マラソン その1

文字数 1,855文字

「東京の夏は、そのアスファルトのコース上は、日中は四十度を軽く超える。湿度も高い。過酷すぎるんだ。そんな中、長距離走者を走らすのは虐待にも等しい。気候帯が違う北海道でやるべきだ。」
 
そんな議論も2019年頃にあったが、リモートオリンピックでのマラソンは、そういった心配がなくなった。

 「これまでのマラソンのコースは四十二・一九五キロメートルを走ることだけが決まっており、気温、湿度、高度、勾配などは場所によるというものだった。そもそも、違う環境でタイムを競うのは間違いである。条件があまりにも違うのである。暑いところで無理しようと、寒い季節に走ろうとも、マラソンの記録はタイムのみである。コース走破におけるカロリー消費量と環境を加味したうえでのタイムで難易度の設定をしないと不公平なのである。マラソンは競争でもあり、駆け引きが発生するレースだが、結局のところ人がいかに速く走るか、四十二・一九五キロのタイムのみが結果なのである。人間はいかにして長距離を早く走るかの記録であるマラソンを人間にとって不利な条件で、なおかつ大勢に競う合わせるとは、見方によれば長距離走者への冒涜ともとれる。」
 会議では以上のような意見が一般論としてまかり通ってしまった。というのも、リモート競技への話し合いが長距離走者の経験者だけだと、これまでの延長で競技をすることに落ち着くので、人権弁護士とか科学者とか宗教家などを入れた有識者会議で行ったのが間違いだった。単純に国の代表が同じ場所で走り競い合うのがマラソンの目的だったのが、有識者たちが、人類はどこまで速く走ることが出来るかと目的を挿げ替えたせいで、国家の対立ではなく「人間の進化を目的とした神を乗り越えるための試練」というスローガンを持たされてしまったのだ。
 「人智を超えて早く走ること、肉体と精神の限界を超えることによって、我々は神から自立の切っ掛けをつかむことになる。これは解脱へのプロセスですぞ!」
 現代宗教家の服部正弦が両手を広げて説き伏せるように展開する。長い話し合いでは精神力が強いものがその会議場の雰囲気の乗っ取りを成功させる。飲み込まれた参加者、続く人体科学者の本居宣長も賛同を込めて
 「人の限界を超えることによって、隠された能力を発揮することが出来ることは、ゾーンなどと言われてますが、それは、ただ、人は人力の三割程度しか発揮できないように制御されているだけで、それを四割、五割と増やしていくことによって、火事場の馬鹿力を継続して出すことが出来るようになります。制御とは、肉体への防御ですが、それは知性によって無意識に行われてます。今回のリモートマラソン競技では、人の進化を問いたいと思います。つまり制御を減らすのです。制御は危機意識から生まれます。逆に言えば、危機を除けば、危機意識が減り、防御である制御も弱まる可能性が大いにあります。」
 そこに人権弁護士の花井正和が割って入る。
 「競うことによって敵が出来ます。敵に対して人は警戒心を抱きます。長距離走者に敵は必要ありません。彼らは自由意志で、より速く走ることを望んでいるのです。自由にもっと走りたい。彼らの意思を尊重するためには、大勢で競うという思想は野蛮であり、廃止すべきです。また、気温や湿度などが選手を苦しめるもの、これは虐待と言われても仕方ありません。過酷な条件で選手たちを走らせることは選手たちの生命を脅かす行為であり、人権無視ともいえる暴挙です。安全安心な場所、環境で、その彼らの早く走りたいという意思を尊重することによって、近代的なオリンピックになると思います。いや、そうしなければ、我々はオリンピックを訴えます。我々は人々が楽しく、皆が笑顔で、生活できる世界を望んでいるのです。」
 マラソン協会の理事たちは奇妙な理屈がならぶ会議に対して、反論を山ほど抱えていたが、走ってばかりで話し合いの方法を学んだことが無く、一方的に攻められると、反論の機会を失っていた。それに、夏場のオリンピックで大事な選手たちに、あの東京の酷暑の中、走らせることに危惧を感じていたので、次期や場所が変更できるのであればと考えてもいた。だから会議には口出しをなるべくせず、自分たちの責任を減らすことに終始していた。誰が仕組んだかはっきりしないが、選手を守るという優しさが、最悪なシナリオを作っていく。シナリオが完成したら、まともな人たちは反対するだろうが、人命とか権利とか反論しずらい材料は溜っていく一方だった。
 
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