――夕暮れが深くなってきた。

文字数 4,755文字

 夕暮れが深くなってきた。
 温泉街は人通りが増し、帰宅ラッシュの車が道路に長い車列を作っている。
 人が集まり、夜が目覚めようとしている。
 そんな、当たり前の街の景色の片隅だった。
 戦いは、騒乱なく続いていた。
 常人には不可視の妖精が荒れ狂い、魔女がそれを操り、またその力を魔法へと変換する。
 しかし、街の人間には観えぬ事。
 日常を揺るがしもしない、ひめやかな儀式。
 腕を組んだ直立不動のまま、雑居ビルの屋上にそっと立ち、ポワールが両手の指を()る。
 まるで、その指先に不可視の糸が、ぴんと張り詰めているように。
 風の妖精(シルフィード)を擬態するオランジェから供給される、風の魔力を指先で操る。流動、圧縮、高密度化、撃発――指が揺らめく度に、不可視の空気の弾丸が放たれる。
 高密度の空気の塊が、空中で不可視のものに過たず連続で着弾し、大きく身悶えさせている。風鳴りが辻に響く、痛みに身悶えする怪物の絶叫にしては、余りにもか細かった。
「くるくる、くーるくる」
 ポワールは歌うように呟きながら、十指をくねくねと操る。繰り続ける。撃ち放した機関銃を旋回させて、目標を補足、追従しながらの集中射撃のような芸当、逃げ惑う風鳴りが痛みを訴える、目に見えぬ化生が何度も弾けている。
 一方的な(なぶ)り。
 やおら、ポワールは指先を停めた。
「……飽きた」
 はあっ、と呆れ笑いも混ざったため息を、肩全体で吐き出して、両手をだらりと下げて。
「――よっ、と」
 下から上に、右手を軽く掬いあげるような仕草。上昇気流が突然に生じた、壁のような風圧にしたたか打ちすえられ、目に見えないそれは、天高く放り上げられて。
 そしてそれは、ポワールの足元に、音も立てずに落ちた。
 小さな、白い花だった。
「……全く。《ウッドニンフ》に普通、人肉食わせる? お腹痛そうよ、この子」
 ポワールの声は、地上から見上げるカラントには届かないけれど、その呆れ声に、はっきりと咎めるような響きがあった。
 ウッドニンフ、と言う名前の白い花。ラン科、シンビジウムの仲間。妖精(ニンフ)の名の通り、妖精が宿ると魔女が信仰する、小さく可憐な花だった。
 魔女、カラントが小瓶に飼っていたのは、そんな花だった。
 風の妖精のように踊り続け、魔力をポワールに供給し続けるオランジェを背後に、ポワールはその身動きも出来なくなった花をそっとつまみあげた。
 茎と花弁を、優しく摘まむ。
「ご理解のないご主人にご承認されたのが、お前のご不幸ね」
 冗談めかした口調だが、目は憐れんでいた。
 花弁を、摘むように優しく千切っていく。
 悲鳴も上がらなかった。
「虫に食べられ、土に帰って、お前は来世でどんな花に宿るのかしら?」
 五枚の花弁の四枚までを千切って風に流した。
 最後の一枚を、容赦なく摘んだ。
「生まれ変わりなさいな」
 祝福の言葉とともに、茎を細かく千切った。
 夕闇色をした風に蒔く――妖精が、そうして死んだ。
 妖精の死に方は、ふたつある。
 そのひとつ――僅かでも与えられた形象を砕く、妖精が宿る物体を破壊する事。
 寿郎が死ねば、寿郎に宿った妖精のポワールも死ぬのだ。
 階段を下りるような気軽さで、ポワールが屋上から足を出す。
 落ちる――三角帽子が頭に吸いついたようで、スカートのプリーツが揺れもしない。
 ポワールの周囲の大気が、異常な運動をしている画面だった。
 ふんわりと、膝も曲げずに爪先から地に降りた。
 ポワールは、風に乗り、着地の衝撃をを殺していた。
 オランジェが、背後に続く。同じくふわりと降り立つ。
 ふたりの目の前には、自信の一手が容易く挫かれたカラントが、立ち竦んでいた。
 たまたま、路地には人通りがなかった。
 ホトケゴコロって奴かしらね、とポワールは聞えよがしに呟く。
「貴女、本当に《微笑するアニス》の妹?」
