2.日和と僕と彼の歌

文字数 3,925文字

 日和と僕は、もうずっと幼い頃からの付き合いだった。家が近所だったのもあるし、年が近かったのもある。何かといえば一緒に居て、喧嘩だってよくしていた。イタズラ好きの日和は、僕が肝を冷やすようなことをよくしていた。例えば、よく吠える犬のそばにわざと近寄って手を伸ばし、慌てて止めた僕が噛みつかれたり。神社の階段を勢いよく二段飛ばしで駆け降りるから、またまた慌てた僕は急いで追いかけたのだけれど、足を滑らせゴロゴロと転げ落ち全治一週間のケガを負った。ピンポンダッシュもよくしたし、虫を捕まえては家の中に持ち込み、僕の布団に忍ばせるなんてこともしていた。そんな具合に日和はイタズラでやんちゃで、僕は何度となく冷や汗をたらしていた。そんな僕を楽しむみたいに、日和は何度もイタズラを繰り返していた。
 昔の日和はよく声を上げて元気に笑っていたのだけれど、ある時を堺にそんな姿を見る事はなくなった。そのあることについて、僕たちはほとんど触れることはない。触れてしまったら、今あるすべてを失ってしまう。そんな感情に囚われているからだ。
 いや、囚われているのは、もしかしたら僕だけなのかもしれない。もしも僕がそのことについて口にしたら、日和は屈託なく話をするのかもしれない。けれど、僕にその勇気は、ない。
 日和は、あまり物事には拘らない。何でもいいわけじゃないけれど、とにかく細かいことはそんなに気にしない。それは、何日も同じジーンズを履く事や、夏場に四種類くらいのTシャツをグルグルといつまでも着まわす事。擦り切れるまで履くスニーカーは、穴が開くとやっと新しくなることや、前髪を自分で切っちゃう事。カレーライスを大量に作って、何日も立て続けに食べたかと思うと、何日も何も食べなかったりする。レジ待ちの長い列で横入りをされても怒らないし、凄く欲しそうにして見ていた店頭に並ぶスニーカーも、結局は買わなかったりする。目玉焼きが焦げても平気で食べるし、まだ固いカップ麺も平気で食べる。
 こんな風に、日和は細かい事は気にしない。
 それに、最近は特にぼうっとしていることが多くて、自分の事をあまり話さないから、周りからは何を考えているのか解らないとよく言われていた。それでも、やっぱり本人は全く気にしていないようだった。
 そんな日和は、度々僕の家に居る。度々来るんじゃなくて、度々居る、なんだ。
 それは、まるで住み着いている、と言っても過言じゃない。
 けど、物事に拘らない日和がここに居ることを、僕は少しも不都合には思わない。日和の姿がここにあると、ああ居るんだ、って思うし。見当たらない時は、居ないんだな、なんて思うくらい。
 いや、違うな。居る時は頬が少し緩んでいる気もするし、居ない時はよく笑えていない気もする。
 物に拘らない日和の荷物はほんの少しで。壁際に置いてあるチェストの二段を日和用に空けたけれど、いつだってそこには余裕の空間があった。なんなら僕が新しいTシャツやズボンを買って入れておいてもいいのだけれど。きっと日和は、それが自分のために用意された物だって気づかずに、今まで通り着古したものを着続けるだろう。
「大学、行ってんの?」
「ともちゃんは?」
 日和は、僕の質問に応えない。日和は、あまり自分の事を話さないから。そんな日和の性質に慣れている僕は、それでも別に構わなかった。
「行ってた」
「行ってた?」
「うん。九月に卒業したし」
「そっか――――。おめでと」
「うん。ありがと」
 物事に拘らないというのは、周囲の事にも同じように拘らないという事。卒業が遅れた話を確か二度ほど愚痴るように話した気がするけれど、それを日和は憶えていないようだ。僕が毎日スーツを着て帰ってくることにさえ、どうしてなのか気にも留めていないのだろう。
 日和は二つ年下で、僕と同じ大学に通っていた。過去形なのは、僕がもう卒業したからだ。
そんな日和は、ぼうっとしているように見えて実は頭がいい。普段の事はほとんど聞いていなかったり憶えていない分、勉強の事は一度聞くとほぼ忘れないみたいだった。日和が家で熱心に予習や復習をしている姿を僕は今まで一度も見たことがないけれど、それでもちゃんと学年で上位に居たし、今も単位を落としているものは一つもない。レポートだってスラスラ書いている。ただ、授業をサボるとその分は聞いていないから、丸々抜けてしまうのが難点らしい。それをどう補っているのか、一度訊ねた事があったけれど、サニーがどうのって訳のわからない外国人の名前を出し始めたから、続きをどういう風に話していたのか僕が憶えていない。
 とにかく日和は、成績だけを見れば優秀な大学生だ。
 そんな日和は、すぐに男を作る。つい三日前までも実は男が居て、そいつの家に入り浸っていたみたいだ。みたいだ、というのは実際のところはよくわからないから。
