陸上 走り幅跳び その1

文字数 1,790文字

「今日はオリンピックという人生における晴れ舞台だ。頑張ってこい!」
日坂啓太郎は日の丸の鉢巻を巻いた父親にそう言われて送り出される。玄関を開けると、夜空に満月が浮かんでいる。そこから自転車で見慣れた道を五分、競技場についた。移動制限はアスリートだあろうと、一般人も同じである。記録保持者は最寄りの陸上競技の記録ができる場所に向かい、ボランティアの記録係とスタッフの指示に従う。リモートオリンピックでの個人陸上競技はこのルールが多い。
 ちなみに走り幅跳びのオリンピック記録は八メートル九十センチ。メキシコシティーオリンピックで記録される。記録日は1968年十月十八日。なんと五十年以上変わっていない。記録保持者はアメリカのボブ・ビーモン、彼がオリンピック史上、一番遠くまで飛ぶことが出来た。
 走り幅跳びの競技において必須な設備は着地のための砂場とそこまでの舗装されたまっすぐな道のみ。それに該当した施設で、選手の移動が一番少ない場所を記録会場とする。記録時間に関しては同時が好ましい。ただし、ランキング上位者は同時刻の開催少し後に飛んでも良いことになっている。演出上、そのほうが盛り上がるのが理由である。走り幅跳び日本代表の日坂啓太郎は出身中学である青葉中学の運動場にライトに照らされて立っていた。たくさんのモーションカメラが並ぶ。昼に起きて柔軟は十分に行った。協議開始までの一時間、しっかり体を温めることが出来た。遠征して泊まり込みという生活のサイクルが崩れることはしていない。体の状況はベストだし、見慣れた景色で観客もいないから、異質な時間からくる緊張感もない。ただ、たった十年前、練習していた母校の砂場で、オリンピックという特別な大会に参加しているといわれても、薄暗さも相まって、まるで夢のようだった。もちろん、その夢とはあこがれの夢ではなく、寝てみるそれでる。 
 しかし電光掲示板だけは用意されていて、あと五分で開始となっていた。
 日坂は息を整えつつ、これまでのことを思い出していた。会場となる青葉中学時代は陸上部に所属していなかった。野球部で陸上部のことを邪魔だと思っていた。そのころには今の背丈、百八十センチはあった。体育の授業で走り幅跳びをした際に、タイミングがあったのか、踏み切った瞬間、背中から重力から解放されたような、すべてから自由になったような不思議な感覚があった。まるで空を歩いているように飛ぶことが出来た。腕を伸ばせば雲に届きそうな気がした。
 その時の記録は七メートルを超えた。体育の教師が「高校に入ったら野球より陸上をやったほうがいい。野球はやってるやつが多いから、優れていたって日の目を見れないことが多い。陸上は、とくに走り幅跳びなんて競技者人口は少ないし、お前みたいにデカいのが伸びるんだ。あと一メートル伸ばせば、日本代表になれるんだ。やったほうがいい。その方が就職もいいところに入れる。」とアドバイスをもらった。その一言で恩師になった教師が今日はメジャーをもって計測のボランティアに来ている。日本人では金メダルを望むことが出来ない競技なので扱いは雑だが、地方紙の地域版では大きく掲載された。日坂はささやかな新聞記事を誇りとしたが、同時に、正直なところ、マラソンや柔道などに比べて、同じ日本の代表なのに扱いが低いことにイラ立ちはあった。二年前、日本記録である八メートル二十五センチを飛んだ。日本記録を更新した。その当時は陸上ジャーナルなどでは取り上げてもらったが、そのままオリンピックが開催されれば注目の的だったが、コロナ禍で延期された。世の中が沈んでしまえば、生活と関りがない陸上記録など誰も注目しない。この二年間で電力会社に就職、そこの陸上部に入れたが、景気の悪化で世間の目が厳しく活動に支障が出ていた。
 だが、今日は違う。世界の舞台に立っている。今から飛ぶ。それだけが頭の中に浮かぶ。見慣れた夜の母校のグランドだが、観客もいないが、仰々しい機材が、いくつも並ぶカメラが普通ではないということを日坂に感覚的に伝える。深く息を吸い込む。生暖かい空気が胸を膨らます。音は聞こえない、ライトの光が目を刺すが、それすら気にならない。つま先から頭の先までが一本のしなやかな棒で貫かれている。それはじっと弾性を蓄え、バネと化した全身が解放を今かと待っている。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み