 カラントはびくりと、夕べポワールが殺した姉の仇名を出されて震えたが、返事など出来よう筈もなく、ポワールは答えを待たずに続けた。
「アニスも堕ちたものね。もともと教育向きの性格してなかったと思うけど、これはちょっとあんまりだわ。なーんにも、教えてないようなものじゃない。ただ妖精を使役して、がりがり齧らせるだけなんて下の下よ。どういう教育してんのよ。ま、どうせアニスの事だから、妹にさせるような細かい仕事も全部、自分でやってたんでしょうよ。物覚えが悪くっても妹が可愛いのが姉だもの……前言撤回。貴女の命なんて、要らないわよ」
 ポワールは三角帽子を脱ぐ。つばを両手で摘まんで、くるくると回した。
「夕べのアニスぐらいには、楽しませてくれるかと思ったのに、がっかりだわ。折角街中で、日中(ひなか)で、人前で愛を睦みあうみたいに、濃厚にひっそりと、強い命とぶつかりあえるって思ってたの。がっかり、あー、がっかりした」
 舐めた態度のポワールを前に、カラントはポケットに震える手をそっと、差し入れた。

 カラントの指は、ゆっくりとポケットの中を探る。
 あの人が、かけがえのない姉が残してくれたものは、ポケットの中にある。
 ――貴女は、私の最後の銃弾。最後の短剣。大切に取っておくの。
 アニスの声が聞こえるようだ。決して忘れられない、血の杯を恵んでくれた姉の声が。
 魔女は絆を抱きしめる。姉と妹の絆を。
 カラントは姉のために命を投げ出す日をいつだって恐れながら、同時に待ち侘びていた。
 ろくでもない自分の命が、美しいアニスの一発の銃弾になると想像する、胸が震えた。
 甘美な一瞬は永遠に失われた。アニスは逝ってしまった。カラントを盾にする間もなく。
 祝祭のポワール。貴様だ、貴様があの人を殺した。
 自分の中で膨れ上がって行く、眼が眩むほどにどす黒い殺意から目を背けたかった。だからもう死んでいろとポワールに、まるで願っていた。
 それは間違いだった。誤りだった。姉を失って弱る心が惑った幻だった。
 殺したい。
 この傲慢な魔女を惨めたらしくぶち殺してやりたい。
 愛しい姉は、《微笑するアニス》は死んでいない。最後の銃弾、最後の短剣、アニスの最後の武器、カラント=ダンツカがまだ生きている。
 気付かれないように、恐怖と殺意に震える指先が、ポケットの中のそれを探る。
 硬い感触が、指先に触れる。
 ――花の匂いを纏う魔女でいなさい。私のカーラ。
 アニスの声がありありと耳朶に響いた。
 カラントは甘美な殺意にすがりつき、ポケットから小瓶を一気に掴んで引き抜いた。
 ポワールは視線を遊ばせて帽子を回し、空気の弾を軽く撃つ。カラントが抜き放った小瓶をあやまたず、砕いた。
 カラントの手の内で砕け散るのは硬度の高いクリスタルガラス。
 硬く鋭く薄いガラス片がカラントの掌を切り裂き、瓶の内容物が飛び散る。むせかえるほど濃密な花の匂いが立ち上った。
 香水。
 花の芳香を凝縮した液体は、衝撃では壊れない。
 空気の弾丸で吹き散らされた芳香が辺りを包む。
 花の香りに宿った妖精を操る魔女、《微笑するアニス》。
 花の匂いと妖精存在が立ち昇る。小瓶に棲むのは調合され凝縮された何十もの妖精たち。ここから先はカラントにも未踏の領域、充分に操る自信などない。《微笑するアニス》の名に泥を塗る出来の悪い魔女、三下(チンピラ)。誰よりも理解している。自分を悔み続けたのは自分だ。
 それでも、あの人は愛してくれた。今こそ応える。
 妖精の魔力がカラントに流れ込む。それはまるで初めて煙草を吸った時のような、或いは初めて酒を口にした時のような、強烈な違和感。体に異物が怒涛を打ってなだれ込む。
 殺意の形をイメージする、魔力を具体的な殺しに練り上げる。
 カラントが継承した、アニスの殺しの技。
 ――(いばら)立つ(つた)で絡め取り、ずたずたに引き潰してしまおう!
