29.彼の歌はもう要らない

文字数 3,075文字

 僕が後悔の山に埋もれているところへ静かにドアが開き、さっき酒屋の傍へ置き去りにしてきた千葉君が入ってきた。
 千葉君は僕の横をそっと通り過ぎて、手に握られている花束とベッド脇の花瓶に飾られた花とを個室に備え付けられた洗面所で入れ替える。
 何を言うでもなく、淡々とその作業をしている千葉君の背中を僕はぼんやりと眺め、そして、また日和を見つめた。
「どう……して?」
 さっきと同じように、掠れた声が口からでた。実際、干上がったように口の中はカラカラだった。唾を飲みこもうにもそれすらできずに、喉と喉が引っ付いてしまいそうだった。
 花瓶の花を入れ替えた千葉君は、入口傍にあった椅子を出してきて僕に座るよう勧めてくれる。
 勧められるまま、僕は力尽きたように腰掛けた。カタンと、少し古い丸椅子が音を立てた。
「二日前……。お風呂で、手首を……」
 千葉君の少ない説明だけで、僕の脳裏には血まみれで色をなくした日和の顔が鮮明に浮かんできた。
 それを見たくないとぎゅっと目を閉じてみても、真っ赤な血の色も、色を失くした日和の顔も、頭の中から消え去ってはくれなかった。
 日和は、このまま目を覚まさないのだろうか。一人思い悩んで、二度と僕の顔なん見たくもないって血まみれになったのかもしれない。
 ちゃんと日和に向き合って、日和の言葉を聞いてあげなかった僕とは、二度と顔を合わせたくないと思ったのかもしれない。
 だけど、だったら。こんな風に結果を出さないで、僕を罵倒すればよかったんだ。後悔ばっかりしてたって、何にも解決しないと罵ればよかったんだ。
 そんな風に思っても、日和がそんな人間じゃないのは判っている。結局、自分が今目の前にある苦しみから逃れたい言い訳なんだ。
 頭を変える僕に、千葉君がそっと言葉を続けた。
「今は眠ってるだけで、意識は一度戻ってるから大丈夫よ。ただ、本人の生きる気力がね……」
 そうか。だから日和は、捕らえられたみたいにベッドに縛り付けられているんだ。
 真っ白な布団からはみ出ている腕には、白い拘束具がチラリと見えていた。
「日和ちゃん。生きてちゃいけないなんて……言うの。大切な人を失うくらいなら、生きていたくないなんて……」
 千葉君は、そう言うとほろほろと涙を流す。止まらない涙をどうする事もできないと言うように、流れる涙は頬を濡らしていく。
 命を諦めようとする日和に、病院側もこうするしかないということらしい。
「私じゃあ、どうしようもなかったの。大丈夫の言葉は、私じゃあ、日和ちゃんの心の芯までは届かなかったの」
 それは、君に課せられた使命だ、と言うように、千葉君は濡れた目のまま僕の事を見る。その目は、使命を先延ばしにしてきた僕を責めているようにも見えた。
「本当は、言いたかったのよ。日和ちゃんは、君にずっと言いたかったのよ。だけど、怖くて、怖くて、どうしようもなくなったのよ……」
 崩れるように泣き出した千葉君を、僕は傍観者のように表情を失くして見ていた。そんな僕の頭上には、無数のコンクリートブロックがいくつもいくつも振り続ける。
 ぶつかってくるブロックを避ける気力もないまま潰されそうになるのに、僕の身体は一向に無傷で、かすり傷一つ負うことがない。いっその事、グチャグチャに原形も留めないぐらい、潰されてしまいたいのに。
 僕が、怖がったせいだ。
 僕が、続きをちゃんと訊かなかったせいだ。
 僕が、タイミング悪くインフルエンザなんかになったせいだ。
「日和の、せいじゃないのに……」
 呟いた声は、リノリウムの床へと虚しく零れ落ちる。
 零れた言葉をなんとか拾い上げ、僕は立ち上がって日和の傍へ行く。薬で眠り続ける日和の傍に行き、傷ついた手を握った。
