マラソン その4

文字数 1,907文字


 理事長の説明はこうだった。摂氏二十度、湿度四十パーセント、明かりは五千ルーメン、無風、無音、圧迫感のない部屋で、大きな画面を目の前にして、特殊なルームランナー(オリンピックランナー)を使用して走る。速度は設定なく、平均スピードが画面に表示され、同時にスタートするライバルの影のみが姿として画面に映し出される。現状のペースで走れば、到着時の予想タイムが表示されている。服装は自由。靴も自由。モバイルウォッチ着用のこと。脈拍と心拍数を見るためらしい。が、他にも体と頭の中を探る目的があるようだ。ただ、早く走ろうとする俺の、いや俺たちの精神と肉体を公開する必要があるのだろうか?
 一番の問題はこっからだった。オリンピックは参加することに意義があると昔からあったが、マラソンに関しては、この巨大なハムスターごっこ装置、オリンピックランナーを購入したら、誰でも参加できるということだった。もちろん、規定温度、湿度、明かり、無風、無音のルールが破られたら失格となるが、オリンピック協会が言うとおりに、三百万払って、設置すれば走るの大好きな素人ランナーも、選考会なんて参加しないで、オリンピックのマラソン選手になれるのだ。
 昨今のマラソンブームで、アマチュアランナーは星の数ほどいて、世界でオリンピック参加セットは飛ぶように売れた。数千万台の販売があったのだ。五輪のマークがついたマシンは、IOCを潤した。日本製にしてもらったので、日本、東京都も金銭的に助かった。自動車メーカー主体で生産が行われ、俺の所属する企業もそこそこ儲かったらしく、昼間っからの練習もしやすかった。まあ、ルームランナー作る前は、暇すぎて走りやすい状況だったんだが、周囲の目は厳しいものがあったのは間違いなかった。調達の部署にいたけど「暇な時も走ってやがって、忙しくなっても走ってやがる!」なんて文句を言われたよ。まあ、みんな、諦めが入っていたから、憎悪の感情はなかったな。
 さて、自分の会社で作ってるし、一応、代表でもあるから、大会の半年前にはオリンピックランナーで練習することが出来た。まあ、これが良く出来ているんだ。温度、湿度なんかの条件がそろわないと作動しなくなっている。もし、途中で変わろうものなら、止まらずに負荷が増えていく。センサーの監視が厳しくて、体を冷ますために室温を下げることは出来ないんだ。だが、これはハッキリ言って良くない。実際に走れば、熱された体に走行風が当たって、体の熱を逃がすことが出来るんだが、ハムスターの進まない輪っかにいたら、無風で、全く冷却できないんだ。風で冷やすことが出来なければ、熱ダレで体はたちまち参ってしまう。向かい風を当てることもできるだろうが、それが抵抗となって、スピードを落とすことになるから禁止ということになった。追い風なら速度を上げることにつながる。理事長が言うように、ルールは新しい世界を作ったようだ。我々と称する組織の連中は、本当につまらん世界を作りやがった。
 結果として、涼しい部屋だろうと、体にたまった熱が外に出なければ、熱中症になるんだ。オリンピックランナーは殺人マシーンなのか?と思ったら、抜け道が用意してあった。ルールに服装自由とある。何のことはない、熱を逃がす特殊素材の服とか、空調服の着用は自由で、それが売り出されるってシナリオが出来ていた。アパレル、繊維産業もコロナでへこんだ分を取り戻す必要がある。実際に俺はテスターとなっていた。汗が気化する冷却効果で体の熱を奪う仕組みの長袖シャツを着たが、なかなか良かった。汗をかけばかくほど、冷却するのだが、繊維組織内で湿った熱の流速を速めているらしく、従来のものとは比べ物にならないほど冷えた。スパッツになっていて太ももが冷えるのだが、発汗、発熱が多い分よく冷えて、一時間も走れば霜が着くぐらい冷えた。
 ついに開催の日を迎えた。俺は家から近くのスポーツセンターでオリンピックを迎えることになった。真っ白な部屋、オリンピックランナー、無数のカメラ、座ったコーチ。目の前のモニターには一応高原の景色が映し出される。走っている間、目の前の景色だけは変わる。もう見飽きた景色だが、今回は各国の選手の影が映る。オリンピックランナーに乗っかる。世界で一斉にオリンピックランナーのスタートの赤ランプが付く。走り出すとセンサーが感知して、ベルトコンベアが動き出す。この制御が絶妙なのだ。確かにまるで走っているような感じにはなるんだ。ただ、空気を割って、風を浴びるという感覚はないし、体を走らせているのに、まったく移動していないんだ。なんて足踏みなんだ!
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