第34話 2人の間で揺れる心

文字数 1,534文字

 春日さんとの再会場所は、江戸番町にある御薬園。

御薬園には、日本中から集められた貴重な薬草が植えられている。

そこでは、異国から帰国した大黒屋光太夫や磯吉という

元漁師の役人たちが住み込みで働いている。

9年前。彼らの乗った廻船が、

江戸へ向かう途中、嵐の中、遭難してしまい、

アリューシャン列島のアムテトカ島に漂着した。

数年間、アムテトカ島で暮らした後、

ロシア女帝エカチェリーナ2世の許しをもらい帰国を果たした。

帰国後。彼らは、異国見聞者として蘭学者たちと交流している。

「何故、御薬園に連れて来てくれたのですか? 」

 園内を見学途中、わたしが聞いた。

「近い将来、ここで働きたいと思っています」

 春日さんが穏やかに答えた。

「書院番には、おなりにならないのでございますか? 」

「実を言うと、政より、草花を育てる事の方が性に合うんです」

「はあ‥‥ 」

 わたしは、子供のように、目を輝かせて薬草を眺めている

春日さんに対して、親近感がわいたものの物足りなさを感じた。

別れ際、春日さんに抱擁された。春日さんから、夏草の香りがした。

中野家へ帰る前に、兄の墓参りをした。

墓前には、花が供えてあった。一足先に、誰か来たようだ。

「るうさん! 」

「高坂さん」

 1度は、恋に落ちて結婚まで考えた相手との再会。

戸惑いを隠しきれなかった。

どちらからともなく、近くにある茶屋へ入った。

今は亡き兄との思い出や近状を語り合った。

「代参ですか? 」

「いいえ。宿下がりをしました」

「それはまことの話ですか? 」

「養父から、結婚するようにと言われまして‥‥ 」

 わたしが上目遣いで告げると、高坂さんが腕を組んだ。

「お相手はどなたなんですか? 」

 高坂さんが身を乗り出すと聞いた。

「吹上花壇役の春日さんと言うお方です」

 私が答えた。

「さようですか。おめでとうございます」

 高坂さんが告げた。

(え? わたしのこと、好きではなかったの? )

「あの。高坂さんは、ご結婚なさったのですか? 」

 わたしが勢い余って聞いた。

「いいや、まだ、独り身でござる」

 高坂さんが照れ笑いすると答えた。

「さようですか‥‥ 」

 わたしが告げた。

その日はそのまま別れたが、それから3日後。

高坂さんが中野家を訪れた。養父と仕事の話があるらしく、

2人きりで会って話すことは困難かに思えた。

春日さんからはまだ、はっきりと求婚されていない。

わたしの中に迷いが生じていた。

「るうさん。兄上の帳面を中野様に預けられたのですか? 」

「さようです」

「それは早まったことをしましたね」

「え? 」

 突然、高坂さんが、わたしを廊下の隅に押し込んだ。

高坂さんがいつになく、厳しい表情を見せた。

「恐らく、中野様は、あの帳面を政に利用なさるでしょう」

 高坂さんが神妙な面持ちで告げた。

「まさか!? 」

 わたしが言った。

高坂さんの読みがあたった。

養父は、兄の帳面を利用して、家斉公の側近たちに接近をし始めた。

それもこれも、将来的に、お美代の方様の

お力になれる人間関係を構築する為らしい。

あんなに、政に無関心だった家斉公が、

近頃では、政に口出しするようになった。

春日さんとは何度か、それぞれの屋敷で会った。

未婚の男女が2人きりで、外で会うものではないと、

養父から言いつけられていた。

春日さんのご両親は、穏やかで優しそう。

お母様から、春日さんの好みの料理を教わった。

そんなある日。大奥が火事になった。

家斉公の姫様の和姫の下女、とめが、

ほれた男に会いたい一心から、長局の部屋のひとつに放火したのだ。

同じ頃、将軍らしき人物の夜の営みを描いた小説が大ヒットした。

ところが、作家が、家斉公の夜の生活を描いたものではないかと、

信じられない嫌疑がかけられて、処罰を受けたことから廃版となった。












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