――ジゼル。 それは、御伽噺だ。

文字数 2,535文字

 ――ジゼル。
 それは、御伽噺(フォークロア)だ。
 昔々、ある所にジゼルと言う、体が弱くて、でも、とても美しい娘がいた。
 彼女は、村に現れた青年アルブレヒトに恋をする。アルブレヒトもジゼルに恋をする。
 しかし、アルブレヒトには婚約者がいた。
 出会ってはいけない、想いあってはならない者同士の恋。
 ジゼルとアルブレヒトは虚偽で繋がっていた。
 ふたりを繋いでいたのはとても切ない、細く脆い(えにし)
 その虚偽が明らかになった時、ジゼルは死ぬ。
 命を失うほどの、狂おしいまでの悲しみがジゼルを襲う。
 そう。それは、どこにでもあるような御伽噺(フォークロア)だ。
 生きているならば誰もが一度ならず行うだろう、虚偽が招く悲劇だ。

「少年。願え。その女を否定しろ」
 そうすればまだ、やり直せる。シトロンが呻いた。
「妖精は、認められた者に否定されると消える。存在しないと思え。お前を惑わす魔女は、この世界のどこにもいないと思え、願え。そうすれば私はお前を殺さずに済む」
 なるほど。妖精の死に方は、ふたつある。
 ひとつは、僅かにでも現れた妖精の形、または妖精の宿る物体を破壊する事。シトロンが寿郎の肉体ごと、ポワールの魂を破壊しようとした事がこれに該当する。
 もうひとつ。妖精を信じない、妖精に形を与えない事。妖精はどこにもいないと思う事。
 ポワールが、五時間目の授業中に気付いた破局は、この事だと寿郎は確認する。
 手を叩いて認めないと、妖精は消えていなくなる。
 ポワールは言った。アタシが消えていなくなる方法は、すっごく簡単なの。
 そうとも、簡単だ。
 普通、殺人鬼なんて嫌いになって当たり前だ。
 寿郎は、きょろりと、シトロンの眼を観た。

 音楽が聴こえるんです。
 寿郎が、そう言ったのを、オランジェは聞いた。
 ポワールが、お母さんがいなくなってしまった、お兄さんに、トリイ=ジローさんに、なってしまった。オランジェは呟き。
 オランジェは恐怖した。
 心から愛する者が、まるでこれから侵略されるような、少女特有の恐怖に怯えた。
 少女はいつでも、侵略される事を恐怖する。
 体内に男が入って来る事への恐怖。
 それは、少女人形のオランジェにも原初的に存在する、重要な反射のひとつだった。
「誰か、音楽を鳴らしてるでしょ? 誰かな……ああ、誰?」
 ゆらり、と寿郎が首を巡らせる。
 辺りを見回すその瞳は、人のものとは思われない。
 オランジェにも聞こえない、寿郎にだけ聞こえる音楽が、あるらしい。

 ジゼルのようだと、寿郎は言った。
 ポワールは確かに、そう聞いた。
 誰がジゼルなのか、何がジゼルなのか……その主語がない事にポワールは震えた。
 ポワールの魂を震わせる怖気はしかし、寿郎の体を揺るがしもしなかった。
 寿郎の意思の強さ。寿郎の心を埋め尽くし、体を支配する強固な意思、または感情。
 繰り返す。
 誰がジゼルなのか。
 そして、寿郎とポワールの関係において、誰が誰に虚偽を働いていたのか。
 ……ジゼルの末路は?
 寿郎の心を、今の寿郎を支配する感情とは一体なにか。
「実験、幾つまで済ませました?」
『……ジロー?』
 ポワールが、問い返す。心の声も震える。
「ですから、実験ですよ。眠る前に、五つまでは聞いたと思うんですけど」
 夢を観るような、どこか定かではない寿郎の声。
 正気とは思われない、その声。
 最初から、全て明かすべきだったのかもしれない。
 私は命をひさいでいた女、今は自らの意思で殺す復讐者、殺戮の旅を続けています、と。
 貴方の傍にいる資格もない女です、と。
 臆病にも迂回していた気持ちをあらためて意識すると、余りにも身も蓋もなかった。
 さあ、私を嫌え――その言葉と、どこに違いがあると言うのだろう。
 ポワールと寿郎。ふたりを繋ぐ魔法の別名を、明らかにしよう。
 それは、虚偽である。
 アルブレヒトが、ジゼルに行った魔法の名前が、虚偽であるように。
 ポワールが、寿郎に働いていたのは、虚偽である。
 本当の事を言い出しかねて虚偽で塗り隠した、ふたりを別つ深い溝。
 恐ろしい。
 ポワールには恐ろしい。
 寿郎を傷つける事しか出来ずに、消えてなくなる事がただ恐ろしくて堪らない。
 虚偽が明らかになり、ふたりを繋いでいた魔法が解けてしまう。
 奇跡が、消えてしまう。
『……ジロー』
 ――ジロー。
 もう一度、何度だって、その名を呼ぶ。
 声にならない。
 狂気に入った寿郎に声は、もう届かないのかとポワールは……繰り返す。何度も。
 何度も、ジローと、その名を呼んだ。

 まあ、いいや。
「ぼく、口が上手い方じゃないので」
 寿郎は、ふ、と息を取った。
「どこから鳴ってても良いし、実験が何番目でも構わないので、一曲、踊ります」
 寿郎の右手がふわりと、動いた。
 その手の動きをシトロンは観た。
 優しい掌を、思い出した。
 ――あ、なんだ。やっぱり鳴ってたのはここからか。
 寿郎の声が、シトロンの中に入って来る。
 やめろ、入って来るなとシトロンはもがいた。無駄だった。
 踊る掌が、直接シトロンの心に触って来る。体全体の関節をくまなく使った柔らかい動きに、幻惑されるとは比喩ではない。
 踊りから眼を離せず、またその動きで幻に落ちていく。
 記憶の底から引っ張り出される、大切にとってあるもの。
 誰にも触って欲しくないもの。
 それを、寿郎が暴き立てていく。
 ――悲しくて、激しくて、切ない……可愛いメロディですね。
 寿郎の声は、おぞましいほどに優しい。
 足腰も立たない。為す術なく、シトロンは力をなくしてへたり込む。
 眼から脳へと、ずるずると入って来る。ふわふわと心地のいい、気持ちがよくなった、侵略して欲しくなった、入って欲しくなった、シトロンは溶けた。あれはいつの事だっただろう、今ではないいつか、遠い日の事だと――シトロンは思い出す。いいや、思い出させられる。
 子犬の日々の事だった。
 掌があった。シトロンはそれに、鼻を寄せていた。
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