――そして、寿郎はオランジェと一緒に、

文字数 4,957文字

 そして、寿郎はオランジェと一緒に、昨日買った服を着て……ポワール一押しの、ふわふわピンクのワンピースだった。小物もそろえたいわね、お人形さんみたいにするの、と今後の散財計画に余念がないが、ともかく寿郎の家の近所の神社にやってきた。
 里山の長い石段を登り、境内に立つ。
『ホント、忘れ去られたジンジャ、って感じね』
 バレエ教室が畳まれてからと言うもの、踊るためのスペースにと利用して来たが、改めて観ると寒々としたものだった。石畳は食い違いが起きはじめているし、本殿も朽ちかけ、プラスチックのベンチも紫外線と風雨に褪せて、座ったらパリンと割れそうな気さえする。
『ジンジャって、ミコサンとカンヌシサンがセットでついてくるものでしょ?』
「そんなの、ここだと初詣しかいないと思いますよ? でも、今年の初詣の時、近所のおばちゃんだったっけ、お汁粉出してくれたの……もっと大きい神社なら別ですけど」
『ふぅん……由緒はあるかも知れないけど、信仰はどうかしら。妖精はいないかな』
 残念そうな響きだった。
「この国じゃ、妖精じゃなくて神様っていうんですよ、多分」
 寿郎が、生半可な知識で応える。
『そうね、ヤオヨロズのカミサマ、だもんね。この木にもカミサマはいる、かな』
 境内の外れに立つ神木の杉に、ポワールが寿郎の手を借りて、触る。
 ポワールは、寿郎の声を借りた。
「お騒がせする所だったわね。許して欲しいわ……ここが戦場になってたかも知れない」
 信仰、と口にするポワールの言葉だった。
 血まみれで神社に落ちてきて、ポワールはここで体を失った。寿郎に出会わず、追跡の手が伸びていたなら、ここでとどめを刺されていたかもしれない。
 ポワールは、それが嫌だったらしかった。
 寿郎は宗教とは距離を置いて生きてきたけれど……新興宗教と言う概念が宗教と同義になり、胡散臭さとセットで宗教が語られるような時代の、子どもである寿郎だ。
 ポワールは、その前提の外から来た人なのだと、寿郎は思った。
「ねぇ、カミサマ。アタシの体、どこ行っちゃったか、知らない?」
 答えはない。
 ポワールは神木の幹の先、神社が荒涼としても茂る、常緑の葉を観ていた。

 石段をゆっくり降りながら、話をした。
 寿郎の体から離れて、話を振って来たのは、ポワールだった。
『アタシはさ、昨日バレた通りの女なワケね。魔法一本の無頼で御座い、ってなもんよ』
 後ろめたいのか、ポワールは必要以上に茶化してきた。
「でも、ぼくに迷惑をかけたくない?」
『判ってんじゃん……そう。だからさ、体を取り戻せないかなって、思うの』
 さっき、ポワールが神木に尋ねた事の真意だった。
『もとの体に戻ったら、殺し殺され復讐の旅路がまた続くわね。これは、変えられないわ。一度決めた事を変えるほど器用なオンナじゃない。欲しいものは絶対に欲しいの。あのバカ犬の言う事じゃないけど、ホントなら陽の当たる世界の人と関わっちゃいけないようなオンナね』
「ポワールさんには、ポワールさんの本当があると思います」
 寿郎の言葉は真っ直ぐ。
 石段を降りるフリをしながら、ポワールは寿郎の言葉の続きを聴く。
「ポワールさんは、本当にやらなくちゃいけないと思ったんですよね。ポワールさんがもう何百人も殺してるなんて、怖いですし、向こうもそれ以上の数を繰り出して、諦めないでずっと襲ってくるなんて、想像するだけでも怖いです。どうしてそんなに、殺意とか敵意、のようなものを持ち続けていられるのか、ぼくには判らない」
 寿郎の足音は、ゆっくりと単調なリズムで石段を下りていく。
「判らないものを認める事は出来ないと思います。でも、なんでぼくはポワールさんを受け容れていられるんだろう。認めていられるんだろうって……」
 ポワールは、寿郎の中に居る。
 寿郎がポワールを受け容れて、認め続けている証拠のように。
 それだけは本当の事だと、寿郎は思う。
 その心が、言葉を探している。
「きっと、みんなジゼルのような心を持ってるのかも知れない。裏切られても、打ちひしがれても、それでも誰かに向ける心を捨てられない。信じていたい。ぼくもそう。まだぼくは、ポワールさんの全部を知らないから……だから」
 ――だから。
 だからと、寿郎は呟いていた。
 そうして、寿郎は石段を降りた。

