――停めろ、と男装の女が……
文字数 2,370文字
停めろ、と男装の女が左ハンドルに告げた。
首に、細いチョーカーを巻いた女だった。
市内の歓楽街、と言うには余りにつつましい温泉街だ。岳中市は、岳中県の県庁所在地だが、公官庁とさほど離れていない区画に、飲食店や旅館などが軒を連ねた温泉街がある。
朝の出勤ラッシュで片側一車線の道路は混雑していた。艶のある黒塗りのメルセデス、最上級サルーンであるSクラスは渋滞を全く意に介さず、路肩に寄せてハザードをつけた。
排気量約六〇〇〇㏄のエンジンを積んでいるとは言っても、車内は静かなものだった。触らぬ神に、といった感じで恐る恐る追い越していく車列の走行音も届かない。
その後席。パンツスタイルのダークスーツとロングコートを着こなす長い手足を、シートに鷹揚に沈めた女は、騎士である。武装の代わりに男装する女騎士。栗色の髪をベリーショートに切り揃え、琥珀色の目つきは鋭かった。筋肉質の首を僅かに巡らせ、隣を観た。
「お前の主人を探してもらう」
女騎士に、命じられた少女の年齢は十歳に達したほどか、身にまとう服は、とても淡い緑のワンピースだった。ドレスのようにも見える、華やぎがある意匠。幼子のプラチナブロンド、白い肌、そして緑の瞳。造り物のように整い過ぎた少女性の美を持ちながら、存在自体がとても淡く、視線も俯いていた。
俯いた視線の先には革張りの四角いトランクがある。少女の小さな躰と酷く不釣り合いに大きかった。トランクの中に、子ども一人ぐらいなら入るかも知れない。
「お母さんは、亡くなりました。もういません」
頑なな、少女の言葉だった。
女騎士は、酷く簡単に。
「心配するな。奴はあの程度では死なん」
女騎士の硬い表情は動かない。揺るがない。
行くがいい、と女騎士は続けた。
「お前は奴を失っては生きていく事も出来まい。探せ。探して今までのように依存しろ。お前が奴を見つけた時、今度こそ私がお前たちを揃って殺す」
女騎士は、鼻を二回、鳴らした。獣が匂いを嗅ぐ時の仕草に似ていた。
「私は、お前の匂いを憶えている……行け、オランジェ。ドアを自分で開けて、な」
オランジェ、と呼ばれた少女は、静かにドアを開けると、朝の温泉街の歩道に降り立つ。
そしてドアを自分で静かに閉め、ゆらゆらと、トランクを重そうに両手に提げて、不確かな足取りで歩き始めた。
「……《緑のオランジェ》」
いつまでも熟す事のない、緑のままのオレンジ。呟く女騎士の表情が微かに、動いた。
「もう、死んだって事でいいんじゃないですか?」
左シートのハンドルにもたれかかった女が、うんざりしたような睡眠不足の言葉を吐き、だらしなく首を掻いた。
「あの人形、世界にふたつとないものだって言うじゃないですか。手に入れておいてわざわざ放すなんて、夕べの雨で奴の匂いが消えたにしてもね」
フルスモークのガラス越しに、オランジェの行方に神妙な面持ちを向けていた女騎士は、日常会話のように。
「夕べ死んだ貴様の姉も役立たずの能無しだったが、妹の貴様も同じだな」
「……もう一度言ってみなよ」
車内が気色ばんだ。前席と後席の狭間に横たわる空間が殺意で捩られ、歪んだ。底冷えするような女の言葉に、聞こえなかったようだな、と女騎士はあっさり。
「お前はくずだ。与えられた役目を理解していない、能無しだ」
「くたばれ、犬女」
女の指がジャケットの内懐から小瓶を取り、コルクを弾こうと、親指を伸ばした。
しかし、親指はコルクに届かず、凍りつく。
シートのヘッドレストに、それが押しあてられる方が早かった。
