陸上 走り幅跳び その4

文字数 1,678文字

 「なに、安心しろ!ここは四川省だ。多少制動がうまくいかなくても、地震が起こったことにすればいい。よっぽどの失態がない限り、党は貴様を生き埋めにはしない。たのんだぞ!」
 四川省にある競技場は代表の周選手の故郷である。幾度とない地震で被害を被っていたが、何度も立ち上がり復興の最中にある。今回、中国政府は専用の競技場を作った。北京の国立競技場で行う手段もあったが、競技ごとに競技場を作り観客を排除した。周は何度も言われた。「普通に飛べばいい。ただし失敗はするな。」それは簡単なことではない。八メートル超えを目指すように練習を重ねた。アジア大会では日坂の記録を超えたこともあるが、周にとって日坂は良きライバルだった。
 「アメリカが新記録を出した。負けるわけにはいかない。作戦は最大限に活用しろ。」
 「周がベストを尽くしても、通常の作戦では5センチ届きません。」
 「凌駕するように。これは絶対的な命令である。」
 一連のやり取りの後、秒速六十センチの設定となった。不自然とならぬように慎重にする必要がある。周には驚くことが無いように平静を装うように指示が出る。赤ランプがともる。北京の会場にも周の姿が大きく映し出される。アンダーソンによる新記録の跳躍の後だったので、観客もそれを超える期待は無かったが、精一杯の声援を送る。
 カメラとスタッフに囲まれた周は赤ランプの店頭と同時に駆け出す。考えることは止めて、足を一歩踏み出す。順調に加速度を上げ、踏み切る。練習通りを再現できた。まったく失敗はなかった。
 周の踏切と同時に競技場の地下に埋まった何本もの油圧シリンダーにたまった圧力が一気に放出され巨大な動力が沸き上がる。秒速六十センチで地面を跳躍の競技場そのものを引っ張るように動かしたのだ。
 周が宙に浮かんでいる間に、専用に作られたコンパクトな競技場そのものが巨大な力で後ろに動かされる。跳躍時間は約三秒。周はベストを尽くした。自分に当たる風はいつもと変わらないが、眼下の砂場が早く過ぎていく。三秒後に着地、抗麦郎は制御を同時に行うが、やはり慣性モーメントが作用する。周は走り幅跳びの着地で、両足で着地した後、尻もちをつくことなく、前に転がっていった。
 「勢い余ったのでしょうか、周選手、前に転がりました。さて、記録ですが、信じられないことが起きました!なんと十メートルです!今夜、また奇跡が起きました!中国の周選手が前人未到の十メートル二センチを、まさに飛びました!快挙です!逆転です!奇跡です!脅威です!我々は歴史の塗り替えられる瞬間に立ち会いました!」
 中国の国立競技場では割れんばかりの歓声が上がり、予定していたように花火まで打ち上げられた。周は前のめりから立ち上がると、顔についた砂を払った。地面が動いている状況での着地は正直怖かったが、無事に済んだことに安堵した。そしてこれを最後に引退を誓った。もうこういった奇跡は起こしたくない。
 日坂は会場が撤収される様を見てスタッフに何があったのかと聞いたが、跳躍が一回になったので終わりだと告げられた。いきなりのことでがっかりしたが、ルールはルールなので、こうなると着替えて、あとは自転車で家に帰るしかない。自分のオリンピックが突如打ち切られるように終わった。感動や感慨は浮かばず、ただ、明日は会社に行って部の報告会に参加するようになっている。何を言おうか?緊張はしないだろう、なにしろリモートだ。みんなに祝ってもらいたいわけでもないが、あまりにもあっけない終わり方に、膨らんだ感情が行き先を失っている。
 「いや、頑張ったよ。日坂、お前はオリンピックに参加したんだ。オリンピックは参加することに意義がある。よかったな。」
 陸上競技を進めてくれた恩師が少し距離を置いて日坂を称えた。撤収をしていたスタッフもいったん手を止めて日坂に拍手を送る。日坂は深々と礼をした。十分に練習は出来なかったが、自分のベストは尽くした。そういえばアジア大会で競った周はいい記録をだしたのだろうか?日坂は中国の友のことをふと思う。
 
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