26.ごめんね日和
文字数 2,850文字
すっかり良くなった僕を、日和が病院まで迎えに来てくれた。あの日流した涙は夢だったのかもしれないと思うほど、日和の態度は自然な素振だった。
そんな日和と帰る道すがら、快気祝いに美味しい物を食べようとボリューム満天のとんかつを食べた。とんかつ屋で食後のお茶をすすりながら、入院中に見舞いに来てくれた紘の差し入れが大人の本だった話をすると、日和は紅い顔をしながらも笑っていた。
そんな楽しい雰囲気のままマンションに戻りリモコンでテレビを点けると、また悲しいニュースが流れてきた。さっきまでの楽しかった雰囲気が、あっという間に一変されていく。
日和はその画面をぼんやりと見つめ、彼の歌を小さく口ずさむんだ。
消え入りそうな声で歌う日和の背中が、寂しいと泣いている気がした。日和の前に回れば、その瞳が揺らいでいる気がした。
あの時言った、ごめんなさい、をまた言われる気がして、胸が苦しくなっていった。
僕は、日和に彼の歌を歌って欲しくない。
「ねぇ、日和」
俯き加減で口ずさんでいた日和が、僕の顔を見る。その口からは、もうメロディーは流れていない。だけど、やっぱり瞳は波を打ち、放っておけば溢れだすかもしれないと思えた。
僕のせいだ。どうしてあの時、続きを訊かなかったんだ。どうして、怖いなんて感じちゃったんだ。どうして、タイミングよくインフルエンザなんかになっちゃったんだ。
自分自身を胸の裡で罵ってみたところで、どうにもならない。その時じゃないと、総てに意味がない。だけど、零れだしそうな日和の涙を黙って見ていることも出来ない。
結局僕は、いい訳を並べて数歩退いた所にある話題を口にしてしまう。
「紘のこと、どう思う?」
日和の歌を止めるためなら、どんな話でもよかったはずだった。その瞳から今にも零れそうな涙を止めるためなら、くだらない話で充分だった。
例えば、最近のテレビ番組のことや大学での事。サニーの事だっていいし、食べたいものの話だっていい。
なのに僕ときたら、話題にしたくないワーストスリーの中の一つを出してしまう。
因みに、ワーストスリーの残りの二つは、もちろん日和の歌のことで。もう一つは、僕に対する気持ちについてだ。
日和は、少しだけ首をかしげて、楽しい人だよね、と頬を緩めてくれた。日和の笑みに、僕の心が少しだけ安堵する。涙が零れ出さなかったことにほっとする。僕ってやつは、自分都合のどうしようもない男だ。
確かに紘は、楽しいやつだ。僕が持っていないユーモアセンスを兼ね備えているから、三文芝居もお手の物。けど、そんな答えを求めていたわけじゃなくて、日和が楽しい人だって言うのにどんな意味が込められているのかを知りたかった。その中に含まれる紘に対する想いを、僕は怖いながらも知りたかったんだ。
自分の気持ちは言葉にしないくせに、僕は日和から僕以外の人に対する気持ちを知りたくてたまらない。
日和が想いの言葉を口にできないと知っていながら。話題にしたくない、ワーストスリーの二つ目だと解っていながら。
ジリジリと込み上げる感情に背を押されながらも、結局僕はそれ以上深く掘り下げて訊ねる事ができずに、直ぐまた別の話題に持っていく。
根性なし。
「マンション。どうなってる?」
このマンションというのは、千葉君のところでも僕のところでもなく、日和が元々住んでいた実家のこと。
日和が大好きだった母親と、二人で住んでいた居場所。日和だけになってから、僕は数えるくらいしかその場所へ踏み込んだことがない。日和自身も、きっとそうだろう。
「うん……」
とても返答になっているとは思えない頷きをぼんやりと返されたけれど、その続きを強引に促す事ができない。元々、自分の事を話したがらない日和だから、こういう返事はよくあること。けど、今日は珍しく、うん……、の続きを話し始めた。
「あそこ……、引き払おうと思って」
「え?!」
僕は、間抜けなくらい素っ頓狂な声を出してしまった。紘が居たら、間違いなく笑われているところだ。けど、日和はそんな僕の驚きようを気にもしない。
確かにあそこへ日和が帰る事は、あれ以来ほとんどと言っていいほどないだろう。
実際、日和は僕の家にほぼ毎日のように居るわけだし、僕の家に居ない時は、千葉君のマンションか、最近はないけれど他の男の家に転がり込んでいたはずだから。だから、借りている意味はないといっていい。
だけど、あそこにはたくさんの思い出が残されている。日和が母親と暮らしてきた大切な思い出が、あの部屋にはたくさん残っている。
母親がこの世の人ではなくなって少しすると、日和はあの家に寄り付かなくなってしまった。いつもどこかへフラフラと出かけて、あの家の存在を忘れてしまいたいかのように避けているように見えた。
棚に収まったままのアルバムも、二人分の食器も、箪笥に納まる母親の衣類も。あそこにある、母親を思い出すもの総てから遠ざかるようになっていた。
大好きの、裏返し……。
あのマンションを引き払ったら、その思い出たちはどこへ行ってしまうのだろう。僕のマンションに運び込む? それならそれでもいい。
日和がいつだって取り出せるように、綺麗に箱に詰め込んで、僕の家に置いておけばいい。いつか、“大好き”を、なんの躊躇いもなく言える時が来るまで、僕が大切に保管しておくよ。
その言葉を怖がったくせに、勝手な感傷に浸り、勝手な空想を広げていると、日和が力なく呟いた。
「もう……、色んなこと。やめにしようと思って……」
「色んな、こと?」
疑問を浮かべた顔をしてみても、いつもどおり答は返ってこない。
色んなことって、何をやめるの?