 神社の最初の鳥居に面しているのがアスファルトの道路、と言うのも何だか風情がない。
 だから、何だというのだろうと言葉を探して立ち止まる寿郎に、トリージローくん、とポワールは改まった。
「……なんです?」
 目の前を車が走り抜けていった。
 もう一台、反対方向からも、走り抜けていった。
『……男の子よねぇ』
 ポワールは呟く。寿郎の髪を指で梳こうとするけれど、すり抜けてしまう。
 滑らかな頬の線に触れようとするのに、フリにしかならない。
『こんなに可愛い女の子になったのに、ジローの魂は、男の子』
「いけませんか?」
『ううん? 昨日踊った時、ジローは男の子の体に戻ってた。きっと、ジローは可愛くっても男の子でいる事が自然な魂なのね。強く念じれば、心から望めば、何かを成し遂げようと心に決めれば、ジローは男の子に戻れる力を出せるの……本当に強い男の子なのよ』
 ほめられていた。そういうものかな、とも思う。照れ臭くもある。
『アタシはジローが認めてくれた妖精。妖精としてのアタシの魔力が、ジローの魔法の元になっていた。《魔女の森》は、ずっと昔から伝えてきたの。妖精との契約の方法を……妖精に芸を与え、妖精は魔力を返してくれる。芸は人と妖精を繋いで魔法を起こす。どこで誰が間違ったんだか、今じゃマフィアやヤクザもよけて通る女ばかりのアサシン組織だけどね。魔女たちと妖精たちの関係の始まりは、魂を歌い上げる芸による素朴な共存関係だったの』
 今なら身にしみて判るわ、とポワールはそっと目を瞑る。
 妖精と繋がる喜びを得て、そして今魔女と繋がる喜びを得た、希有な運命の女が言う。
『アタシとジローの関係。魔女はジロー、妖精がアタシよ。魔法の使い道を決めるのはジロー。アタシは元の体に戻れるまで、ジローの《だから》のために力を貸すわ』

 ジローが、繰り言のように呟いた、《けれど》が、《だから》に変わっている。
 どうしたらいいか判らないけれどと立ちすくんだ心が、なにも判らないけど、だからこそと。
 ポワールは、その先に賭けると、そう告げていた。
 寿郎はポワールの眼を観ていた。
 早瀬の底の砂のような、綺麗に洗われた、濡れて深い灰色の眼を観ていた。
 自分の事より、ポワールの事の方がずっと、重要だった。
 この人の為に何が出来るのだろうと、まだ使い方も判らない魔法で、何が出来るのだろうと。
 まあ、でもさ、とポワールは小さく笑い。
『こうして日常的には女の子の体から逃げられないし? 男の子の魂を持つジローが女の子の体になり、女装がつきまとうって状況はたまんないものがあるわよねええ?』
 小さな笑いはひ、ひ、ひ、と区切って笑う、例の如くの魔性の笑いに化けた。
 ポワールの笑う目は、どろりと楽しげに濁りきっていた。
「何でそう言う事いうんですか!」
『次の着せ替えのテーマはボーイッシュ娘にしましょ、うん、決定』
「しません! もうスカートは結構です!」
『そうよね、シャツとスパッツだけだと、きっと自分が驚くほど可愛い生き物だって気付くわよね。スカートから離れてみましょうか。女の体は呪縛するわよー? 男らしく振る舞えば振る舞うほど、女のテーマは色鮮やかに現れるのよ~、女の迷宮にようこそ!』
「ああもう、心から男に戻ってみせます! 体も戻ってみませす!」
『女の体に迷った時はいつでも相談して。アタシが手とり足とり、教えてあげるわ』
 ぐ、と両手を握り合わせて理解者のフリをした悪魔の顔を作る。――悪魔とは、すぐに握った手を怪しく開閉して、何かを揉みしだこうとするジェスチャーを隠せない者の事。
「ぼくは、男の子に戻りたいんです!」
『女の子のままでもアタシは構わないわ!』
「何が構わないって言うんですか!」
 間があった。
 ポワールは、わざとらしく余所を向き、
『これ、読んで』
 と、鳥居のすぐ隣に立ててある、神社の縁起を書いたペンキ塗りの板をポワールは指で示した。また例によっての、聞かれた事に答えない戦術だった。
 素直じゃないなあ!
 ――と、寿郎は言いたかったが、それを口に出してしまうと、ポワールが返答を拒んだ事案の正体を寿郎は知っている、と言う事になり、次にポワールは落とし所自由の無制限で要求を通してくる事が、なんとなく判ったので……でも、本当は違うかもしれないのに。
 たった一言が言えないだけかもしれないのに。
 そっと、その一言を秘めて隠しているだけなのかも知れないのに。
 いや、それも言えないのではなくて、無制限の要求を引き出すための餌として狡猾に、これ見よがしにぶら下げているのかも知れず――。
 このあたりで、寿郎は自分が駆け引きには向かないと痛感して思考をやめる。
 結局は、乗るか、反るか、それしかないとしても。
 寿郎はゲームに弱いタイプだった。賭け試合は特に苦手だ。失う事は、恐ろしい。
 現状維持(このまま)でいい。
 好きだと言う勇気は寿郎にはない。
 貴女が好きだとは、口に出せない。
 本当にそうなのかと、もっと考えていたい。
 ポワールは待ってくれている。《だから》の先を。
 寿郎が自分から、自分の意思で行う事を。

