18.千葉君とピンクのひよこ

文字数 2,938文字

「こいつ、金魚鉢に移そうぜ」
 紘が持ってきた金魚鉢は、二匹の金魚が住むには十分なサイズだった。敷き詰められたビー玉は、部屋の灯りを受けて青く眩しい。
 紘は、日和が捕まえた金魚が泳ぐグラスに手を伸ばした。寂しいかもしれないと、ピンク色の尻尾をした金魚と、ペットショップかどこかで手に入れてきた金魚を、その大きな金魚鉢へと移そうとする。けれど、日和がそれをやんわりと防いだ。
「ありがとう。でも、いいの……」
「……え、けど……」
 紘が戸惑う。せっかく買ってきた金魚鉢の中で、何も知らないもう一匹の金魚がスイスイと泳いでいる。寂しいからと連れてきた金魚が、紘と同じくらい寂しい顔をしている気がした。敷き詰められたブルーのビー玉が、寂しい青に変わっていく。
 けれど、日和は、紘の好意を頑なに断った。このままでいいと。このままがいいと。
 困惑した表情の紘は、その後寂しげな顔をする。僕はそんな紘に、熱くて濃いコーヒーをカップに入れて手渡した。ずずっとお爺ちゃんみたいに音を立て、紘がそのコーヒーを飲む。
「俺、余計な事したんだな……」
 日和には聞こえないように、紘は小さな、小さな声で落ち込みながら呟いた。僕は、そんな事ないよ、と紘の肩に手を置いた。
 結局、紘は金魚鉢を置いて帰った。二匹の金魚を一緒に入れるのは諦めたけれど、せめて日和の金魚のそばに置いてやってくれ、と涙ながらの嘘くさい演技を残して帰って行った。僕は、その演技に三角をつけて紘を送り出した。もう少し頑張りましょう。
「ともちゃん」
 金魚を眺めていた日和が、紘を見送った玄関から戻ってきた僕を呼ぶ。
「金魚、届けに行きたいの」
 日和はグラスを手にすると、ソファから立ち上がった。
 届けに行く? どこへ?
 ハテナマークの僕の横を、グラスを手にした日和が通り過ぎていく。その背中を、疑問を浮かべたままの顔で見ていたら、「行こう」と日和が促した。僕は、言われるままに玄関で靴を引っ掛け、日和のあとを追った。
 カフェで見た時は眩しいほどだった日和のコンバースのスニーカーが、今は少しくすんでいる。僕の知らないところを、日和が歩いていた証拠だ。
 それは、僕以外の誰かが一緒だったり、日和一人きりだったりしていたのだろう。僕からは見えないところにいる日和は、一体どんな風に過しているのだろう。僕の知らない日和は、どんな顔をして毎日を歩いているのだろう。
 少し寂しい気持ちになり、僕は黙って日和のあとをついて行く。
 日和はグラスの水が零れないように、できるだけゆっくり、そしてそろりそろりと足を運ぶ。それでもグラスの水は時々大きく揺れるものだから、日和はそのたびに一度立ち止まり、波が治まるのをじっと待っていた。尻尾がピンク色した金魚は、これからどこへ連れて行かれるのかと、グラスの中で右往左往しているように見えた。
 そうして、ゆっくりと歩いてたどり着いたのは、ちょっとこぎれいなマンションだった。僕の住んでいる部屋よりも、何年も築年数は新しいだろう。外に置かれている大きなシルバー色をしたゴミ取集用のボックスが、やたらとピカピカ光っていた。ほんの五階建ての小さなマンションだけれど、エントランスは割と広めに作られていて、オートロック管理もされていた。
 日和は迷うことなくエントランスに入ると、ジーンズのポケットからセンサーのついた鍵を取り出し解除板に翳すと、エレベーターのある奥へ行くためのガラスドアを開けた。
 日和、引っ越したのか?
 日和が住んでいたはずのマンションは、築年数が随分と経ったマンションのはずだった。管理が行き届いていないせいか、そのマンションの周りにある植え込みには、いつも枯れてしまってなんの草木なのかわからないものが生えていた。しかも、ここのマンションと同じ五階建てだというのにエレベーターがなく、一番上の住人は大変だろうな、なんて考え、エレベーターがなくてもマンションというのだろうかという疑問を持った事があった。日和の家は、そんなマンションの二階だった。
 その二階に、日和はもうずっと独りで住んでいる。あの日から、ずっと独りで。
 でも、ここのところは頻繁に僕のところにいたし、時々姿は消していたけれど、それは男のところへ行っていたはずだから、そのマンションはとっくに引き払っていたのかもしれない。そして、このちょっとこぎれいなマンションに、いつの間にか移住していたのだろう。僕の知らないうちに……。
 日和のことは全て知っている、なんていい気になっていたけれど。本当のところ、僕は日和のことをちゃんと理解などしていないのだと思い知らされ項垂れた。
 乗り込んだエレベーターが、三階で止まる。日和のあとに続き渡り廊下を行くと、奥から二番目の扉の前で日和が立ち止まった。僕は、日和がまたジーンズのポケットから鍵を取り出し開けるだろうと思っていたけれど、そうはしなかった。
 日和は、グラスを気にしながらインターホンを押す。インターホンの横には、ローマ時で“CHIBA”と書かれたプレートが寂しげな銀色をして貼り付いていた。
 千葉?
 一度も聞いた事のない名前だった。
 しばらく待つと、ドアの奥で物音がした。そうして、ゆっくりとドアが開く。
 あっ。
 そこから顔を出したのは、あの時の黒縁眼鏡の青年だった。
 そうか、この青年は千葉というのか。
 改めて知った青年の名前。それと同時に、抱き合う二人に痛い涙を流した感情が甦り、僕の心がギュッと小さくしぼまって苦しくなっていった。
「ひよりちゃん……」
 黒縁眼鏡の青年こと千葉君が、少しだけ驚いたような顔をした。
 その顔は、なんだか疲れていて。よく見ると生気がないっていうか、以前カフェで見かけた時よりもやつれたような痩せ方をしていた。
「どうしたの?」
 千葉君は物腰の柔らかな物言いで、傍にいる僕を気にしつつも日和に訊ねる。それは、まるで大切な妹にでも話しかけるようなしゃべり方だった。
「これ」
 日和は、大切に抱えていたグラスの金魚を千葉君へと差し出した。
「日和ちゃん……、ありがとう」
 千葉君は金魚の尻尾がピンク色をしている事に気づき、少しの笑顔を浮かべた後、寂しげにお礼を言った。
「あがってく……?」
 千葉君の誘いを、日和は小さく首を振り断った。
「ごめんね……これ、ピンクのひよこじゃなくて……」
 え? ピンクのひよこ?
 日和がやたらと拘っていたひよこは、この千葉君と繋がっていたのか。
「けどね、似てると思ったの。この子も、彼に似てる気がするから……。だから」
 もういいよ、ありがとう。そう言うように、千葉君は少し俯き泣きそうな顔で微笑んだ。
 隣の日和を見ると同じように悲しい顔で涙を堪えていて、一生懸命口角を上げようとしている。
「また、来るね。だから……」
「うん……大丈夫。大丈夫よ……」
 千葉君は日和を諭すように一つ頷くと、静かに玄関のドアを閉めた。
 僕と日和は、閉ざされたドアの前に少しだけ佇む。耳を澄ませば、そのドアの向こうで千葉君が泣いているような気がした。
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