第31話 危機一髪

文字数 2,097文字

 わたしは、ころさんについて部屋へ入った。

「忙しかったら、ごめんなさい」

「いいえ。大事ないです」

「さようですか。実は、折り入って、相談が‥‥ 」

 ころさんが、わたしに耳打ちした。

「え?! 」

 わたしが、驚きのあまり声を上げた。

「秘密裏に、これを買って来てくだされ」

 ころさんが懐から、メモ紙を取り出すとわたしの手に握らせた。

メモ紙を確認すると、見慣れぬ薬名が書いてある。

「もしや、恋仲のお人との間のお子を流すのですか? 」

 わたしが小声で聞いた。

「致し方なかろう。わたしとて、そのようなことさせたくない。

なれど、もし、このことが知れたら、おるりが死罪に処されてしまう」

 ころさんが悲痛な表情で訴えた。

「おるりさんの気持ちはどうなんですか? 」

「あの娘の気持ちなど、この際、関係ありません。

あの娘がしたことを思えば、何も言えませんよ」

「何故、そのようなことになったのでございますか? 」

「相手は役者の卵だと聞く。

稼ぎがないだけでなく、身分も低い。

たとえ、おるりが、秘密裏に出産したとしても、

赤子を引き取り、男手で育てることは難しいでしょうよ」

「なれど、上手くいきますかどうか‥‥ 」

 わたしは難色を示した。恋愛経験なしのわたしが、

たとえ、他人に頼まれたとはいえ、

子を流す薬を買うなんて抵抗がある。

もし、奥女中が、上様以外の男性と関係を持ったと知れたら、

その女中だけに、処分は収まらないだろう。

監督不行き届きとして、上役のころさんも処分を免れない。

それから数日後。江戸城に激震が走った。

松平定信様が、老中頭を罷免されたのだ。

家斉公が、実父の一橋治済様に「大御所」の称号を贈り、

江戸城へ迎え入れようとしたところへ、

定信様が、「大御所」の称号を名乗ることが許されているのは、

将軍職を経験した人だけだと大反対したという。

その出来事が引き金となり、失脚に追い込まれたというのが

どうも、罷免の理由らしい。

定信様の跡を継がれる方次第であるが、

ひとまず、質素倹約の嵐が収まった。

一方、わたしはそれどころではなかった。

相変わらず、おるりさん以外の女中たちは、

夕刻の代参を続けていた。

ころさんの伝言によると、吉原の裏通りに、

子を流す専門の医院があるという。

その医院の前にある家を訪ねるよう指示を受けた。

わたしも、夕刻の代参に加わることにした。

それぐらいしか、大奥を抜け出す口実がなかった。

日中、代参のお供で来たことはあったが、

日暮れの寺はどうにも薄気味悪い。

カラスの鳴き声に背中を押される形で、

寺の近くで、籠を降りた後、秘かに、一行から離れた。

何者かに、あとをつけられているとも知らないで、

足早に、坂を下ると、闇夜にまぎれて吉原へ向かった。

大門の近くまで着くと、まるで、大門に吸い込まれるかのように、

たくさんの人たちが、光の海に流れ込んでいくように見えた。

にぎやかな通りを一歩抜け出すと、静寂な世界にたどり着いた。

慎重に、周囲を見まわした後、例の医院らしき建物の前に建つ、

元商家風の建物の前に立った。

軒下に下げてあった呼び鈴を鳴らすと、腰丈の高さにある戸が開いた。

かがむようにして、家の中へ入った。

苔がびっしりついた石畳みを歩き進むと、

見知らぬ高齢女性が内玄関に立っているのが見えた。

「よしなにお願いします」

 わたしが、ころさんから預かった手紙を差し出すと、

その高齢女性が手早く、その手紙を確認した。

「このとおり」

 次の瞬間、わたしの手の平に、白くて小さな包み紙が収まった。

「お代は、これで支払うよう申し遣いました」

 わたしが、持参した高価な櫛を手渡すと、

その高齢女性が、わたしをその場にひとり残すと家の中へ消えた。

取引に数分もかからなかった。

こんな所で長居は無用だ。急いで、外へ出ると、

何者かの手により、路地へ引き込まれた。

「いったい、何の真似だ? 」

 わたしが大声を上げた。

「すぐに、その薬を捨てなされ」

 見知らぬ若い女性が低い声で告げた。

「はあ? 何故、見知らぬ者から、命令されなくてはいけない? 」

 わたしが反論した。

「さもなければ、間者に密告される」

 その見知らぬ若い女性が忠告して来た。

「できぬ相談。必要な者が、帰りを待っている」

 わたしがそう言うと、

その見知らぬ若い女性が、後ろをふり返った。

「一緒に来てもらおう」

 控えていた侍たちが、わたしを拘束すると、

その日のうちに、わたしは、寺社奉行宅にて取り調べを受けた。

大奥へ戻るころには、夜になっていた。

翌朝。ころさんが、おるりを連れて大奥を去った。

それ以来、2人の姿を見かけることはなくなった。

風の噂によると、2人はいったん、牢屋へ入った後、

知り合いが誰ひとりいない遠国へ流されたらしい。

それを皮切りにに、延命院の僧侶複数名。

延命院へ通っていた他の女中複数名。

延命院にお金で雇われた若い男複数名が捕らえられた。

延命院の住職はじめ数名の寺僧たちが、女犯の罪に処された。

捕らえられた他の人たちは、押込の刑に処された。

一方、頼まれたこととは言え、上への相談を怠ったとして、

わたしにも、謹慎処分が下された。

今後、3か月の減給及び、部屋にて謹慎するよう命じられた。













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