 ――なので、甘えてばかりではいけないと思いつつ、リアクションは溜息だけにしておいた。
 寿郎はペンキ塗りの風情もなにもない掲示板を観た。なるほど、漢字が多いのでポワールは読むのが本当に面倒くさいらしい。
「……イザナミノミコトを……あれ、これ何て読むんだろ?」
『……ジローにも読めない?』
「漢字が古くて、えーと、日本語には旧字体というものもありまして……」
 しかめっ面でにらめっこ。正直な所、文系科目は苦手ではないが得意でもない。
「この熊野神社は、熊野大社から分社されたものです」
 と、今まで控えていたオランジェが、流々と語り出した。
「熊野大社の分社は日本各地に多いですが、この神社もそのひとつです。主祭神は、イザナミノミコト、ハヤタマノオノミコト、コトサカノオノミコト、とあります」
「わおっ! さっすがアタシの娘、冴えてるぅ!」
 思わず寿郎の声と体を勝手に奪い、弾けるような笑顔でオランジェの手を握る。
「イザナミノミコトは生と死の女神様だってなんとなく判るけど、後のお二方はどんなカミサマ? 教えてオランジェサマ!」
 寿郎は、目を細めたい気分。この人には母親のプライドと言うものがないのかと。
 オランジェは、過去に読んだ資料を思い出しているような、遠い目で、
「ハヤタマノオノミコトとコトサカノオノミコトは、イザナギノミコトが黄泉から現世に戻った時に生まれた神です。この二神は黄泉の穢れを含んだ、イザナギノミコトの唾液から生まれたそうです。唾液とは霊的なもので、約束の力を持つそうです。吐いた唾液からハヤタマノオノミコトが、唾液を祓ってコトサカノオノミコトが生まれた、とあります」
「つまりお二方はニコイチの神様で……うーん……判るような、判んないような話ね」
 今後の調査に期待するかあ 、とポワールは寿郎の体で天を仰ぐ。
 そして、あ、と呟いた。
「ヨダレが神聖で霊的で約束の力を持つなら、アタシとジローがキスしたらいいのかな」
「駄目です」と、オランジェ。
『同じ体に入ってて、どうやって?』と、寿郎。
 くしゃくしゃ、と寿郎の髪を好き勝手に掻いて。
「ニコイチの体だけど……」
 むう、とポワールがひとしきり唸り。
「本当にキスのひとつも出来ないのかしら?」
 そして、ポンと手を打つ。
「探してみましょ? これから」
『……え?』
 いつだって、ポワール全くとんでもない事を言う。
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