――地響きがした。
文字数 2,752文字
地響きがした。鳥井寿郎 はそう感じた。
風に浮かせた体が爆炎に乗った。ポワール=グレイグースは自身が吹き飛んだと感じた。
――人が、空から降って来た。
寿郎は右手を夜空に伸ばした形のまま、石畳に転がる人影を観た。
女の人かもしれない。闇に慣れた目は、白いブラウスが微かに街の明かりに照り映えるのを捉えた。
何か匂いがする。生臭いような、何の匂いだろう。
嫌な予感のする匂い。予感の裏付けのように、横たわった人影は身動きもしない。
息が、乱れる。
瞬き出来ない。
汗がしずくになって、こめかみを伝う。
腹の底が冷たく、重くなっていく。
――踊ってたのね、この子。バレエかな。
ポワール=グレイグースは金属の塊のように重くなった体をゆっくりと起こし、男の子の夜空をさす指先を観た。
余計な力が抜けていて、しかし形が崩れる事のない五指。日本人にしても小柄だろうに、すらりとした手と足の伸ばし方。存在が儚いままに、体がのびやかに大きく見える。とてもきれいな姿だと思った。
さっきまでぼんやりと、ジゼルの事を考えていたのに。
夢みたいな、奇跡のような、最期の景色かも知れないわね。
にや、と笑うと喉の奥からこみ上げる。呻きは堪えた、首をすくめるのは我慢できなかった。鼻腔の奥まで生臭さが突き抜けて、塊のような血を吐いた。
洗面器欲しいな、とポワールは酷く冷静に考えた。あんまりにも長く尾を引いて、大量に血が喉から出てくるので、バケツの方がいいかもね、と欲しいものを訂正。
受け止めるもののない吐血は、ポワールのお気に入り、糊の効いた白いブラウスを赤く染めてもまだ迸り――もっとも、既に脇腹を中心に滴るほどに赤黒かったけれど、石畳にぶちまけられた。
男の子が慌てて駆け寄って来る。バケツを抱いて死ぬなんて趣味じゃないな、それに手近にバケツはないしさ。
好きなように生きた。
好きなように死ぬさ。
吐血がひと時おさまる。男の子に抱きかかえられている。バケツを抱えて死ぬよりずっといい。でも、もう少しおまけして欲しい。唇が震えた、チアノーゼって奴かな。しっかり発音しないと欲しい最期は手に入らないので、頬に力をありったけ込めて微かに笑い、言った。
「……踊って、欲しいなー」
抱きかかえて鳥井寿郎が気付いた事、やはり大人の女。寿郎より背が高くて、灰色の眼、赤い髪。髪が赤いと感じたのは溢れる血のせいではないと思う。
そんな女が踊れと、寿郎に、言ったのだった。
「何言ってるんですか、何を――」
「ああ……アタシ、もう死んじゃうし。早く、ね?」
彼女の弱い吐息から血の匂いがした。
闇の奥に、微笑みが見えた。
――この人は、死ぬのだ。
死を悟った人なんて初めて観た。
死に落ちる直前の命が判った。
寿郎の喉の奥から込み上げる。なんでこんな時に吐き気がと慌てたけれど、それは口より高く登って目頭に留って酷く熱くなり。
涙になって溢れた。
言葉にならない。
抱き締める。
涙が大きすぎて、熱すぎて、声を殺した忍び泣きにしかならない。
力の限りに抱き締める。
抱き締め続ける。
優しい男の子なんだ、とポワールは思った。
抱き締めてくれる。
涙を流してくれる。
あまりにも当たり前の、剥き出しになった善意。
彼の細い腕から伝わる力。苦しいぐらいなのに、あたたかい。
抱き締められていたい。このままでいたい。
ずっと、このままで……。
ポワールの唇が動かなくなった。12番ゲージの00バック散弾 を横っ腹にしたたか貰った上に、ドカンと爆風に引っ叩かれるおまけ付き。そりゃ人間なら絶対死ぬさ。
――死にたい奴なんていないさ。
首の力さえ抜けた。夜天を仰ぐようにがくりと上を向く。
「……て」
聞こえる、彼の声。微かな声。
涙とともに滲み出てくる、彼の心からの言葉。
「…い……き、て」
夜が急に濃くなる。視界が失われる。
「生きて……!」
声が遠ざかる。視聴覚が消えていく。こりゃいよいよ不味いな、ポワールは残念だった。
久しく忘れていた気がする、やさしく心あたたかく震える――懐かしさだ。なんだかすごく懐かしい。遠く置き忘れてきた。誰かに泣いてもらえるなんて、もう何年ありついていない事だろう。目の前にある筈なのに、もう見られない。
残念だが、相応の末路ってものさ、ポワールは己を突き放す。
何人殺したか憶えてる。今日はとりあえず三人やった。
殺意を殺意で洗っても、拭い切れない殺戮に身を置いて生きてきた。
《死にに》ではなく《殺し》に来る魔女どもを、容赦なく返り討ちに、殺す毎日だった。
そんな危ない女は、暗闇に放り込まれた寂しい最期が関の山だと。
欲張っても、欲張っても、最期には真黒い色をした孤独を抱いて死ぬのだと。
何も持って行けない。
洗面器もバケツも抱いては逝けない。
でも、抱いてるのはアタシじゃないよね――ポワールは思う。
男の子の腕に抱かれている。それがまだ、ポワールには微かに感じ取れる。
声はもう出ないけれど。
ポワールは、真黒い視界の先に望みを飛ばした。
欲張りの人生だったけれど、最期まで欲張ろうと思った。
――キミは、どんな顔をしているの?
