1.日和

文字数 1,624文字

 就職を機に借りたマンションの一室。築年数はそれなりに古くてけして綺麗とはいえないけれど、1LDKの室内はクリーニングもしっかり済んでいて申し分ない。小さいけれどベランダもあって、そこからは手の届きそうな位置に桜の木もあった。春には、綺麗な花びらが舞うはずだ。はず。というのは、入居し始めた頃には、既に散っていたからだ。
 ガチャガチャと音を立てながら鍵を差し込み、玄関ドアを開けた。三和土には、今日も履き古され、見慣れたスニーカーが脱ぎ散らかされていた。片方の靴紐が解けかけている、僕よりもサイズの小さなスニーカーを綺麗に整えてから中に入った。なけなしの金で買ったリビングを占領するソファに近づけば、僕の帰りに気づいた日和が視線だけをこちらへ向ける。
「ともちゃん。お腹空いた……」
 ソファの上でクルンと丸まりながら、日和が空腹を訴える。日和が空腹を訴えるのは、珍しい方だ。仕事から帰ってきたばかりの僕は、書類の詰まった鞄を床に置き、無言のまま冷蔵庫を覗いた。
「チャーハンでも、作る?」
「うん」
 すぐに、くぐもった返事が聞こえてきた。
 スーツの上着をハンガーに掛け、シャツの袖を捲り上げる。冷凍庫を覗けば、ラップに包まれたカチンコチンの白飯がいくつか収まっている。一人暮らしを始めるとなった時に、心配した母さんが教えてくれた。米を炊いた時には、こうしておくと便利だから、と。僕は忠実にもそれを実行していた。
 その白飯を手にして、ねぎと卵を準備する。ベーコンはないのでねぎチャーハンだ。
 日和は、まだ丸まったままモゴモゴと何かを言っているようだったけれど、キッチンに居る僕の耳にはよく聞こえなかった。レンジで解凍し温めた白飯や、刻んだネギと卵をフライパンに入れ軽快に振りながら、チャーハンを炒めるジュージューという音を鳴らす。その音に、日和がモゾモゾと動き出したのが気配で分かった。
 出来上がった湯気の上がるチャーハンを目の前に、日和は少しダラリとした正座の姿勢でスプーンを手にする。さっきソファに寝ていたせいか、伸び始めた髪の毛の下のところが肩先で少し跳ねていた。その跳ね具合は、まるで自由気ままな日和と一緒だ。
「クセ、ついてるし」
 跳ねているところを目で指摘すると、どうでもいいみたいに、「うん」とだけ頷いてチャーハンを口に運ぶ。髪の毛の癖よりも、空腹を満たすチャーハンの方が大事みたいだ。
 日和は、少し前まで背中よりも長い髪の毛をしていた。前髪はパッツンで、伸びてくると自分で切っているのか、眉毛がのぞいている時もある。そんな時の顔は、幼い時の日和そのままで、よしよしと頭を撫でたい衝動に駆られる。背中までの髪の毛は、ブラシを通すのが面倒になってきたのか、ある日首の辺りまでバッサリと短くなっていて、その先の髪の毛は行方をくらました。ボブでパッツンの髪の毛は、益々幼さを強調させるものだから、猫みたいに撫で回したくなるのだけれど、僕はその手を伸ばすことをいつも躊躇っていた。
「熱い」
 猫舌のクセに冷ますのも忘れて口にしたのは、そうとう腹が減っていたからなのだろう。口へ運ぶペースもいつもより随分と速い。
「皮、剥けたかも……」
 日和は、チロリと可愛らしい舌を出して見せる。火傷したかどうかを見せるその仕草は、まるで小さな子供みたいで可愛らしい。
「うん。赤くなってる」
 僕はキッチンへ行き、グラスに氷と水を入れて日和に渡した。その水をしばらく口に含むようにして、日和は焼けどの熱を引かせている。それから、またすぐにスプーンをチャーハンの山にさし入れた。モグモグと懸命に口を動かし、半分以上食べたところで不意に気がついたように口を開いた。
「ベーコン、入ってない」
「うん。冷蔵庫になくって」
「そっか……」
 そんな会話のあと、日和は黙々とねぎチャーハンを口に運んでは、時々火傷した舌を冷たい水で冷やしていた。
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