6.潔さ

文字数 1,482文字

 僕が一人の寂しい毎日を過ごし続けていた午後に、(ひろ)がビールを手にやって来た。それは年もすっかり明けた、暖かで穏やかな陽気がやってくる季節だった。
 紘が僕の家に来るタイミングは、何故か絶妙だ。
 例えば出かける用事のない週末や、残業もなく早々に帰宅した夜。誰かと酒が飲みたいなぁ、と思っている時。
 そして、日和が居ない時。
 紘は、日和の存在を知らない。時々漂う人の住む気配を感じてはいるものの、一度も出逢ったことのないその人物について訊いてくることもない。もとより、日和の存在を主張するような物たちが、この家の中にはほとんどないのだから仕方ない。
 あからさまに女物のアクセサリーがゴチャゴチャ置かれていたり、可愛らしいマグカップや服なんかがその辺に見え隠れしているなら、紘もそれに飛びつくんだろうが、あっても着まわしすぎたTシャツや履きこなれたジーンズがあるくらいで、日和の存在を示すような確固たるものはない。
 それだって、スカスカのチェストの中にしっかり納まっているから気付くはずもない。
 歯ブラシだって、毎回居なくなる度に洗面所から綺麗に消えている。
 時々、日和っていう存在自体、自分が勝手に作り上げたものじゃないかって思う時があるくらいだ。
 それでも、食べかけのクッキーの缶や、日和が丸まった時のままの形を残したソファを見て、現実だって感じる。
「ほいっ」
 紘から手渡された缶ビールを手に、二人でベランダへ出た。外は既に麗らかな陽気の季節で、傍に立つ桜の木は見事に満開だった。少し強めに吹いた風が、ひらひらと花びらを舞わせている。
「なんか、テレビの作りものみてぇだな」
 グズッと鼻を鳴らし、舞う桜を見て紘が呟いた。
「だね」
 ズズッと缶ビールに口をつけ、僕も同意する。
 いくつもいくつも散り行く桜の花びらは本当に作り物みたいで、先行く花びらを追っかけるみたいにあとからあとからまた散っていく。
「なんかさー、春って気だるいよな」
 紘は、ベランダに入り込んでくる花びらの一つを、手で掴みとろうとして失敗した。捕まる事を逃れた花びらが、ゆるゆると僕の足元に着地した。
「新たな季節とか、門出とか言うけどさ。そんなの一部だろ? 俺、別に門出な事、なんもないし」
 紘はもう一度手を伸ばし、花びらを掴もうと試みる。けれど、やっぱり巧くいかなくて、その花びらはまたゆるゆるとした動きで、今度は紘の足元に着地した。
 そんな紘を見ていると、何か厭な出来事でもあったのかなと思った。だけど、その何かを口にすることなく、紘はただビールを空けていく。僕に愚痴を零さないのは、桜の花びらが潔く散っていくさまを目の当たりにしているからなのかもしれない。
 そんな桜に倣って、何も話さずいるのかもしれない。
 日和は、新しい男と今度は巧くやれているのかな。今も戻らない日和の存在が、日増しに僕の心の中を大きく占めていく。
 潔い桜の散り方を見ながら、日和のことだ、また潔く男と別れて突然帰ってくるだろう。なんて考えれば、なんとなく心が安心していった。
 きっと、なんだかんだ言っても、僕は日和がこの家に居る事を望んでいるんだろう。黄色のポスカだって、日和の帰りを心待ちにしているに違いない。
 けど、もしかしたら元はピンク色だったひよこが育ってしまったあとの、大きな鶏を連れて帰ってくるかもしれないと想像すると、困ったなぁ、と思う反面、クツクツと少しだけ笑いが込み上げてきた。
 ベランダの床をたくさんの潔い奴らが、桃色に染めあげていく――――。
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