――『ジゼル』と言う物語を、

文字数 1,285文字

 ――『ジゼル』と言う物語を、ポワール=グレイグースはぼんやりと思い出していた。
 夜を歩く。
 飲み屋街の路地裏を、ポワール=グレイグースは足を引き摺りながら歩く。
 踵のある靴を選んだのが悔やまれる。歩きにくいったらない。タイトスカートじゃなくてパンツにしておくべきだったとも思った。普段着る服こそ、最期の装い。
 ブラウスの脇腹を押える腕も震える。朦朧とした意識の中で、魚を捌いた時の臭気をうんと酷くしたような、自分の血の匂いがいやに鼻についた。
 どこへ行こうと言うのだろう。
 何を求めているのか。
 それは、叶えられるのか。
 ずっと求めてきたもの。
 吐く息まで血の匂いがする。
 ぼーっとする。
 助からないな、と思った。
 ――『ジゼル』。
 それは、復讐の物語だ。
 恋に破れた少女が死んで、妖精に生まれ変わり、自分を裏切った男の前に現れる。
 復讐の為に、恨みを伝える為に。
 死しても尚、胸を焦がす、大切な心に素直であるために。

 思考に沈んで、気が遠くなりかけてしまった。
 まるで眠りに落ちる直前のよう。
 正気を振り絞る、望む事を行う。
 歩く。
 夜を歩く。
 何故、歩いているのか。
 どこへ行こうとしているのか。
 ――ジゼルが立つだろう、夜の淵へ。
 思考が上手く回っていない。思い付きと行動に境目がなくなりはじめた。
 足は勝手に、前に進む。
 求める所へ。
 いいさ。いつだって、そうやって歩いてきた。
 死して尚、消える事ないひとつの想いの為に踊るジゼル。
 舞台上に現れる、そんなジゼルがポワールは好きだった。
 黒くて熱い復讐の想いを秘めているのに、ジゼルはなんと儚げで可憐である事だろうと。
 黒くて熱い復讐の味を知っている。でも、儚く可憐なんてとんでもないな。
 アタシはまだまだ、どす黒い。
 流す血の色も、この心も。
 アタシは貴女に心を寄せてきた。
 同じ者だと思いさえした。
 でも今こうして、貴女をもっと遠くに感じている。
 ふらりとよろめき、ついに膝が崩れた。
 突っ伏さないで、膝立ちで持ちこたえた。
 路駐してある車に寄りかかり、ボンネットに掛けた腕で立ち上がろうと……立てない。
 観念する。ここまでか。
 飛び降りてくる人影、ずしん、と目一杯まで車のサスペンションが沈み込む。
 相変わらず、血の匂いには(さと)い。
「良い(ざま)だな」
 へこんだ車の屋根に仁王立ちしたそいつが、冷たい声を投げてくる。
「……よくいうわよ」
 交わす言葉はいつだって、こんなもの。
 かしゃん、とそいつの手元で音。軽やかな再装填だった。
 突き付けてくる。
「――死ね」
「あんたがね――」
 ぶつけ合う殺意はいつだって、こんなもの。
 ポワールは右手首を返して五指を巧みに引き絞る。大気操作、車のガソリンを急速に気化させる。ほぼ満タン状態のガソリンが膨れ上がり、圧力に負けて注油口が弾ける。
 たちまち、付近に充溢するベンジン臭。
 そして、銃声。
 様ァ観ろ。
 刹那、路駐してある車が大爆発した。
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