――シトロンは、匂いを嗅いでいた。

文字数 3,046文字

 シトロンは、匂いを嗅いでいた。
 少女を尾行して突きとめた、少年の家の匂いだ。
 奇妙だった。
 少年の匂いを探していた筈だった。
 しかし、少女と共に出かけたのは、少年ではなく少女だった。
 探している少年の、姉か妹か、とも思ったが、どうやら違う。
 匂いが似すぎている。その感想は、シトロンには初めてだった。
 少年と似た少女が家を出る時鍵をかけるのを、シトロンは隣の民家の屋根の上で観た。つまり、家には他に誰もいないと言う事になる。
 家屋内に侵入する危険は冒さず、しかし玄関先と庭の匂いを丹念に嗅ぐ。
 匂いは雄弁だ。視覚や聴覚、触覚以上に謳う。残留する、と言う特性が何よりも大きい。
 匂いを嗅ぎ、想像力を働かせれば大概の事を解明できる。
 匂いから判ってくるもの。少年、いや、少年にとてもよく似た少女の家の、生活感。
 ひとつ。少年によく似た少女は、独り暮らしである事。これは、人の出入りがある玄関に、決まった時間に規則的に積み重ねられた匂いが一種類しかない事。父や母、兄弟はこの家に住んでいないと言う事。シトロンが尾行した少女の匂いも散見されるが、姉妹ではないだろう。匂いの質が違いすぎる。大方、世話を焼いている友人、或いは恋人、と言った所だろうか。同居しているにしては、匂いが少なすぎるのもこの考えを後押しする。
 ひとつ。少年によく似た少女は、匂いがごく最近、微妙な変化を遂げたと言う事。神社で嗅いだものと同じ匂いが、玄関先と庭先にたっぷりと残っていた。しかし、つい今しがたドアノブについた匂いは、僅かだが変化を遂げている。似すぎている、と表現したが、違いは一点のみ。少年の匂いに少女らしさが加わった、と言う事。匂いに多少なりとも華やぎが出て、少し甘酸っぱくなっている。評価し直すと、尾行した少女に付着していたのはこの甘酸っぱくなった匂いの方だった。少年そのものと感じるほどの微妙な変化だ。
 ひとつ。匂いの微妙な変化は、今朝方起こったらしい、と言う事。ごく最近、と括ってしまえるほど甘酸っぱい匂いが少ないが、風雨で輪郭がぼやけていく匂いの特性上、新しい匂いと古い匂いを比較して、いつ匂いが現場に刻まれたのか、その評価を丹念に行うと、今朝と言う判断になる。夕べの大雨で匂いは全てぼやけた。ぼやけていない新しい匂いは、甘酸っぱい匂いだけだ。
 以上、調査結果が三つ現れた。
 三つ、と言う条件を、シトロンは重要だと知っている。
 縦横高さを持つ立体は、縦、横、高さの、三つの条件で完成する。
 交通事故は、三つの条件が重なって起こる――不注意、暴走、ガードレール、など。
 命を奪う危険は、三つの予兆を必ず伴う――武器の不所持、逃げ道の失念、刺客、など。
 一なら偶然を怪しめ。
 二なら危険と思え。
 三なら必然が襲ってくる。
 三つと言う数字は、シトロンが長年培ってきた危機管理の大原則だった。
 この三つを、一つの結論として評価する――少年は今朝、少女に、変身した。
 いかにも奇妙、奇怪な結論だ。しかし、匂いは決してシトロンを裏切らない。
 この結論を、ポワール失踪の枠組みに組み入れてみる。
 犬特有の哲学する顔で、ふさふさの尻尾をゆるゆると振りながら、シトロンは考える。

 一、交戦地点近くの神社で、少年の匂いを嗅いだ事。
 二、その少年を追っていたら、少年が少女になっていた事。
 三、ポワールを見失ったのは夕べ、少年が少女になったのは今朝。

