テレビでの観戦者

文字数 1,726文字

「そろそろ体操競技が始まるぞ、健一、一緒に見ないか?」
 野木敦が二階の息子に内線で呼びかける。返事はない。高校出てから働かずに家にいる健一に対して十年以上、苦言を呈していたが、自分も百貨店での販売員の仕事を失い、家にいる。半年の失業給付金は終わろうとしている。再就職活動をしているが、面談もできない、販売員は必要ないとなると、仕事は限られている。五十も中盤だが、長寿の世では将来が長い。何かしたいことでもあるかと言われても、特になく、これまでの生活が続けばいいとだけ思っていた。百貨店では紳士服のフロア担当だった。ここ十年は本当に客は少なく、どうしようかと思いながら、百貨店での接客が好きだったので続けていた。オリンピックとなると何かにかこつけてセールをしていた。高い背広が飛ぶように売れたものだった。開催時期になると、深夜まで、いろいろな競技を見て、興奮し、その勢いを接客に持ち込んだ。お客さんに「昨日、最後まで見たんですよ。」と屈託なく話すと、何か同じ祭りに参加した者同士のように共感が生まれ、背広にシャツもついて売れた。オリンピックには楽しい思い出が多かった。
 「一人で見るよ。」
 上からくぐもった声が聞こえる。親子さえリモートだ。野木は嘆かわしい気持ちになった。人と人が近づけない世界は必要なのだろうかとさえ思うことが増えてきた。思えば、電話、ファックス、メールと文明は人と人との距離をどんどん増やしていった。合わずに済むってどうなんだろう?それがデパート離れにつながったのは間違いない。ほしいものをお金を出して買う。その行為だけでいいのだろうか?お店に行って、専門の販売員に現物を目の前に色々な説明を聞き、それを取り入れたらどういった変化があるのかなんかを対面で話してこその買い物じゃないのだろうか?共感が人を動かすんじゃないのか?画面で見て気に入って、ボタン一つで次の日に届く、それは本当に便利なのだろうか?生活が豊かになるんだろうか?一人で見る動画みたいなものだ。確かにその場では満足するだろうが、二分も経てば何もなかったのと一緒になるだろう。
 「さて、これから体操競技が始まります。日本の外村、黒石はどうでしょうか?まず、床の競技からですね。この体操競技、リモート競技となっていますが、同時に行うことはございません。これまで通り、順番で演技し、競い合います。ただ、評価方式に追加があります。審判員の評価点に加えて、全世界の閲覧者、そう、皆さんが評価に参加することが出来ます。エモーショナルポイント加算があります。心を動かされたと思ったら、競技終了後に画面に「いいね」ボタンが出ますので、これはと思った選手の時に直感でボタンを押してください。ボタンは3回押せます。いや、これは今までは考えられなかった評価方法ですね、視聴者の皆さんが、文字通りオリンピックに参加できるんですから!近代オリンピックの父は言いました、オリンピックは参加することに意義があると。素晴らしいですね。最大で七十億人の評価が加算されるのです。心を動かされたら「いいね」を押してください。
 野木敦はテレビを見ながら、自分がオリンピックに参加できると知り、嬉しくなった。自分の思いがボタンを通して届けられるのだ。そう思うと、画面の前でワクワクしてきた。
 床の演技が始まった。黒石は三回転ひねり等の技を完ぺきに仕上げ、みごと着地。野木は拍手喝采。審判員の点数が出た。ほぼ満点。ここに視聴者の点数が加わる。
 「それでは画面に出た「いいね」ボタンを、優れていると評価出来れば押してください。三選手に一回づつ投票できます。それでは視聴者の皆さま、お願いします!」
 野木のテレビの画面には「いいね」の表示が出なかった。リモコンのデーターボタンを押しても「いいね」の表示はなかった。
 「おい、どういうことだ!いいねが出ないじゃないか!」
 取り乱した野木敦は騒ぎ出す。二階の健一が耐えかねて
 「テレビじゃでないよ!スマホかタブレット!」
 野木の電話はガラケーである。せっかくのオリンピック参加が不可能だった。ところで結果だが、中国の選手が優勝。理由は「いいね」が十億人をこえていたから。
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