25.一番気にしているのは僕だ

文字数 4,228文字

「ただい――――」
「たっだいまーっ!!」
 僕のただいまをかき消すようにして、紘が日和へ向って一直線。日和は丸まっていたソファの上で身を起こし、やたらとテンションの高い紘に向かって微笑みを向ける。僕は遅れをとらないようにと急いでリビングへ行ったけれど、紘は早速日和の隣に腰掛けてしまい、おかげで僕は日和へただいまを言い損ねてしまった。
 ぬぼうっとソファから離れて突っ立っている僕に気がついた日和が、紘の体の影からひょこっと覗き込むようにして僕を見た。
「ともちゃん、お帰り」
「うん。ただいま」
 ちゃんと僕の存在を気にしてくれる日和は優しい。
 紘と日和の様子が気になって仕方ないけれど、日和がお腹を空かせているだろう、と僕は一人キッチンへ入る。冷蔵庫を開けて何を作るか思案した。中には、これといった材料がない。
 本当なら日和を連れてスーパーへ買い物に行きたいところだけれど、紘を連れて三人となるとなんだか面倒なことになりそうで諦めた。紘のことだから、あれもこれもと買い物カゴに材料を入れかねない。余計な物まで買わされるのは目に見えていた。
 例えば、紘専用のビールとか。紘専用のお菓子とか。紘専用のアイスクリームとか。
 なんなら、住み着く勢いで歯ブラシやマグカップなんかも買い揃えてしまうんじゃないだろうか。そんな事になってしまっては、日和との穏やかな毎日がなくなってしまう。いくらのんびりしている僕でもそれだけは避けなくてはいけない、と買い物を諦めて何を作るかまた考える。
「きのこのペペロンチーノにしようよ」
 いつの間にか傍に居た日和が、僕の隣に立って野菜室を覗いていた。
 僕はつい嬉しい悲鳴を上げそうになったけれど、慌てて飲み込んだ。かわりに満面の笑みを作る。すると、そんな僕の顔を遠巻きに見ていた紘が一言洩らした。
「きもっ」
 とても、不躾だ。けれど、否めないかもしれない、と自分のニヤケているだろう顔を想像して言い返すことができない。
 僕の心情を悟ってなのか判らないけれど、日和が紘へと話を振った。
「紘君て、パスタが得意だって言ってたよね?」
 日和が落ち込んでいる僕の横をすり抜け、未だソファに座りまるで自分の家のような態度の紘へ訊く。
「おおっ。得意も得意、大得意だし」
 日和の問いかけに、紘はどっかの芸人さながらに胸を張る。なんなら七三分けにして、ピンク色のベストを着たらどうかと提案したい。
 日和におだてられた紘は鼻歌交じりでソファから腰を上げると、パスタの準備をし始めた。
 そんな紘を尻目に、僕と日和は二人でリビングへ戻りテレビを見る。テーブルには缶チューハイ。僕がグレープフルーツで、日和はマンゴー。マンゴーは、季節限定商品だ。
「飲む?」
 マンゴーの缶を傾け、日和が僕に勧める。僕は一瞬間接キスだ、と躊躇したけれど、子供じゃないんだから、と言い聞かせ口をつけた。マンゴーは甘味がしつこくなくて、すっきりと美味しい。
「美味しいな、これ」
「ね」
 さも、自分がそのマンゴー味を開発したみたいに、日和が自慢げな笑みを作る。けれど、それはちっとも嫌味じゃなくて、寧ろ可愛いくらいだった。きっと、僕の贔屓目から来ているものだろう。間接キスに心の中で若干ニヤついていると、キッチンからはニンニクのいい香りが漂ってきた。そろそろ、出来上がりそうだ。
 僕と日和はテーブルの準備をし、紘が作ったいい香りのパスタを待った。
 三人の前に並べられたきのこのペペロンチーノは、まるでどっかのお店で出てくるみたいな完成度で驚いた。伊達に、大得意と胸を張っていたわけじゃなかったらしい。
「いただきまーす」
 三人声をそろえてフォークを手にする。
「うんめっ」
 紘は自分で作ったパスタにご満悦。日和も、美味しいね、と何度も言いながら食べている。僕も、あんまり美味しくてあっという間に完食してしまった。
「ふぅ、食った食った。マジ、苦しいっ」
 そんなに大量に食べたわけじゃないのに、紘が膨れたお腹をさすっている。
 大袈裟だなぁ、なんて思ったけれど、そういえば会社を出る前になにやら貰ったお菓子をむしゃむしゃと食べ散らかしていた姿を思い出した。紘は、間食が大好きなんだ。けど、太っていないところを見れば、どこかで身体を鍛えているのだろう。
 それにしたって、お菓子を食べた上に更にパスタを食べる紘の気が知れない。僕は半ば呆れ顔になる。
「なんだよ」
 そんな僕の表情に気付いた紘が目を細めて訊いてくる。
「よく食べるなと思って」
「育ち盛りなんだよ」
 とっくに思春期は過ぎているはずなのに、平気でそんな事をいう紘に日和が笑いを零している。そんな日和の笑いに釣られて、つい僕も笑ってしまった。
 満たされたお腹を抱えて、僕たちはテレビゲームを始めた。
 随分前に、紘が面白いから買うべきだ、と僕を大きな電気屋さんへ引き摺るように連れて行き、詐欺し顔負けの口調で購入を決意させた物だ。
 手にコントローラーを持ち、振り回した時に飛んで行かないように手首に紐を通す。