 巻かれた包帯も、細い腕に刺さる点滴の針も痛々しい。
 こんな姿にさせてしまった自分は、のうのうと息をして生きているというのに。
「日和……。僕は、臆病な愚か者だね。君が勇気を振り絞って言いかけたっていうのに、僕はその続きを訊ねなかった。わかっていたのに、訊ねなかったんだ……」
 握った日和の手は温かくて、生きている証の音がトクトク体中を駆け巡っていた。
「僕がそんなだから、きっと。もっと、ずっと、怖くなったんだよね……。ごめんね、日和……」
 後悔の山は相変わらず高く高く積みあがるばかりで、僕は少しの成長もない。積み上げた山の天辺で、こんなに僕は後悔しているんだっ! て叫んでも、そんなのは誰に伝わるわけもなかった。
「日和……」
 震える声で日和に呼びかけると、握ったままの手がピクリと反応し、そのあとゆっくりと瞼が持ち上がった。
「とも……ちゃん」
 僕よりもずっとずっと掠れた声で、ぼんやりとした瞳を向け日和が名前を呼んだ。
 それから今の状況を理解した、というように瞳が大きく一瞬見開いたあとにゆらゆらと揺らいだ。
「ごめんな……さい……」
 力なく謝る日和に、僕は力いっぱい首を振った。
 謝るのは、僕の方だ。日和をこんな風にしてしまって、謝らなくちゃいけないのは、僕の方だ。
 ごめんね、日和。
 ごめん……。
「もう……、怖くないよ」
 その言葉は、日和に向けて言いながらも自分自身へ向けていた。
 何も恐がる必要なんかないんだ。
 お母さんの事も、近所のお兄さんの事も、飼っていたペットの事も。日和のせいなんかじゃないのだから。
「大丈夫だよ。日和が怖いなら、僕から言う。そしたら、日和も僕に言って」
 諭すように、ゆっくりと日和にそう伝える。
「ともちゃん……」
 不安な瞳を隠そうともせずに、日和が僕を見つめる。その瞳を見返したまま、僕は口の形だけで“大丈夫”を言った。
 少し息を吸い、ずっと伝えたかった言葉を口にする。
「日和、大好きだよ。僕は、日和のことが、とてもとても大好きだよ」
 握った日和の手が震えだす。怖さに顔を歪めながらイヤイヤと首を振り、手を振り解こうとする。
 僕は、放れようとする日和のその手を、必死で握り繋ぎとめた。
「私……。だって……私……。ともちゃんが、いなくなっちゃうよ。イヤッ……」
「大丈夫。僕は、大丈夫だよ。いなくなったりしない。絶対に日和の前から消えたりしない。だから日和も言ってよ。僕に言ってよ」
 怖くないから。少しも、怖いことなんてないから。
 僕は日和の瞳をやさしく見つめ、その言葉を根気強く待った。
 日和は口元を歪めて、本当に大丈夫なのか。本当に僕がいなくなったりしないのか。そう訊ねるように目を見つめてくる。
 僕は辛抱強く日和の手を握り、日和の言葉を待った。
 たっぷりと時間を置いた後、漸く日和が呟いた。
「ずっと、言いたかったの……」
「うん」
 話し始めた日和の口元は僅かに震えていて、まだ恐怖を拭い去れていない。それでも、僕は続きを促すように握り締めた手に力を加える。
 そうする事で、日和の勇気にも力が湧くんじゃないかと思ったんだ。
 僕の力が日和の勇気に変る。
「本当は、ずっとずっと言いたかったの……」
 震える声と共に、瞳が愛しさを映し出す。
「ともちゃん……、大好き」
 やっと言えた愛の言葉はとてもたどたどしくて、まるで小学生のような愛の告白になった。
 けれど、その言葉を言えた日和の表情はとても清々しく素敵で、その顔を見られた僕は世界一幸せな男だと思ったんだ。

 ねぇ、日和。
 君はもう、彼の歌を歌うことはない――――。
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