 けど、実家のマンションに帰っている気配もないし、女友達もいなく他に行くところがない日和が居座れるところといったら、男のところしかないだろう、と僕の勝手な憶測だけれど。
 そうして毎回長続きせず、結局こうして僕の家に居る。日和の付き合った男の数は、両手じゃ足りないくらいのはず。これも僕の勝手な憶測。ここへ戻ってくる度に、毎回相手の名前を訊ねてはいたけれど、女の子ならまだしも男の名前なんてそうそういくつも憶えられやしない。当の本人だって、つい三日前に別れた男の名前すら憶えているか怪しいものだ。
「なぁ、ケンタとかいう奴と別れたのか?」
 確かそんな名前だった気がする、と訊いてみた。すると日和は、少しだけ寂しそうな顔をして僕を見た。それから何かを諦めたように溜息をつき、僕の質問に応えた。
「ケンタじゃなくて、ケンイチ」
 少しだけ投げやりな応え方は、なんとなく怒っているような雰囲気がするのは気のせいだろうか。
ていうか、憶えてるんだ。
 相手の名前を憶えていたことに、僕はなんとなく感動していたのだけれど。その直ぐあとに日和が首をかしげた。
「あれ、ケンジだったかな……?」
 感動、取り消し。
 僕は渋い顔を向けながら、何で別れたの? って表情をする。すると、日和は毎回同じ顔をする。よくわかんない……。って言うような、ちょっとだけ寂しい顔。
 だろうね。日和の事を解ってやれる奴なんて、この世に僕くらいだろう。そんな風に豪語できるくらい、僕は今までずっと日和のそばにいたんだから。
 日和はぐにゃぐにゃと正座を崩すと、何かを言おうと口を開いた。
「ねぇ、ともちゃん。私……」
 僕は、なに? って顔で日和の目を見るんだけれど、ほんの僅かの間心にくすぶる何かを必死に言葉にしようとしているその表情は、苦しげに眉根を下げただけで結局続きを話さない。閉じてしまった口元をキュッと結ぶと、日和はキッチンへ行き棚に置いてあるクッキーの缶へ手を伸ばした。僕の実家で、お中元だったかに貰ったお菓子の詰め合わせの一つだ。母さんが、日和に持っていきなさいっ、て言うから、言われるままに持って帰ってきた。
 綺麗なブルーの色をした丸い缶を、日和は子供みたいなワクワクとした表情で開ける。それは嬉々としていて、けれど、それを大人に悟られちゃいけないみたいな顔。
 パコッと音を立てて開けた缶の中身を覗き、どれから食べるか考えている表情は、やっぱり小さな子供と変わらない。
 日和の表情を眺めていたら、徐にその缶の中身を僕に見せにきた。こういう時は、どれがいいのか訊いている時だ。
「これ、旨そうじゃん」
 チョコがサンドされたようなクッキーを指差すと、それを指でつまみ口に放り込む。サクサクと小気味いい音を立てて食べると、蓋を元のように戻し缶を棚に置いた。
 日和は、一度にたくさんの甘い物を食べない。それは甘い物が苦手なんじゃなくて、きっとその甘さをずっと楽しみたいからだって僕は思っている。要するに、楽しみな事は少しずつ時間をかけて味わうタイプ。
「ねぇ。ひよこ欲しい」
「ひよこ?」
 日和の会話は、いつも飛んでいる。連続していないから、どっからどういう話になっているのか、ついていくのは至難の業だ。
 かくゆう、今もどこをどうすればクッキーの後にひよこの話題が出てくるのか、僕にはさっぱりわからない。けれど、そんな僕に構うことなく日和は話を続ける。
「縁日とかで売ってる、ピンク色のがいい」
「ピンク色? う~ん……。でも、あれって、スプレーで色がついてるだけだよ」
「……うん」
「しかも、育つと鶏になって、こんなマンションじゃ無理だよ」
「でも、メスだと卵産む」
「ん……まぁ、そうだけど」
 日和は諦めきれないのか、ピンク色のひよこ、と小さく何度か呟いていた。
 山奥の一軒家に住んでいるならともかく、こんな都会のマンションで鶏なんて無理でしょう。毎朝、雄叫びのようにあげる鶏の鳴声を想像して僕は頭が痛くなった。その雄叫びを聞いた、お隣さんや大家さんが怒鳴り込んでくることを想像するともっと頭が痛くなる。
 日和はソファの上で小さく丸まり膝を抱えて座りながら、今度はテレビを観ている。ニュースで悲惨な映像が流れているのを、瞬きも忘れるほどにジッと観ているんだ。そんな姿に、ひよこの話はもういいみたいだ、と僕が苦笑いしていると日和が静かにく口ずさんだ。
 小さな声で、わざと下手糞に、そしてぶっきら棒に歌うボブ・ディランの歌。
 日和は、時々彼の歌を口ずさむ。
 それがどんな時に歌われるのかを、僕は知っていた――――。
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