それとは、木材を多用した、とてもクラシックな形の単銃身の散弾銃 だった。銃身とストックを切り詰めてコンパクトに仕立て直した、いわゆるソウドオフ。大柄な女騎士はそれを片手で、拳銃の抜き撃ち のように軽やかに扱った。そうとも、と女騎士は語りかける。
首のチョーカーを、とても大切なもののように、指でなぞりながら。
「犬には誇りがある。貴様らには、それがない。人手不足は深刻だが、くずは存在するだけで迷惑だ。死ね」
「待て! 悪かった、待ってよ、待って!」
無節操な怒りに沸いていた女が命乞いを始める。女騎士は少しだけ、眉をひそめた。
「聞けんな。折角調達した車を破棄するのは勿体ないが、私ひとりなら車は要らない。姉を守れずむざむざ死なせた貴様の棺桶には丁度いいだろう。世界一のメルセデスに相応しく、丁寧に爆破処理してやる」
女騎士は引き金を絞る。
やめて、殺さないで! ――と女が叫んだ時、引き金は絞りきられ、撃鉄が落ち、カチンと音がした。
散弾は、発射されなかった。
実包 は、装填されていなかった。
うっかりしていたな、と女騎士は、とてもうっかりとは思えない冷たさで呟いた。
「……お前の最期の節度は誉めてやる。逃げ出さず、通行人に助けを求めなかった事だ。お前は死んだ。以後、私の命令で動け」
抜く手を見せなければ、仕舞う手も見せない。いつの間にか、拳銃のように扱うにしてはいささか大きなショットガンはコートの内側に消えていた。
「今から私、シトロン=ケテルがお前を預かる。妹にはしてやれないが、働きに期待する。車を出せ。朝食にしよう」
女は抗えない。ハザードを切り、ウィンカーを出す。ハンドルを握る手が震えている。弾が入っていないとしても、もう反抗など出来ない。女騎士シトロンの手は、ショットガン一挺ではない事を知っているからだ。
ゆっくりと流れ始めた田舎町の景色に、シトロンはまた、ぽつりと呟いた。
「祝祭のポワール」
殺しても死なないと、シトロンが信じる追跡目標の、仇名だった。
首に、細いチョーカーを巻いた女だった。
市内の歓楽街、と言うには余りにつつましい温泉街だ。岳中市は、岳中県の県庁所在地だが、公官庁とさほど離れていない区画に、飲食店や旅館などが軒を連ねた温泉街がある。
朝の出勤ラッシュで片側一車線の道路は混雑していた。艶のある黒塗りのメルセデス、最上級サルーンであるSクラスは渋滞を全く意に介さず、路肩に寄せてハザードをつけた。
排気量約六〇〇〇㏄のエンジンを積んでいるとは言っても、車内は静かなものだった。触らぬ神に、といった感じで恐る恐る追い越していく車列の走行音も届かない。
その後席。パンツスタイルのダークスーツとロングコートを着こなす長い手足を、シートに鷹揚に沈めた女は、騎士である。武装の代わりに男装する女騎士。栗色の髪をベリーショートに切り揃え、琥珀色の目つきは鋭かった。筋肉質の首を僅かに巡らせ、隣を観た。
「お前の主人を探してもらう」
女騎士に、命じられた少女の年齢は十歳に達したほどか、身にまとう服は、とても淡い緑のワンピースだった。ドレスのようにも見える、華やぎがある意匠。幼子のプラチナブロンド、白い肌、そして緑の瞳。造り物のように整い過ぎた少女性の美を持ちながら、存在自体がとても淡く、視線も俯いていた。
俯いた視線の先には革張りの四角いトランクがある。少女の小さな躰と酷く不釣り合いに大きかった。トランクの中に、子ども一人ぐらいなら入るかも知れない。
「お母さんは、亡くなりました。もういません」
頑なな、少女の言葉だった。
女騎士は、酷く簡単に。
「心配するな。奴はあの程度では死なん」
