マラソン その5

文字数 1,866文字

 俺は一歩踏み出す。いや、俺たちといった方がいいのかもしれない。同時に世界中でアスリートたちが一歩踏み出しただろう。ゴムの床の上、目の前にゲームセンターのような画面、しかしこれがオリンピック、マラソンの世界一を決める競技なのだ。ゴムのコンベアに合うシューズは、ロスなく、足の動力をコンベアの回転に伝える。足が動いた分だけ、確実に前に進むような床の動きがある。しかし、俺は、世界中のランナーたちは、そこから少しも進んでいないんだ。一応、画面の景色は時速二十キロ程度で過ぎていく。ペースとしては世界新記録に到達する勢いだ。ポリゴンの景色は過ぎていくが、走行風は体に当たらない。まだ発汗までしていないから、体の熱は溜っていく一方で、むかむかとした嫌な気分が体の中に蔓延する。
まだ、スタートして五分も経っていないが、その心地悪さに飽き飽きとしてくる。一体、何をさせられているんだ!「おい、いったいどういうことだ!俺は無能なのか!こんなことさせやがって、糞みたいなルームランナーがオリンピックってどういうことだ?世界はさっさと終わっちまったのか!バカにしてるのか!」腹が立って声が出てくる。当たり散らすように、気にならない単語が口からあふれ出してくる。文句を言えば胸がすく。何もたまらない。だが、内側から大事なものが剥がれていくような嫌な感じだけはした。しかし、これはいつもの事なんだ。スタートした瞬間から体があったまるまでは、ぼそぼそとコースや、日差しや、見に来た観客なんかの、思いつく限りの文句を言い続けるんだ。誰かに勝とうとか、自分に負けないとか、そんなんじゃなくて、やらなきゃならん苦行を終わらすことだけを考える。俺は肉体となって、苦行に立ち向かう。それが一番精神の疲労が少ない。なら、精神はどうしているかというと、昼寝から目覚めたように冷静で、このままのペースを保てば勝てるとか、体の中の異変に気が付いて、肉体に動きの修正を命令したりする。精神は、このレースでは、まるでこの部屋のようだった。どこにも移動してなくて、静かで、暑くもなく、寒くもない。自分にとって一定で、居心地はよくもないが、悪くもない、つまりは特徴が無く、冷静に考え事がゆっくりと出来た。。首の筋肉や、足首の無理のない動きなどを気にしつつも、精神は、もう少しペースを上げろと肉体に告げる。肉体は文句を言いながらも、しかし、疲れない程度にペースを上げる。精神は、肉体が余力を残していることを知って、もっと速くだ!とちょっと強めに命令を下す。ああ、わかったよと言わんばかりに、肉体はふてぶてしく、走力をゆっくりと上げる。精神は強めに攻める。肉体は完全に支配されることを拒否する。
「くそったれ、くそ、俺はハムスターか!何のためだ!終わっちまえ!」
「磯野、言いたいことは分かるけど、お前の癖も知ってるけど、これ音拾ってるからな、それなりにしとけよ。」
「聞かれて問題あるのか?俺は言わないと走れないんだ、黙って走ってたら文句があふれて胸が焼ける。窒息しちまう。それに聞かれてまずいことは言ってない。もし聞かれてまずいとしても、勝てばいいんだろ?チャンピオンは許されるんだ、ほら見ろよ、一番だぜ、こうなれば文句なんて出っこないんだ。もう十キロ走ったな、そろそろ服のアイシングも聞いてきた、空冷より水冷だな、心地いいぜ!」
 「そういう宣伝は大歓迎だ。タンザニアがペースを上げてきた、気を付けろよ。」
コーチって言っても、こいつは何もしてない。だが、俺の無作法をかばってくれている。それは助かる。こいつもコーチとしては楽だが、マネージャーとしては辛いだろうな。文句言ってる間に十五キロの地点を過ぎた。足の方はまだ上がるが、肺に砂が詰まったような苦しさがぼちぼち出てくる。こうなると文句を言葉を出す気がなくなる。心の中では、本当に外では言えない言葉があふれてくるが、それは外には出ない。肉体は苦痛を忘れるように足を上げるが、精神はソファーに座ってくつろいで思い出している。ただ、ようやく来た大会も中盤に差し掛かり、体は元気に動いているので、精神はすることもないので思い出に浸っていた。
 「最悪な二年間だった。コロナのせいでめちゃくちゃになった。ようやくオリンピック大会だが、結局は閉じ込められている。結果さえ出せばいいんだろうけど、その結果を出したところで、この先は知れている。ずっとマスクと飲み会禁止、こんなに制限がある生活ってなんなんだ?こうなると、走っているときは自由だったな。」
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