マラソン その2

文字数 1,846文字

 マラソンのコツを教えてやろうか?金メダルを狙える俺が言ってるんだから、間違いないんだが、一つは自分をだますことなんだ。四十キロ走るってのは、どんなにトレーニングしても異常なことなんだ。ランナーは慣れていると思われそうだが、違う。スタート地点に立ってワクワク浮かれているのは、脳の組織をやられたような三流ランナーなんだ。筋肉の疲労は、乳酸の溜った怠い重さは、肺がちぎれるような苦しさは、どうしても嫌なんだ。それは理解してほしい。
 まともに考えて、あと何キロって考えて走ると、心も体もボロボロになる。だから、走ってる最中は残りの距離なんて考えないこと。もし、辛くなったら「まだ走り始めたばかりだ!」とか「あの坂を超えたら競技場が見える!」なんて具合に自分をだますんだ。もう少しとかまだまだ始まったばかりとか、走ってる肉体の自分と、走らせている精神の自分を分離して考える。そうだな、自分の中に会社を作るって考えた方が分かりやすいかもしれない。社長は社長室で快適なソファーに座って、きれいな秘書を侍らせて、パソコンで数字の行ったり来たりを見て、上げることだけ考えて、指先一つ動かさずに、秘書を通じてささやくように残酷な命令を現場に下す。これが精神。で、肉体は現場で無理難題を押し付けられて、疲労困憊、立っているのもやっとだが、給料やら休暇なんかを考えて、もう、その日一日を終えたら、ビールで乾杯ぐらいの気持ちで身を削る。これが肉体。この理不尽なコンビネーションで前に進む。すると、精神は快適だし、責任を肉体に放り投げることが出来る。一方で肉体は全体を考えるって野暮なことをしなくて済む。誰かが考えてくれて、誰かが頑張っている俺を見てくれている。だから動こうってね。でもさ、文句を言うのは勝手なんだ。思いつく限りの汚い罵りを、見るものすべて思いつきながら走るんだ。
 そうすれば、時間なんてあっという間に済むし、体に疲労が残らない。精神は肉体が考えていることは知らないだろうが、知ったらぞっとするだろうし、肉体は精神があまりにも肉体に対して無関心で冷たいことをしって失望するだろうけど、それは、社会のいたるところで起きていることだし、自分の中でも起きている。つまりこれは常識なんだ。常識ってのは便利で、それに沿って行うと、誰にも咎められることが無い。非常識がもてはやされることがあるけど、よくよく見てみれば、やっぱり常識に沿っている。これ、結果から言うと、マラソンのコツってのは常識的に行えってことになるんだよ。長い説明かもしれないが、それは一つの真実なんだ。
 精神は自分の都合の良いように楽観的に考えて、肉体は何も考えずに残らない文句を言い続けていたら、八割の距離を走り終えているはずだ。ところで、一流になるのはこっからの二割が大事なんだ。世界は回っているとか、光の向こう側とか、大きな存在とか、普段考えていないことが頭の中にぱっと出てきて、それが、疲労を忘れさせてくれる。疲れ果てて、騙され疲れると、悪いことを考える暇がなくなる。とにかく走り始めた時はズルい奴だが、走り終わるころには聖人に様変わりしている。そうなっていれば、負けることはない。ただね、聖人になって二割走るころには、頬を伝う空気とか、全身に降りかかる太陽の光とか、知らない連中の力いっぱいの声援、大きな空なんかが、その悟りに導くのに便利なのだが、今回は様相が違うんだ。オリンピックの陸上を担っている精神は、俺たち肉体である走者をバカにしているとしか思えない。しかし、説明したが、これが常識なんだ。だから文句を言い続けるしかないわけなんだが
 「これまでのマラソンでは、高温多湿、低温乾燥、雨、酸素濃度など、環境が違うところで、競技して、残るのはタイムだけだった。それに大勢で走るから、自分のペースが乱れたり、体や息が臭い奴が近くに走ってて不快だったり、それが走りに影響したりと、野蛮なスポーツだったんだ。だが、今回のオリンピックからはマラソンは変わる。我々陸上部組織は、時間と優しさをたっぷりかけて、君たち走者のことを優先的に考えて、新しいルールを導き出した。このコロナ禍でリモート、人と人が離れて生活する新生活様式が広まったが、それをマラソンに持ち込むことにした。つまり、選手は集まらない。外に出ない。環境は条件を調整した室内で行う。それでタイムを競う。全く新しい発想だ。我々は未来の先に立とうとしている。我々が新世代を作るんだ。」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み