――どんな踊りを踊るの?
――何故、アタシなんかのために、泣いてくれるの?
――アタシは、死にたくないよ。
――キミの踊りを、まだ、見せてもらってないよ。
慟哭のような消防車と救急車のサイレンが遠く聞こえた。
夜を裂いて、表通りを走り抜けていくのが、里山の頂上から良く聞こえた。
――生きて。
そう呟いた。
何度も呟いた筈だ。
呟いていた筈なのに。
震える腕を、虚空に彷徨わせる。
神社の境内には、寿郎の他に、誰の姿もなかった。
返り血を浴びた筈なのに、残り香もない。
むせかえるほどの血の匂い。生臭く、剥き出しになった生き物の存在の匂い。
それがない。
胸の奥、肚の底で悪寒が生じて体中に走って、なのに体は火照り、熱を持ち始めた。
虚空を抱いていた腕を寄せて、細い肩を抱いて、寿郎は泣いた。
綺麗な人だった。ここにいたのだ。確かに。血を吐いて、笑っていた。
綺麗な人がそこにいた筈の証は、なにもない。
悪い夢を観たのか。
そんな筈はない。
寿郎の涙だけがまだ、流れている。
十月の三十一日。ハロウィンの夜だった。
古式に言う、あの世が近くなる夜だった。
魔女だって降ってきそうな、由緒ある夜だった。
日付が変わる前に、激しい雨が降った。
風に浮かせた体が爆炎に乗った。ポワール=グレイグースは自身が吹き飛んだと感じた。
――人が、空から降って来た。
寿郎は右手を夜空に伸ばした形のまま、石畳に転がる人影を観た。
女の人かもしれない。闇に慣れた目は、白いブラウスが微かに街の明かりに照り映えるのを捉えた。
何か匂いがする。生臭いような、何の匂いだろう。
嫌な予感のする匂い。予感の裏付けのように、横たわった人影は身動きもしない。
息が、乱れる。
瞬き出来ない。
汗がしずくになって、こめかみを伝う。
腹の底が冷たく、重くなっていく。
――踊ってたのね、この子。バレエかな。
ポワール=グレイグースは金属の塊のように重くなった体をゆっくりと起こし、男の子の夜空をさす指先を観た。
余計な力が抜けていて、しかし形が崩れる事のない五指。日本人にしても小柄だろうに、すらりとした手と足の伸ばし方。存在が儚いままに、体がのびやかに大きく見える。とてもきれいな姿だと思った。
さっきまでぼんやりと、ジゼルの事を考えていたのに。
夢みたいな、奇跡のような、最期の景色かも知れないわね。
にや、と笑うと喉の奥からこみ上げる。呻きは堪えた、首をすくめるのは我慢できなかった。鼻腔の奥まで生臭さが突き抜けて、塊のような血を吐いた。
洗面器欲しいな、とポワールは酷く冷静に考えた。あんまりにも長く尾を引いて、大量に血が喉から出てくるので、バケツの方がいいかもね、と欲しいものを訂正。
受け止めるもののない吐血は、ポワールのお気に入り、糊の効いた白いブラウスを赤く染めてもまだ迸り――もっとも、既に脇腹を中心に滴るほどに赤黒かったけれど、石畳にぶちまけられた。
男の子が慌てて駆け寄って来る。バケツを抱いて死ぬなんて趣味じゃないな、それに手近にバケツはないしさ。
好きなように生きた。
好きなように死ぬさ。
吐血がひと時おさまる。男の子に抱きかかえられている。バケツを抱えて死ぬよりずっといい。でも、もう少しおまけして欲しい。唇が震えた、チアノーゼって奴かな。しっかり発音しないと欲しい最期は手に入らないので、頬に力をありったけ込めて微かに笑い、言った。
「……踊って、欲しいなー」
抱きかかえて鳥井寿郎が気付いた事、やはり大人の女。寿郎より背が高くて、灰色の眼、赤い髪。髪が赤いと感じたのは溢れる血のせいではないと思う。
そんな女が踊れと、寿郎に、言ったのだった。
「何言ってるんですか、何を――」
