――鳥井寿郎は毛布にくるまり、

文字数 2,361文字

 鳥井寿郎は毛布にくるまり、ううむ、と唸っていた。
 何だか悪い夢を観ている。
 自分が女の子になってしまう夢だ。
 それは夢ではないと、潔く諦めて、夢の緒を力ずくで千切って体を起こす。
 土曜の休日だと言うのに、まだ朝が早い。六時に目覚めてしまった。
 ぱた、ぱた、と軽く体を叩いて(あらた)める。
 体は、女の子のままだった。
「……そりゃそうだよね」
 ベッドの近くにはしまむらの紙袋が投げ出され、ポワールがあれもこれもと買いまくり、レジのおばちゃんに値切る真似までして購入した大量の服が入ったままになっている。
 自転車の前かごに乗せていたから、気を失っている間にポワールはちゃんと、自転車を回収したんだな、と思う。
 ポワールは、まだ眠っている。むにゃむにゃ、とまんがのような寝言が脳裏に聴こえた。いい気なものだ。
 ふ、と息をつく。
 昨日の事は、良く憶えている。
 自分が、何だか酷くさばけた事を言って、みんなが唖然としていた所まで、記憶にある。
 夢でも、幻でもない。
 聴こえてきた音楽のままに踊ったのだ。
 あの体験に近いものを、寿郎は知っている。
 ――コンタクト=インプロヴィゼーション。
 古典(クラシック)ではなく現代舞踏(コンテンポラリ)。複数人による即興の舞踏。即興だから、振付どころか決まった主題(テーマ)もない。寿郎の恩師は、略して『インプロ』と称していた。
 寿郎にとってインプロヴィゼーションの手掛かりは、いつだって、相手を感じる事。
 そして、自分をそっと、重ね合わせる事。
 そうして浮かび上がる舞踏のテーマとは、とても曖昧で、不思議なものだ。
 自己と他者、時には集団が持っているもの、持っているかも知れないもの、めいめいが感じなければ崩れ去ってしまうおぼろげなものを、誰もが真摯に見つめ、追いかける。
 結果として、踊りが自然と導き出される瞬間を、寿郎はよく知っている。
 あの時、寿郎はシトロンと、ポワールと接触(コンタクト)した。即興(インプロヴィゼーション)は、響き合った。
 寿郎は認める事にした。
 会心の舞台だった。
 息をついてすっきりした喉に、うん、と誰に聞かせるでもなく相槌を打つと。
「おはようございます」
「――わぁっ!」
 気配と言うものがまるでなかったので、寿郎は思わずベッドにひっくり返った。
 寿郎の視界の外から、聞こえる少女のソプラノ。
 いや、確か人形だったか。
 体をもう一度起こす。白金色の髪の少女にしか見えないオランジェが立っていた。
「オランジェ、さん?」
「名前だけで結構です、トリイ=ジローさん」
「あ、ぼくも名前だけでいいです……いいよ?」
 良く考えたら、自分よりも明らかに年下なので、敬語を外すことにした。
「はい、ではジローさん。コーヒーはいかがですか?」
「いや、いいよ。自分でするから。ストレッチした後に」
 簡単に体をほぐした後にコーヒーを淹れるのは、寿郎の朝の習慣なので断ったのだけれど、しゅん、とオランジェが目に見えて小さくなるので、
「ど、どうしたの?」
「……お母さんと、同じ事を言うんですね」
「……そ、そうなんだ」
「お母さんは私に、コーヒーを任せてくれません。私は寂しいです」
 寂しがるような事かと頭をひねる。だって、面倒がなくていいじゃないかと。
「でも……キミの、オランジェのお母さん、コーヒー淹れるの上手だよね」
「はい。私もお母さんに習いました。毎日、同じ味覚をお届けできます」
 ぐ、と平坦な胸を少しだけ張る様が、何だか可愛かったので、気軽に、
「じゃあ、お願いしようかな」
「ありがとうございます。でも、その前に、ストレッチをご一緒してもよろしいですか?」
「え? いいけど?」
 人形に柔軟体操は必要か、と一瞬疑問符が浮く。
 オランジェは、そんな疑問を感じ取ったらしく、
「私の体は、人間と良く似たもので出来ているそうです。食物の摂取などは必要ではありませんが、全身をほぐすことには、効果があります」
「じゃあ何を食べたりするの? あ、いや、食べるんじゃなくて、何で……?」
 何で動くのか、とはさすがに訊きかねた。玩具のロボットが電池で動くのではあるまいが、それに近い事を言うのは少し無神経かもしれないと思ったからだが、
「お母さんからの感情、愛です。私は、妖精に似たものでもあります。愛され、認められる事で活動の力を得ます」
 ぐ、とオランジェは平坦な胸をまた張った。
 なるほど、これは確かに自慢の娘だと、寿郎は苦笑し、苦笑はすぐ微笑に移った。

 毎朝の柔軟も、ふたりでやるとバリエーションが色々膨らむ。
 寿郎は楽しくなってきたので、オランジェと一緒に体を思いっきり伸ばした。
 小さい頃からバレエ一筋の寿郎は相当に体が柔らかいけれど、オランジェも良く伸びる。朝の冷たいフローリングが温まる程、ふたりでぐにゃぐにゃになっていると、
『たーすけてー、体がー、のーびーるー』
 とぐにゃぐにゃになった第一声でポワールが目覚めた。
 それからコーヒーと、冷蔵庫の中のクロワッサンとみかんで軽く朝食を取る。
『ね、今日学校オヤスミでしょ?』
 と、ポワールが話を振ってきた。
 コンビニで売っているクロワッサンは、本場のフランスの人からすると、バターの香りは薄いけど甘くて結構イケる、らしい。ジローが、香りが鮮やかに濃いコーヒーを一口含み、千切ったクロワッサンを嚥下して。
「そうですけど?」
『じゃあさ、朝ごはん食べたらお散歩いいでしょ? 行きたい所あるし、ね?』
「……いいですけど? どこへ?」
 ポワールは、んふふと笑って。
『アタシたちの始まりの地へ、よ』
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