12.タイミング

文字数 3,466文字

「よっ」
 キャップのつばをちょっとだけ上げ、紘がニッと笑っている。
 日和が居るのに、紘が来た。絶妙なはずの紘のタイミングが、初めて絶妙ではなくなった時だった。
 友達が来た事を告げると、日和は二缶目のビールを冷蔵庫から取り出して窓辺に向かった。窓を開けると、そこから外を眺めるようにして桟にもたれ掛かっている。
 日和が開けた窓からは、ねっとりとした風が入ってきて、僕は少しだけ顔を顰めた。
 数分して玄関のドアホンが鳴り、紘が現れた。
「じゃましまーす」
 リビングに入ってきた紘は、窓の桟にもたれている日和の存在に気付き一瞬固まった。
「えっ……、誰?」
 僕は、応えずにビールの缶をテーブルに置いた。それを合図のように、日和が窓を閉める。
 ねっとりした空気は室内に閉じ込められたけれど、すぐにクーラーの冷風がその気持ち悪さを消し去ってくれた。
 日和は、いらっしゃい、とも、こんにちは、とも取れる、あの幸せ色の笑顔を紘に向けた。
 そこで、紘が気づく。
「あ、あの時の――――」
 紘が驚いた顔をしていても、日和は少しも動じる事のない。それどころか、二缶目のビールを手に持ったまま、リビングを出て行こうとする。
「あ、あれっ。帰んの!?」
 自分と入れ違いに出て行く日和に紘が慌てる。日和は、ごゆっくり、とも、お邪魔しました、とも取れるような表情を残して玄関を出て行った。
 背中には、“シー イズ ソー クール”
「なんか、俺。嫌われた……?」
 参ったなぁ、なんて紘は顔を歪めるている。
「大丈夫、そんなんじゃないから」
 日和は、友達との時間を大切にしなって言っているだけだから。
「気を利かせてくれたんだよ」
 僕は何の心配もせずにそう言ったけど、紘は何度も日和が出て行ったリビングの先の玄関を、チラチラと気にして見ていた。
 その姿に、何故だかむず痒いものを感じたけれど、それはさっきのねっとり空気がまだ体に纏わりついているせいだと思った。
 紘との会話は、春にベランダで話をした時よりもずっと弾んだ。それは、紘の機嫌がよかったのもあるし、ビールがよく冷えて美味しかったせいもある。
 ただ、やけに日和のことをあれこれと訊ねてくる紘に、色々応えるのが面倒くさかった。
 結局、面倒臭さが積み重なって説明する言葉数は少なくなり、紘には日和が僕の幼馴染というだけの存在に収まった。僕の気持ちを言っておいてもよかったけど、湿気のせいかその説明をするのも億劫に感じてしまったんだ。
 ふと会話が一段楽したとき、外でシトシトと雨が降っている事に気づいた。
「いつから……」
 僕が窓の外を見て呟くと、紘が言う。
「え? 結構、前から降ってたよ」
 僕は、その言葉にはっとして立ち上がる。
「ひろっ、ごめんっ。ちょっと待ってて!」
 僕は、叫ぶように言い置いて玄関へ走る。紘は何が起きたのか解らない、といった表情でそんな僕の背中を見送った。
 僕は玄関から飛び出す時に、ビニール傘を手に取った。そして、猛ダッシュでエレベーターの前まで行ったけれど、その箱は一番天辺に居てなかなか降りてこようとしない。イライラとしながら何度も逆三角形のボタンを押したけれど、待っていられず階段へ向かう。コンクリートの階段は、吹き込んでくる雨で濡れていて滑りやすく、僕は何度か足をとられそうになった。それでも、転ばぬよう必死に自分の体を安定させ、タッタタタッ、と下に向かった。
 一階に下りエントランスで荒い呼吸を幾度と吐き出し、キョロキョロとそぼ降る外の雨を見たあと、玄関で手にしたあの傘をぱっと広げて走り出す。
 時々通り過ぎる車の奴が、じゃーっと勢いよく飛沫を跳ね上げていくから、僕の体は腰の辺りまで汚れてしまった。けれど、そんなことに構うのはあとでいいと、ただ只管に足を前に出す。
 雨脚は強くないはずなのに、紘が言ったみたいにずっと前から降っていたせいで道路にはたくさんの水溜りがあった。その水溜りを何度も避けたり、またいだりして僕は日和を探した。
 傘も持たずに、缶ビール一つだけを手にして出て行った日和を探した。
 捨て猫みたいに濡れそぼっている日和を想像して、不安が募った。
