第37話 ターニングポイント

文字数 1,537文字

 第一子出産と入れ替わりに、かわいがっていた飼い猫がこの世を去った。

大奥育ちの小鈴は、わたしにとって、同士みたいな存在だった。

小鈴と過ごした時間は、大奥を去った後の生活の慰めでもあった。

あのこを相手にしていると、大奥を思い出した。

お美代の方様に、出産と小鈴の死を手紙で知らせた。

驚くことに、お美代の方様付の女中が、

祝いの品を持参してわたしの元へ訪れた。

その女中は新入りらしく、初顔合わせだ。

「尾上と申します。今後とも、よしなにお願いします」

 その女中が、畳に指折りついてあいさつした。

容姿端麗。気品があり、賢そうな印象を受けた。

「春日るうと申します。お祝いの品ありがたく受け取りましたと、

お美代の方様にお伝えくだされ」

 わたしが、お茶を勧めると告げた。

「どうぞ、中をお確かめくだされ」

 尾上がどういうわけか、祝いの品を改めるよう告げた。

包みを開けると、桐の小箱が現われた。小箱の中には念珠が入っていた。

「これは? 」

 わたしが念珠を手に取ると聞いた。

(念珠が、出産祝いとはどうしたものか? )

「それは、下総にある智泉院で売られている高価な品です」

 尾上がすました顔で答えた。

「さようですか」

 わたしが告げた。

「もしよろしければ、るう様も参拝なさいませんか? 」

 尾上が身を乗り出すと言った。

「今はちょっと‥‥ 」

 わたしが遠回しにことわると、尾上が帰り支度を始めた。

「せっかくですから、ゆっくりしていってくだされ」

 わたしが告げた。

「すみません。この後、立ち寄る場所があるんです」

 尾上が忙しなそうに言った。

尾上が帰った後、赤子を見てくれていた姑が近づいてきた。

「あの女中。なんだか、あやしいですねえ」

 姑が告げた。

「それはいったい、どういう意味ですか? 」

 わたしが聞いた。

「出産祝いに念珠を送って来ると言うのは、

いくらなんでも、非常識なのではないですか?

ぬけぬけと、寺の参拝を勧めるとはどうにも解せません」

 姑が神妙な面持ちで告げた。

「お言いの通り」

 わたしが同感した。

その念珠は、机の引き出しにしまった。しばらく、日の目を見る事はない。

たとえ、珍重品だとしても、仏事を連想させることから縁起が悪い。

「あの噂はまことのようですね」

 姑が眉をひそめた。

姑が聞いた話によると、お美代の方様が、

家斉公に、2軒の寺の新築をおねだりなさったという。

しかも、実父や実兄をその寺の住職になさった。

その新しい2つの寺は、大奥の女中たちの参拝で繫盛している。

「それは心配です」

 わたしが、以前にも、同じようなことがあり、

知り合いの奥女中が下女の恋愛事件に巻き込まれて、

厳しい処罪を受けたことを話した。

「くれぐれも、その寺に関わることがないように」

 姑が忠告した。

「わかりました」

 わたしが返事した。

一抹の不安がよぎった。またもや、ひと騒動起こりそうだ。

大奥は男子禁制。将軍以外の男性と接触することはできない。

上級女中は一生奉公とされている為、奉公に上がったら最後、

お手がつかない限り、男を知らないまま死ぬことになる。

大奥女中が唯一許されている外出先が寺社。

寺社では、男性の僧侶や神官が働いている。

彼らは聖職者とは言え、生身の人間に変わりはない。

家斉公の大奥は大所帯。大所帯ともなると、

いろんな女性たちが集住している。

醜い嫉妬や欲がうずまく女の園に争いはつきもの。

わたしは心配になり、お美代の方様に、

尾上の言動に注意を促すよう手紙を書いた。

いっこうに、返事は来なかったばかりか、

定期的に続いていた手紙での交流が途絶えた。

いらぬお節介で、怒らせてしまったのかもしれない。

音信不通になってから数年後。

大御所となった後も政に口を挟まれていた

家斉公がご逝去なされて、遺産相続争いが起こるのだった。






 

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