マラソン その7

文字数 1,803文字

しかしな、走り出したら、止まるまで、走らないといけないんだ。罠があろうと、エンドが来ようと、何があっても、止まってはダメだ。止まると途端に死んじまう。そこで終わっちまうんだ。
 しかしだ、今回のはひどい。俺たちゃ、誰かと心底つるむってことはない。どっかでみんな他人と思っているんだが、それでも、そんな他人の誰かと一緒にいたいって気持ちがあるんだ。嘘でも「頑張れ」「よくやった」なんて傍で言われたら嬉しいんだ。別に声をかけてもらえなくても、どっかで、誰かが見ているって、バカバカしいけど、思っているんだ。たった一人、世界と挑むために走ってるふりをしているけど、案外、近くににいる誰かのために走っているんだ。その誰かって、べつに、そいつのためじゃなくて、こっちが、勝手に、見てくれているだろうって、俺が速く走れば、そいつはなんか、嬉しいだろうって、ささやかな希望があるから、走る気になるんだ。これは「走る」ってところを「生きる」って変えても意味が通じる。別に地位や名誉のために走っているわけじゃない。別に楽しみのために、気持ちいいから走っているわけじゃない。誰かに期待して走っているんだ。そう、傍にいる誰かにだ。それは誰だっていい。好きな奴らでも、いい奴らでも、嫌いな奴だって、もうこうなったら人類じゃなくてもいい。なんだっていいんだ、とにかく、勝手に誰かのために走りたいんだ。それが嬉しかったりするんだ。
 ところがだ、コロナのせいで、誰も近くに近づいちゃダメってことになった。とにかく、誰それ構わず病気持ちだって疑えって事になった。マスクして、離れて、みんなリモートで、走れってことになった。こんな理不尽なことはないじゃないか!この理不尽に比べたら、中国人のインチキなんて知れたもんだ。で、ついにはリモートオリンピックってわけのわからない大会が始まった。とにかく世界中から人が集まって、そこに代表みたいなやつが競争するのが、それを、みんなが見てくれたり、応援するのが、オリンピックってもんだろう?タイムを競うとか、新記録を出すとか、金メダルを取るとか、どうだっていいんだ!俺は金メダルとれるから、それを期待する連中がいるから、思い切り、死ぬ思いで走ってるんだ。精神は、落ち着いているようで、しかし、期待に応えようって落ち着かないし、肉体は、精神が抑えなかったら、棒切れ追いかける犬っころみたいに、擦り切れるまで燃焼するつもりでいっぱいなんだ。
俺は、結局、誰かのために走ってるんだ。
しかし、その誰かが、傍にいない。冷え切るほど離れているんだ。マスクして表情を消して、一区間おいて・・いや、それでも見てるんだ。傍にいないってことじゃない、傍に寄れないだけだ。その証拠に、コーチが座ってこっちを見ている。
 「おい、お前には世話になった。ありがとうな。これを最後にするのは変わらないが、最後に燃え尽きてやるよ。お前に手柄を作ってやるよ。」
 「手柄なんて、いらないからよ。別に俺が走ったり、頑張ったりしたわけじゃない。お前の手柄だよ。だから好きにしろ。ただな、ゴールまでのしっかり見させてもらう。それぐらいのことしか出来ない。それでいいか?」
 「それで俺は十分さ!あと何キロだ?」
 「八割済んだ。のこり十キロ切ったぞ。中国の奴がハイペースで追いかけているが、そんなの無視しろ、お前は、このままじゃ、二時間切るぞ。ありえないスピードだ。今、お前の会社の奴らにハッキングを頼んでいる。ブロックしてるから、インチキは間違いない。あんなの放っておいて、ちょっとペースを落とせ、そうじゃないと、素人ランナーみたいに死ぬぞ。二十キロ当たりで、熱中症で素人が結構死んだらしい。おまえはそんな間抜けなことするな。みんな見ているんだから。」
 「俺は手本になる気はない。どっちかというと、俺みたいになるなって知らしめてやる。」
 コーチの一言で気が付いた。俺はスタートからずっと一番を走っていたから、てっきり一人っきりで走っていると思い込んでいたが、よくよく考えたら、今、この時間、この地球上で、あのオリンピックランナーで走ってるやつらが、俺に後ろに数千万人いるんだ。とっくにリタイヤした奴もいるが、しかし、世界のいたるところで、リモートで参加してるんだ。そうなると、俺は一人じゃない。一人でこの仕打ちのような苦行に挑んでいるんじゃないんだ。
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