ビジネス運動会

文字数 1,945文字

 「こんなビジネス運動会、中止にすりゃよかったんだ!」
 「ビジネス運動会?ああ、オリンピックのことを言ってるのか、上手いこというなあ健一、それにお前、運動会嫌いだったもんな。そうか、運動会か、みんな見に集まって、大声で声援、確かにオリンピックは運動会だ。しかも金まみれで、ビジネス運動会か、そうだなあ、でも、健一、ビジネスであろうと、人が一生懸命競い合っているのを見るのはいいぞ。それをテレビでタダで観れる。まあ、税金から吸い上げられているのかもしれんが、気分的にはタダだ。こんなにすごい競争を毎日見れるんだ。いいじゃないか。」
 テレビでは女子水泳が行われている。病気から復帰した藤沼が懸命に広いプールで一人で泳いでいる。水をかき分け、ぐんぐん進む。その姿に、動画編集で各国の選手の泳ぐ姿が重ねあわさり、まるで、一つの会場で競い合っているように見える。藤沼は懸命に水を割る。彼女は一昨年まで病院のベッドで病気と闘っていた。今は水中で記録と闘っている。彼女はずっと闘っている。その藤沼の懸命な姿を野木敦と野木健一親子は会話をすっかり止めて、じっと見入っている。野木親子は自分の不遇を照らし合わせて、絶望から這い上がり、今、まさに世界に挑み、自分と戦う藤沼に願いを込める。
「頑張った証に勝ってくれ!」
彼女が水を掴んで後ろに払いのけ、前へ前へと突き進む。息を飲むようにそれをじっと観ていると、まるで藤沼が自分の代わりに世界と戦っているようで、応援したいし、自分も世界に挑むべきだと闘志のようなものが湧いてくる。ただ見ているだけだが、何やら成し遂げようとしている気になってくる。じっとしていても、湧き出るように体に熱がこもってくる。さっきまでのビジネス運動会などの批判的な会話はすっかり二人の頭の中から消え去っていた。いまはただ、まばたきもせずモニターに向かい、拳を握り、体に力を入れて前のめりになっている。
 「やりました!藤沼、世界一です!戦い抜きました!やったー、おめでとう!」
 実況など普段はしない安田アナが大声を上げる。野木親子も両手を上げて喜びに声を上げる。テレビや動画で見ていたほとんどの場所で皆が喜びの声をあげた。だが、健一は喜びながら、ふっと、自分では何一つしてなかったことにすぐに気がついた。自分は頑張ったわけでもない、頑張ってきたわけでもない。それが証拠にテレビを見ている自分は引きこもり。だが、一瞬でもアスリートに心を奪われてしまった。頑張る人の姿を見て感動してしまった。だが、自分でその蓋を開けてしまった。映像は、追体験は、見るという行動は、集団とは、自我意識を、外界との境界である壁を曖昧にする。危険だ。その雰囲気で、必要以上に、自分が関係ない世界に取り込まれてしまう。一緒に喜んだのは本当だし、藤沼が世界一という結果を出したことに喜びを感じたが、それは、月の裏の出来事のように自分とはまったく関係ないのだ。彼女が勝とうと、自分は今日も引きこもりだし、明日も引きこもっているだろう。晩ご飯に文句を言って、夜は寝ないで動画を見て、時間を消費することに自分を費やすのだ。深い闇に気がついた自分の横で、浮かれたように何も考えずに喜びの歓声を上げる父親を見て、健一は心が引き裂かれるような思いがした。
「うわあああああ!」
唸るように大声を上げた。最後にひねり出した自分の意思のようなものだが、浮かれた世間に伝わりはしない。その叫びは、ここで消えていく。父親の野木敦も、息子健一の叫びを変わった喜び方だとしか思わなかった。だから歪んだ笑いをした。それを見た健一は真っ暗で、干からびて、ひび割れた世界の底を覗いたようにぞっとした。もう、とっくの昔に何もなかったのだ。健一はそう思うと、歓喜で沸く世間から顔を背けるしか思いつかなかった。
 俺は一体、世界に何を期待していたんだろう?こんな状況で、こんなの見せられて喜んでいる場合じゃないのに、始まってしまえば、じっと見て、何を期待していたんだろう?いつからこうなったのか?ずっとこうだったのか?誰が仕組んだのか?誰が期待しているのか?真っ白になりそうな頭で考えていたが、テレビの画面に映った藤沼の喜びの姿に、自分は関係ないと理解しつつも、喜んだし、また、人のことを喜べることに、安心した。これがたとえ、商業的に仕組まれた狡猾な罠の結果だとしても、人の頑張った姿、喜んだ姿に、一緒になって喜べるのは、せめてもの救いなのかもしれない。なぜなら競技者にはまったく罪はないのだから。健一は、だから、とりあえず喜ぶことにしたし、いますぐ引きこもることを止める決心をした。そんな息子の変化に気がつかない野木は無邪気にはしゃぐ
「ばんざーい、ばんざーい!」
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