紘のこと?
サニーの事?
僕の……事?
いくつか思い浮かべたけれど、怖くて訊けない……。特に、最後の質問は。
「きっと。それが一番良いはずだから……」
なにがいいの?
どんな風にいいの?
それをやめたら、日和は大切なあの言葉を、僕に向けることができるようになる?
ううん。贅沢は、言わないよ。僕に、じゃなくてもいい。僕なんかよりも大切な人を見つけて、その人に向って心の底から想う気持ちを言葉にできるようになるなら、日和が“きっと”と言う“色んな事を”をやめるための手助けをしたいよ。
「ともちゃん……」
「ん?」
日和は僕の名前を悲しげに呟いた後、あのね、と言いかけ、結局、ううん、なんでもない、と首を小さく振った。
ねぇ、日和。僕は、この時の日和に何かを言うべきだったのかもしれない。僕の名前を悲しげに呟いた日和に、もっとしつこいくらいに、その色んなことがなんなのか問い質すべきだったのかもしれない。
けど、僕はいつだって後悔ばかりの男で。だから、結局、またこうやって後悔を積み重ねる事になってしまったんだ……。
ごめんね。
日和――――。
そんな日和と帰る道すがら、快気祝いに美味しい物を食べようとボリューム満天のとんかつを食べた。とんかつ屋で食後のお茶をすすりながら、入院中に見舞いに来てくれた紘の差し入れが大人の本だった話をすると、日和は紅い顔をしながらも笑っていた。
そんな楽しい雰囲気のままマンションに戻りリモコンでテレビを点けると、また悲しいニュースが流れてきた。さっきまでの楽しかった雰囲気が、あっという間に一変されていく。
日和はその画面をぼんやりと見つめ、彼の歌を小さく口ずさむんだ。
消え入りそうな声で歌う日和の背中が、寂しいと泣いている気がした。日和の前に回れば、その瞳が揺らいでいる気がした。
あの時言った、ごめんなさい、をまた言われる気がして、胸が苦しくなっていった。
僕は、日和に彼の歌を歌って欲しくない。
「ねぇ、日和」
俯き加減で口ずさんでいた日和が、僕の顔を見る。その口からは、もうメロディーは流れていない。だけど、やっぱり瞳は波を打ち、放っておけば溢れだすかもしれないと思えた。
僕のせいだ。どうしてあの時、続きを訊かなかったんだ。どうして、怖いなんて感じちゃったんだ。どうして、タイミングよくインフルエンザなんかになっちゃったんだ。
自分自身を胸の裡で罵ってみたところで、どうにもならない。その時じゃないと、総てに意味がない。だけど、零れだしそうな日和の涙を黙って見ていることも出来ない。
結局僕は、いい訳を並べて数歩退いた所にある話題を口にしてしまう。
「紘のこと、どう思う?」
日和の歌を止めるためなら、どんな話でもよかったはずだった。その瞳から今にも零れそうな涙を止めるためなら、くだらない話で充分だった。
例えば、最近のテレビ番組のことや大学での事。サニーの事だっていいし、食べたいものの話だっていい。
なのに僕ときたら、話題にしたくないワーストスリーの中の一つを出してしまう。
因みに、ワーストスリーの残りの二つは、もちろん日和の歌のことで。もう一つは、僕に対する気持ちについてだ。
日和は、少しだけ首をかしげて、楽しい人だよね、と頬を緩めてくれた。日和の笑みに、僕の心が少しだけ安堵する。涙が零れ出さなかったことにほっとする。僕ってやつは、自分都合のどうしようもない男だ。
確かに紘は、楽しいやつだ。僕が持っていないユーモアセンスを兼ね備えているから、三文芝居もお手の物。けど、そんな答えを求めていたわけじゃなくて、日和が楽しい人だって言うのにどんな意味が込められているのかを知りたかった。その中に含まれる紘に対する想いを、僕は怖いながらも知りたかったんだ。
自分の気持ちは言葉にしないくせに、僕は日和から僕以外の人に対する気持ちを知りたくてたまらない。
