マラソン その3

文字数 1,879文字

 集められた俺たちランナーは神妙な面持ちで、陸上競技の理事長の話を聞く。理事長は六十年前にオリンピックでマラソンしているはずだが、どういったつもりで話しているんだろう。奴は走り終わって座ってる時間が長かったせいで、すっかり走者の経験を忘れてしまったに違いない。じゃなきゃ、あんなふざけた画像を映しださない。理事長の横のスクリーンには、ルームランナーが映し出されている。
 「理事長、まさかとは思うが、俺たちのオリンピックてのは、ハムスターの車輪になることなのか?部屋ン中で、同じ場所で、ベルトコンベアーの上を走らせるってことじゃないだろうな?返答によっては、俺にも考えがあるぜ!」
 考えがあるとは言ってはいるが、実際には考えなんて一つも浮かんでいなかった。冷房の効いた部屋で、風も吹かない部屋で、日も当たらない部屋で、競争相手のいない部屋で、ウンウン唸るベルトコンベアーに足を取られて、走らされるんだ。しかし、あれはベルトコンベアが回っているのに合わせて足を動かすんだった、となれば、それはマラソンじゃない。カロリー消費のための運動だ。
 「磯野くん、君の言いたいことは分かる。大空の下、太陽の日を浴びて、大地を蹴って、風を割って走る方が気持ちいいからね。しかしだよ、今は無理なんだ。君たちが走って、外国の選手が迫ってきて、吐いた息が交わって、それを吸って、熱を出す。国際問題になるんだよ。アスリートは国の宝なんだ。君たちのことを思っての対処なんだよ。それにこのルームランナーは競技用に設定してある。走らされるんじゃない、走るためのコンベアの動きをするんだよ。給水も楽だよ。ほかの選手のボトルが無いから、間違って違うものを飲む心配がない。」
 ボトルに関しては、確かにそれはいいって思ってしまったが、連中は俺たちを国の宝だなんてこれっぽっちも思ってないに違いない。宝にハムスターの真似事をさせるか?だいたい、俺たち選手は走る感動なんて求めてないんだ。俺たちは仕事として、金や名誉のために走っているんだ。しかし、それは言えない。そんなことは俺でもわかる。考えもまとまらないままに反論してしまったから、解決策を口に出すことなく、不平不満ばかりを並べるしか出来そうになかった。正直言うと、二年待たされてイライラしているのが一番にある。これ以上伸ばされたら永遠に走ることが無いんじゃないのかってぐらい、俺たちは焦っている。延期になってからは、マスクして走るとか狂っていることをしたが、あれはダメだ。酸素が足りなくなって、ずいぶん脳みそが死んでしまった。しかし、コロナなんかにかかったら、ランナーとしては終わってしまう。肺がダメになる、節がダメになるとか噂聞いたけど、そんなことになったら廃業だ。ランナーなんて一生涯出来る仕事でないから、とにかく、どっかで結果を出す必要がある。結果さえ出してしまえば、あの苦行に勝ったことになるし、どっかにぶら下がることが出来る。企業チームなんて、このご時世ならいつ無くなってもおかしくない。走ることしかしてなかったから、それを奪われたらまずいんだ。ただの足の速い人になるのは、一番困ることなんだ。過去の栄光さえあれば、なんとか体裁を保つことが出来る。
 「どちらにしろ、IOCで決まったことだ。参加させてもらう選手が覆すことはできない。気に入らなかったら参加しなければいい。それだけのことだ。」
 「それのどこが「アスリートは宝」なんだ!体の良い消耗品みたいな扱いじゃないか!」
 「・・君は不参加なのか?我々が言うアスリートとは、ルールを飲み込み、守るアスリートだよ。ルールを守ろうとしないものは、競技に参加する資格が無い。競技者ではない。アスリートではない。そういうことだ。だが、君は現時点では日本一どころか、世界一を狙える長距離走者だ。素直にルールに従って、競技者になるのなら、我々は万全な体制でサポートすることを誓う。磯野以外の選手もそうだ。競技にルールはつきもので、新しいルールであれば、それはチャンスになるんだ。世界は一定ではない。変わるんだ。」
 理事長は、元長距離走者は、個人ではなく、組織の一員として「我々」と自称し、その力を誇示した。俺は隣の川田の顔を見たが、俺の文句に賛同するどころか、チャンスととらえた様子だった。俺には走りではかなわないが、ルールが変わり、それに従って勝つ心の用意はあるらしい。理事長たちがいる「我々」に対抗するには、独りで戦う必要があるようだ。俺たち競技者は我々とは言えない。何しろ、みんな敵だからだ。
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