 ジムに通って体を鍛えている僕なのに、焦りのせいかたったこれだけの運動で呼吸が荒い。はぁっ、はぁっ、と息をついた後、ふと見た酒屋には相撲取りの前掛けをしたおっちゃんが暇そうに降る雨を眺め、腰に手を当てていた。そんで、おっちゃんの樽のような体にほぼ隠れるようにしてチラリとだけ見えた姿に、僕は安堵の息を洩らしてから叫んだ。
「日和っ」
 道路の向かい側から呼ぶと、日和がおっちゃんの背後から顔を覗かせ、笑ってビールの缶を肩の辺りまで上げてクイクイッと振った。
 僕は、左右を確認してから道路を渡り、おっちゃんの酒屋に入る。
「ともちゃん」
 日和は、どうしたの? って顔をして僕を見る。それから、僕が差してきた傘を指差し笑った。その笑顔と、日和が少しも濡れていなかった事を見て取ってから僕も笑った。
 僕は、ポケットに入っていた少しの小銭でビールを買い日和に手渡した。日和からは空の缶を受け取り、酒屋の自販機の横においてあったゴミ箱に捨てた。
 日和と二人、おっちゃんに見送られた後、いびつな星たちと月に見守られながら家路を辿る。日和は、僕のすぐ隣でさっき買ったビールを美味しそうに飲んでいる。
「お友達は?」
「あ……」
 紘の事をすっかり忘れていた僕は、やばいって顔をする。日和は、そんな僕の顔が可笑しいと笑う。
 それからニコニコと星と月を見上げて、素敵でしょ。って満面の笑顔を向けるんだ。だから、僕は、うん。て頷いた。
 時々触れる肩先や直ぐ近くの息遣いに、日和以上にニコニコとしながら僕は星と月を見上げた。
 家に戻ると、紘は一人ですっかり出来上がっていた。勝手にビールを冷蔵庫から出して飲んでいたからだ。
「待ちくたびれたしー」
 そう言われてしまうと、勝手にビールを飲んだ事を怒るわけにもいかない。
「ごめん、ごめん」
 僕が謝ると、後ろから着いて戻ってきた日和も、「ごめんね」って謝った。
 すると紘は、僕に対しては、マジ待ちくたびれたしっ。と少し怒ったような顔を向けたのに、日和に対しては、「いやいや、気にすんなって」とニコニコの笑顔を向けた。その態度の違いに、僕はまたむず痒くなって、外から持って帰ってきた湿気が体に残っているせいかもしれないと思った。
 日和と紘をリビングに残して、僕は濡れてしまった服を着替えに行った。
 リビングでは、紘と日和がなにやら話をしているみたいだったけれどよく聞こえない。
 僕がスウェットに着替えて戻ると、日和と紘は意気投合したように話に花を咲かせていた。
 紘は一生懸命に自分の歌が上手い事をアピールし、ついでに足も速いと得意気に話していた。
 紘が自分の事を自慢している姿なんて、あまり見た事がなかった僕は驚いた。紘はとてもシャイで、自分の事をベラベラと初めて会った人に話したりするような奴じゃない。どちらかというと、黙ってお酒を飲みながら、周囲の会話に時々相槌を打ったり、少しだけ声を上げて笑ったり、そんでごくたまに憎まれ口をボソリと言ったりする、そういう奴だ。
 だから、紘がはしゃいだように日和と話す姿はあんまりに珍しくて、僕は巧く二人の会話に入っていく事ができなかった。
 おかげで、なんだか知らないけれど、さっきからずっと感じていたむず痒さが、どんどん増して仕方ない。けど、どこが痒いのかちっとも判らなくて、なんだか少しイラついた。
 紘は、いつの間にか日和の番号とアドレスを手に入れていて、嬉しそうな顔をしている。
「夏になったらさ。祭りに行こうぜ」
 スマホを大切にポケットにしまいこむと、日和にそんなセリフを言っている。
 日和は、みんなで行ったら楽しいよね、と笑う。
 そのみんなの中には、僕も入るんだろうか?
 それに、あの黄色いポスカや、時々日和の話しに出てくるサニーも。
 サニーなんてどんな奴なのか少しも想像できないけれど、きっと留学生だろうな、なんてぼんやり思う。
 そして僕は、未だ外で降り続けるしつこい雨を睨み、何故だか祭りなんて来なければいいと思った。日和が短いと言った夏なんて来なければいいと、楽しそうに日和に向かって話す紘を見ながらぼんやりと思ったんだ。
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