 死ね(Die)と、魂の限りに絶叫した。

 カラントが叫ぶ。
 ポワールがまるでぼんやりと三角帽子を縦にくるりと回す。
 上昇気流が生じて香水は余さず天高く打ち上げられた。
 ポワールは帽子のつばの内に指をひっかけ、くるくると回転させる。
 更には高速で旋風を巻いて、細かく飛沫に千切られて雲になり――。
 ポワールはぱちんと、帽子を指で軽く弾いた。
 次の瞬間、香りが消えた。
 カラントの香水が消滅した。
 シルフィード。大気を操るのみならず、『連れ去る力』を持つ妖精。
 どこへ連れ去ると言うのか……人の世の外へ。
 妖精の国(シー)へ。
 カラントは、死ね(Die)と、叫び切った。
 ポワールは、何事もなく、生きていた。
 あいた口がふさがらないカラントに、ポワールは笑顔を向けた。
「……それで?」
 三日月のように、鋭く割れた笑顔だった。
お前は猫からやりなおせ(・・・・・・・・・・・)
 すぽっと、三角帽子を目深にかぶり、背後のオランジェに。
「新しい魔法を試すわ――そうね。《白鳥の湖――ロットバルト》を、お願い」
「はい、お母さん」
 ポワールの緑のコートが解けて消え、オランジェは、赤い森の魔王(ロットバルト)になった。
 年端もいかぬ少女の形象が、人間が決して征服出来ぬと恐れた森林のカオスを体現する。
 小さな躰が膨らんだようでさえある、大きさや重さの形象を超えて、人の模造品たる人形に宿った魂が拡大して、とても大きな恐怖の真に届く振付を、その五体が奏で始めた。
「貴女はまだ、魔女ではない。アニスのための一本のナイフ。幾ら切れ味が良くても、ただの道具を魔女とは認めてあげないわ」
 コートはもう造らない。体を守る必要がないからだ。
 両手を大きく広げた。魔王の力は流石に、ポワールでも指先には余る。
 広げて抱え込んだ魔力は腕の中に、指先で腕の中の炉心を制御するように、繊細に編み上げていく魔法。
 妖精の魔力を燃料と捉え、魔女はエンジンになる……大量消費社会の裏側で混沌の森(シュバルツバルト)を維持し続ける魔女たちの結社、《魔女の森》の魔法の基本にして奥義だ。
「初めての魔法だから勘がまだ良く判らなくってね、ただの肉の塊になっちゃったらごめんなさいね。アタシが貰って、アタシが要らないって決めた命だもの、どうしようがアタシの勝手よね。動くと魔法が狂うかも知れないわよ? そうそう、大人しくしていなさい、可愛らしい猫にしてあげる、猫は魔女の眷族ですもの、貴女はどんな声で鳴くのかしらね」
 お伽噺の魔女の、呪文の詠唱にも似た独白。
 ポワールは、裂けた三日月のような笑いを浮かべている。
 生き物を弄り倒したくて我慢できない、人間の本質の傲慢がそこにあった。
「白鳥に変えられたお姫様のように、貴女は猫になるの。王子様に出会えたら魔法が解けるかも知れない。それとも満月が貴女を人間に戻すのかしら? 違うわよね――やっぱり、人間は猫になっても努力しないといけないわよね? 優しく殺す《微笑するアニス》の教えを超えて、アタシの魔法を破って、いつでもいいわ、強い命になって、アタシの前に戻ってきなさいな。たったひとつの貴女自身と言う命になって――えいっ」
 広げた腕を、急速に閉じて、掌を叩いて合わせる。
 カラント=ダンツカ、と言う魔女の形象は消えた。
 にゃお、とシャム猫が鳴いた。
「……成功。保健所に捕まらずに、修行なさい」
 ちゅ、と愛しそうに投げキスを振る。
 猫は背中の毛を逆立たせて路地の薄闇に逃げて行った。
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