日和が想いの言葉を口にできないと知っていながら。話題にしたくない、ワーストスリーの二つ目だと解っていながら。
ジリジリと込み上げる感情に背を押されながらも、結局僕はそれ以上深く掘り下げて訊ねる事ができずに、直ぐまた別の話題に持っていく。
根性なし。
「マンション。どうなってる?」
このマンションというのは、千葉君のところでも僕のところでもなく、日和が元々住んでいた実家のこと。
日和が大好きだった母親と、二人で住んでいた居場所。日和だけになってから、僕は数えるくらいしかその場所へ踏み込んだことがない。日和自身も、きっとそうだろう。
「うん……」
とても返答になっているとは思えない頷きをぼんやりと返されたけれど、その続きを強引に促す事ができない。元々、自分の事を話したがらない日和だから、こういう返事はよくあること。けど、今日は珍しく、うん……、の続きを話し始めた。
「あそこ……、引き払おうと思って」
「え?!」
僕は、間抜けなくらい素っ頓狂な声を出してしまった。紘が居たら、間違いなく笑われているところだ。けど、日和はそんな僕の驚きようを気にもしない。
確かにあそこへ日和が帰る事は、あれ以来ほとんどと言っていいほどないだろう。
実際、日和は僕の家にほぼ毎日のように居るわけだし、僕の家に居ない時は、千葉君のマンションか、最近はないけれど他の男の家に転がり込んでいたはずだから。だから、借りている意味はないといっていい。
だけど、あそこにはたくさんの思い出が残されている。日和が母親と暮らしてきた大切な思い出が、あの部屋にはたくさん残っている。
母親がこの世の人ではなくなって少しすると、日和はあの家に寄り付かなくなってしまった。いつもどこかへフラフラと出かけて、あの家の存在を忘れてしまいたいかのように避けているように見えた。
棚に収まったままのアルバムも、二人分の食器も、箪笥に納まる母親の衣類も。あそこにある、母親を思い出すもの総てから遠ざかるようになっていた。
大好きの、裏返し……。
あのマンションを引き払ったら、その思い出たちはどこへ行ってしまうのだろう。僕のマンションに運び込む? それならそれでもいい。
日和がいつだって取り出せるように、綺麗に箱に詰め込んで、僕の家に置いておけばいい。いつか、“大好き”を、なんの躊躇いもなく言える時が来るまで、僕が大切に保管しておくよ。
その言葉を怖がったくせに、勝手な感傷に浸り、勝手な空想を広げていると、日和が力なく呟いた。
「もう……、色んなこと。やめにしようと思って……」
「色んな、こと?」
疑問を浮かべた顔をしてみても、いつもどおり答は返ってこない。
色んなことって、何をやめるの?
紘のこと?
サニーの事?
僕の……事?
いくつか思い浮かべたけれど、怖くて訊けない……。特に、最後の質問は。
「きっと。それが一番良いはずだから……」
なにがいいの?
どんな風にいいの?
それをやめたら、日和は大切なあの言葉を、僕に向けることができるようになる?
ううん。贅沢は、言わないよ。僕に、じゃなくてもいい。僕なんかよりも大切な人を見つけて、その人に向って心の底から想う気持ちを言葉にできるようになるなら、日和が“きっと”と言う“色んな事を”をやめるための手助けをしたいよ。
「ともちゃん……」
「ん?」
日和は僕の名前を悲しげに呟いた後、あのね、と言いかけ、結局、ううん、なんでもない、と首を小さく振った。
ねぇ、日和。僕は、この時の日和に何かを言うべきだったのかもしれない。僕の名前を悲しげに呟いた日和に、もっとしつこいくらいに、その色んなことがなんなのか問い質すべきだったのかもしれない。
けど、僕はいつだって後悔ばかりの男で。だから、結局、またこうやって後悔を積み重ねる事になってしまったんだ……。
ごめんね。
日和――――。