女騎士の硬い表情は動かない。揺るがない。
行くがいい、と女騎士は続けた。
「お前は奴を失っては生きていく事も出来まい。探せ。探して今までのように依存しろ。お前が奴を見つけた時、今度こそ私がお前たちを揃って殺す」
女騎士は、鼻を二回、鳴らした。獣が匂いを嗅ぐ時の仕草に似ていた。
「私は、お前の匂いを憶えている……行け、オランジェ。ドアを自分で開けて、な」
オランジェ、と呼ばれた少女は、静かにドアを開けると、朝の温泉街の歩道に降り立つ。
そしてドアを自分で静かに閉め、ゆらゆらと、トランクを重そうに両手に提げて、不確かな足取りで歩き始めた。
「……《緑のオランジェ》」
いつまでも熟す事のない、緑のままのオレンジ。呟く女騎士の表情が微かに、動いた。
「もう、死んだって事でいいんじゃないですか?」
左シートのハンドルにもたれかかった女が、うんざりしたような睡眠不足の言葉を吐き、だらしなく首を掻いた。
「あの人形、世界にふたつとないものだって言うじゃないですか。手に入れておいてわざわざ放すなんて、夕べの雨で奴の匂いが消えたにしてもね」
フルスモークのガラス越しに、オランジェの行方に神妙な面持ちを向けていた女騎士は、日常会話のように。
「夕べ死んだ貴様の姉も役立たずの能無しだったが、妹の貴様も同じだな」
「……もう一度言ってみなよ」
車内が気色ばんだ。前席と後席の狭間に横たわる空間が殺意で捩られ、歪んだ。底冷えするような女の言葉に、聞こえなかったようだな、と女騎士はあっさり。
「お前はくずだ。与えられた役目を理解していない、能無しだ」
「くたばれ、犬女」
女の指がジャケットの内懐から小瓶を取り、コルクを弾こうと、親指を伸ばした。
しかし、親指はコルクに届かず、凍りつく。
シートのヘッドレストに、それが押しあてられる方が早かった。
それとは、木材を多用した、とてもクラシックな形の単銃身の
首のチョーカーを、とても大切なもののように、指でなぞりながら。
「犬には誇りがある。貴様らには、それがない。人手不足は深刻だが、くずは存在するだけで迷惑だ。死ね」
「待て! 悪かった、待ってよ、待って!」
無節操な怒りに沸いていた女が命乞いを始める。女騎士は少しだけ、眉をひそめた。
「聞けんな。折角調達した車を破棄するのは勿体ないが、私ひとりなら車は要らない。姉を守れずむざむざ死なせた貴様の棺桶には丁度いいだろう。世界一のメルセデスに相応しく、丁寧に爆破処理してやる」
女騎士は引き金を絞る。
やめて、殺さないで! ――と女が叫んだ時、引き金は絞りきられ、撃鉄が落ち、カチンと音がした。
散弾は、発射されなかった。
うっかりしていたな、と女騎士は、とてもうっかりとは思えない冷たさで呟いた。
「……お前の最期の節度は誉めてやる。逃げ出さず、通行人に助けを求めなかった事だ。お前は死んだ。以後、私の命令で動け」
抜く手を見せなければ、仕舞う手も見せない。いつの間にか、拳銃のように扱うにしてはいささか大きなショットガンはコートの内側に消えていた。
「今から私、シトロン=ケテルがお前を預かる。妹にはしてやれないが、働きに期待する。車を出せ。朝食にしよう」
女は抗えない。ハザードを切り、ウィンカーを出す。ハンドルを握る手が震えている。弾が入っていないとしても、もう反抗など出来ない。女騎士シトロンの手は、ショットガン一挺ではない事を知っているからだ。
ゆっくりと流れ始めた田舎町の景色に、シトロンはまた、ぽつりと呟いた。
「祝祭のポワール」
殺しても死なないと、シトロンが信じる追跡目標の、仇名だった。