 性急な判断はするまい、シトロンは少女になった少年の家の生け垣に、下半身を突っ込んで寝そべった。
 仮に、今この時もポワールが匂いを断って、この街から遠ざかっているとしよう。時が経つほどに、ポワールは遠ざかっていくだろう。
 しかし、それは夕べの離脱を許した時点で甘んじて受けなくてはならない、シトロンのミスだ。
 夕べ、見失った時点でこの街での勝負は決したと言ってもいい。ポワールの逃げ切り勝ちと言う結果を、シトロンは受け入れなくてはならない。
 今、こうしてポワールをこの街にいると仮定して探すのは、半分は後始末のようなものだ。この街からどこに逃げたかぐらいの情報を手に入れられれば上等の部類だ。《魔女の森》がこの街に増員を回さない事もシトロンは納得尽くだ。どうせ人手を回すなら先回りが上策だ。
 しかし、様々な事が引っかかる。
 あれほど大切にしていた《緑のオランジェ》を、ポワールが手放した事。
 今までにないほど、ポワールが痕跡をまるで残していない事。
 そして、少女に変身した少年。
 ……またしても条件が三つ、セットになる。
 ――本当に、シトロンが《野性の呼び声(C.O.Wカスタム)から撃ち放し、ポワールの脇腹を抉ったと観えた12番ゲージ00バック散弾が、ポワールを殺していたのだとしたら。
 ――自らの死を悟ったポワールが、その最後の力で自らの死体を、血の一滴も残さず消滅させたのだとしたら。
 ――お前は、アタシを一生、探し続けていなさい……ポワールが最後に、そう悪意を持ってシトロンを嵌めたのだとしたら。
 ――ポワール抹殺によってついに得た勝利を信じられないのが、シトロンだとしたら。
 ぱたり、と尻尾を地面に軽く、叩きつける。
 シトロンは、鼻で嗅ぐ匂いしか信じない。
 ポワールは、そんなシトロンを熟知しているだろう。
 五年もポワールを追いかけてきた。二十年も、ポワールと関わってきた。
 ポワールにとってもそれは然り。追うと追われるに別れたが、それは五年前からの関係。
 それより昔は、憎まれ口で背中を預けあい、共に戦いもした。
 ポワールを守ると誓った事もあった。
 共通の大切なものを失った事もある。追跡と逃走に別離した契機。優しい掌よ。
 シトロンが追い続けなければならない状況を残してポワールが死ぬ事は、簡単だろう。朝飯前(ピース・オブ・ア・ケーク)。ケーキをピースではなくホールで数えて食うあの女にはいかにも簡単だ。
 死体と匂いを消すだけでいいのだ。方法は、判らないが。
 シトロンは、もう、ポワールの術中に嵌っているのかも知れない。
 この奇妙な状況は、ポワールの残した呪いかもしれない。
 ――望む所だ。
 また尻尾をぱた、ぱた、と振り始める。
 この世に欠片も残っていない痕跡を探し続ける事が、ポワールへの手向けになるなら、それでもいい。巡礼のようなものだ。地球を一周する勢いで、この五年間追いかけてきた。この先死ぬまでの数十年、巡礼が続いても構わない。
 でも、死の痕跡を血の一滴、欠片でも見つけた時は、思い切り見下して笑ってやろう。
 お前はやはり、ただの強欲で傲慢で不器用な女だったんだなと、蔑んでやろう。
 死の痕跡かも知れないし、生の証拠かも知れない。関係のない出来事なのかもしれない。
 昨日まで少年だった少女は、もう間もなくこの家に帰って来る筈だ。
 この街での戦いの答えは、もうすぐ出るだろう。
 決して裏切らないと信じたものを、シトロンは待っている。
 鼻を鳴らしてみた。裏切らない匂いを、戯れに探してみようと。
 鼻腔に鮮やかに飛び込んでくるのは、家々で始まっている夕餉の支度の匂い。魚を焼く家、肉を油で揚げる家、スパイスを利かせた煮込みの匂いも……。
 とても懐かしく感じながら、シトロンには縁遠い、優しい匂いが夕暮れに漂っていた。
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