルは舞台に現れる。
 観る分には、舞台上のジゼルに心を寄せるだけでいい。
 ただ、ダンサーには難問だ。
 ジゼルを演ずる者は、月光のように淡く、夜風のように透明にならなくてはならない。
 クラシックバレエには科白(せりふ)がない。
 言葉の綾を用いず、ただ己の身体のみで、ジゼルにならなくてはならない。

 石段を登りきった。
 鳥居をくぐる。
 神社の境内だ。
 街の灯が微かに届いて、石畳がまるで舞台のように白く、浮かび上がる。
 ここが今の、鳥井寿郎の舞台。
 恩師はいない。仲間もいない。観ていてくれる眼だって、ない。
 肩に下げていたボストンバックを落とす。
 シャツのボタンを、ひとつずつゆっくり外して、ボストンバッグに畳んで仕舞った。
 上はタンクトップ一枚。露出した肩に、夜気が冷たい。
 息を、長く取った。
 息を重ねて、首の、肩の、背中の力を抜いていく。
 鳥井寿郎は、考える。
 もしぼくが、女の子だったら。
 ぼくはジゼルになれるだろうか。
 裏切られた。打ちひしがれた。
 その果てにとても希薄な者になれればいいのに、と思う。
 今夜も踊ろうと、鳥井寿郎は思った。
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