「ああ……アタシ、もう死んじゃうし。早く、ね?」
彼女の弱い吐息から血の匂いがした。
闇の奥に、微笑みが見えた。
――この人は、死ぬのだ。
死を悟った人なんて初めて観た。
死に落ちる直前の命が判った。
寿郎の喉の奥から込み上げる。なんでこんな時に吐き気がと慌てたけれど、それは口より高く登って目頭に留って酷く熱くなり。
涙になって溢れた。
言葉にならない。
抱き締める。
涙が大きすぎて、熱すぎて、声を殺した忍び泣きにしかならない。
力の限りに抱き締める。
抱き締め続ける。
優しい男の子なんだ、とポワールは思った。
抱き締めてくれる。
涙を流してくれる。
あまりにも当たり前の、剥き出しになった善意。
彼の細い腕から伝わる力。苦しいぐらいなのに、あたたかい。
抱き締められていたい。このままでいたい。
ずっと、このままで……。
ポワールの唇が動かなくなった。12番ゲージの00バック
――死にたい奴なんていないさ。
首の力さえ抜けた。夜天を仰ぐようにがくりと上を向く。
「……て」
聞こえる、彼の声。微かな声。
涙とともに滲み出てくる、彼の心からの言葉。
「…い……き、て」
夜が急に濃くなる。視界が失われる。
「生きて……!」
声が遠ざかる。視聴覚が消えていく。こりゃいよいよ不味いな、ポワールは残念だった。
久しく忘れていた気がする、やさしく心あたたかく震える――懐かしさだ。なんだかすごく懐かしい。遠く置き忘れてきた。誰かに泣いてもらえるなんて、もう何年ありついていない事だろう。目の前にある筈なのに、もう見られない。
残念だが、相応の末路ってものさ、ポワールは己を突き放す。
何人殺したか憶えてる。今日はとりあえず三人やった。
殺意を殺意で洗っても、拭い切れない殺戮に身を置いて生きてきた。
《死にに》ではなく《殺し》に来る魔女どもを、容赦なく返り討ちに、殺す毎日だった。
そんな危ない女は、暗闇に放り込まれた寂しい最期が関の山だと。
欲張っても、欲張っても、最期には真黒い色をした孤独を抱いて死ぬのだと。
何も持って行けない。
洗面器もバケツも抱いては逝けない。
でも、抱いてるのはアタシじゃないよね――ポワールは思う。
男の子の腕に抱かれている。それがまだ、ポワールには微かに感じ取れる。
声はもう出ないけれど。
ポワールは、真黒い視界の先に望みを飛ばした。
欲張りの人生だったけれど、最期まで欲張ろうと思った。
――キミは、どんな顔をしているの?
――どんな踊りを踊るの?
――何故、アタシなんかのために、泣いてくれるの?
――アタシは、死にたくないよ。
――キミの踊りを、まだ、見せてもらってないよ。
慟哭のような消防車と救急車のサイレンが遠く聞こえた。
夜を裂いて、表通りを走り抜けていくのが、里山の頂上から良く聞こえた。
――生きて。
そう呟いた。
何度も呟いた筈だ。
呟いていた筈なのに。
震える腕を、虚空に彷徨わせる。
神社の境内には、寿郎の他に、誰の姿もなかった。
返り血を浴びた筈なのに、残り香もない。
むせかえるほどの血の匂い。生臭く、剥き出しになった生き物の存在の匂い。
それがない。
胸の奥、肚の底で悪寒が生じて体中に走って、なのに体は火照り、熱を持ち始めた。
虚空を抱いていた腕を寄せて、細い肩を抱いて、寿郎は泣いた。
綺麗な人だった。ここにいたのだ。確かに。血を吐いて、笑っていた。
綺麗な人がそこにいた筈の証は、なにもない。
悪い夢を観たのか。
そんな筈はない。
寿郎の涙だけがまだ、流れている。
十月の三十一日。ハロウィンの夜だった。
古式に言う、あの世が近くなる夜だった。
魔女だって降ってきそうな、由緒ある夜だった。
日付が変わる前に、激しい雨が降った。