 初めに、紘と日和がボーリング対決。僕は、傍で二人の戦いを観戦していた。面白い、と自分で言うだけのことはあって、紘はそのゲームが上手だった。日和は、本当のボーリングの方が得意なのに、と零し紘に完敗していた。
 今度は、僕と紘の対戦だ。日和の分も頑張って紘を負かしてやるつもりだったけれど、紘の強さは半端ない。次々にストライクを出し、あっという間にスコアを離される。
「紘君、強すぎ」
 日和が感心したように零した。
 それを褒め言葉と取った紘が、また芸人のように胸を張った。やっぱり、ピンク色のベストを着るべきだ。
 紘に完敗したあとは、缶ビールを傾けテレビ観賞にうつった。クイズ番組では、出演者に負けるもんか、とばかりに日和と二人で答を言っていく。紘はこういう知識的なものは不得意だから、あまり言葉を発しない。ただ、時々。へぇ~、とか。ほぉ~、とか。感心したように声をあげるだけ。
 そして日和には、色んなこと知ってるねぇ、と褒め言葉を連発している。
 僕も日和に負けないくらい正解を出しているのに、紘は何も言ってくれない。それが、なんとなく悔しくなった。
「そろそろ、帰るかな」
 深夜に程近くなった頃、終電がなくなるから、と紘がやっと重い腰を上げた。本当は帰りたくない、というのがあからさまに顔に出ている。と言うか、日和を見つめる目に表れている。
 日和と二人でそんな紘を玄関まで送る。
「日和ちゃん。またね」
 紘は日和に向かって片手を上げる。
「うん。またね」
 日和は、小さく手を振り笑顔をみせる。
「またな。紘」
 僕が言うと、おぅ。とあまり気のない返事だ。あからさま過ぎるでしょ、その態度の違い。僕は、苦笑いを零した。
 紘を見送った後にゲームを片付けていると、日和がまた何かを言い掛けた。
「ねぇ、ともちゃん……」
「ん?」
 コントローラーを片手に日和を振り返ると、少しモジモジとしたような、頬を赤らめたような、そんな顔色をしていた。
「どしたの?」
 僕は何の気なしに訊ねる。
「今日、楽しかったね」
 日和は頬を少し染めたまま、瞳を細くして微笑んだ。
「そうだね。紘は、楽しい奴だから、一緒に遊ぶと面白いよな」
「うん。でもね、私……」
「ん?」
「ともちゃんがいるから、だから楽しいよ」
 はっきり言って、嬉しかった。そんな風に言われた事に飛び上がりたいほど嬉しかった。頬を染める日和の顔を見れば、もしかしたら日和は僕の事を好きなんじゃないか、なんて幻想まで抱いてしまうほどに嬉しかった。
「ともちゃん。私、ともちゃんのこと……」
 ゴクリと喉が鳴る。もしかしたら幻想なんかじゃなくて、本当にもしかするかもしれない。
 僕の心音は、ドクドクと機関車のごとく走り出す。その音は、今は北海道でしか走っていないSL並かもしれない。誰かが一生懸命に心臓のスピードを上げるため、スコップでどんどん石炭をくべているんじゃないかって思うほどだ。
 日和の次の言葉を物凄く期待しながら心臓をどくどく走らせていると、いきなりドアチャイムがけたたましく鳴った。その音にビックリしすぎた僕は、スピードを増しすぎた心臓が先走って口から飛び出すんじゃないかと思うほどに驚いた。
 勢いあまって口から飛び出したかも知れない心臓を探すように、床に視線をやりながら左胸に手を当てる。そこから伝わるドクンドクンという音に、まだ心臓が自分の中に納まっている事を確認してほっとした。
 そして、日和からの“もしかしたら”という期待した言葉を、煩いほどのチャイムを鳴らして遮ったのは、さっき帰ったはずの紘だった。
「悪りぃ。スマホ忘れたっ」
 玄関ドアを開けるとバタバタと靴を脱ぎ散らかしたあと、リビングへ遠慮の欠片もなく紘が入って行く。ソファの傍には、確かに紘のスマホが転がっていた。
「あった、あった」
 これがないと生きていけないとばかりにスマホを拾い上げると、今度こそは帰るというように、日和にだけ、じゃあね。と言って紘は帰っていった。
 もう一度紘を見送って部屋に戻ると、日和はいつものようにソファの上で丸くなっていた。テレビでは、悲しいニュースが流れている。
「ねぇ、日和……」
 振り向く日和に、さっきの続きを聞かせて? と言いたかったけれど、僕は何故だか急にその続きを聞くのが怖くなっていた。
 日和の向こうで流れる悲しいニュースに気をとられながら、僕は説明のできない恐怖に口を閉ざす。それがどうしてなのかなんて巧く説明はできないけれど、結局のところ、僕は同じ運命を自分に重ねて勝手に戸惑っていたのだろう。あんなに“大丈夫”と、日和の傍で口にしながら、そんな僕が一番その言葉を怖がっていたのかもしれない。そして、僕が口を開きかけて閉じてしまった事で、日和よりもそれを感じとってしまったのかもしれない。
 だって、僕の目を見つめたまま、日和の瞳が揺れている気がしたから。
 そうして僕はその数日後、突然の高熱に襲われて丸一日寝込んだあと病院へ運ばれた。診断は、今流行りのインフルエンザだった。
 病室を訪ねてきた日和は、ごめんなさい、と涙を流した――――。
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