3.訊ねられない

文字数 2,501文字

 翌日は、雨だった。しとしとと言うよりもザーザーで、しかも冬の初めの冷たい雨だ。途中で買った透明なビニール傘はいつ見ても素っ気無く、ただ単に体が濡れるのを防いでくれているというだけの代物。それを畳んで水を切り、渡り廊下に面した窓の格子にぶら下げた。
「ただいまー」
 すっかりびしょ濡れになった革靴を玄関で脱ぎ、いつものように脱ぎ散らかされた日和のスニーカーを整える。リビングの灯りを確認してから、奥に居るだろう日和に声を掛けた。僕は、濡れてしまった鞄を抱えてリビングへ急ぐ。早く湿ったスーツを脱いでさっぱりしたい。
「お帰り」
 リビングへ入ると、チラリとだけこっちを向いた日和がお気に入りのソファで今日も丸くなっている。まるで猫みたいだ。
「雨、スゲーのな」
 ビニール傘だけでは防ぎきれなかった雨粒が、スーツの膝から下をいいように汚してくれていた。僕はその場でズボンを脱ぎ捨て、真っ直ぐバスルームへ向かう。シャワーを浴びてすっきりとした顔でリビングへ戻ると、グチョグチョのズボンはまだそのまま床の上でグッタリとしていた。
 それを拾い上げて、明日クリーニングに出さなきゃ。なんて思いながら脱衣カゴに放り込んだ。リビングでは、日和がまだ小さく丸まったままだった。
「日和、傘持って行ってたの?」
 この雨は、突然降り出した。昼くらいまでは、綺麗な青空をいっぱいに広げていたのに、どこの誰に機嫌を損ねられたのか、夕方からは怒ったように強い雨粒をアスファルトに叩きつけていた。
「ともちゃんは?」
 相変わらず僕の問いには応えず、こっちに質問してくる。
「会社の近くにあるコンビニで、ビニール傘買った」
 仕事が終わって同僚と一緒に外へ出た瞬間。雨の凄さに、みんながいっせいに溜息をつき、そしていっせいにコンビニへと猛ダッシュした。あのコンビニは、きっと今頃ビニール傘が売り切れになっているだろう。
 タオルで頭をガシガシと拭き、ビール片手に床に胡坐をかく。
「ビニール傘ってさー、素っ気無いよな。まぁ、安さが売りだろうから、色々柄が付いていたりするのも割が合わないんだろうけど」
 疲れを誤魔化すように、ゴクリゴクリとビールを煽る。
 最初の一口目がたまらないんだよな。くうぅ~。
 ビールの旨さに顔を渋くさせて、普段からそう思っていたわけでもない事を、つらつらと然もありなんというように話す僕を、日和は特に何と言うでもない。
 何も言わない日和に向かって、僕は僕の思っていることを淡々と話して聞かせた。今日の怒ったような雨があんまり憎らしくて、気が滅入った時に素っ気無い透明なビニール傘が、もう少し元気付けるような色合いや模様だったら、ちょっとは心も救われたのにと。
 日和は相変わらず聞いているのかいないのか、ソファの上でモゾモゾと一度動いただけ。一応、生存確認はできる。
「メシ、食った?」
 僕は、ビールを飲みながら訊ねる。
 日和は丸くなったまま、何かごにょごにょと小さい声で少し言ってたけど、何を言ったのかはよく解らない。けど、このパターンは、何も食べていないなと解る。どうしてかと訊かれても、長年の付き合いだから解るんだ。
 そんな日和を放って置けば、多分何も食べないままいるのが目に見えて、僕は残ったビールを一気に煽りキッチンへ行った。
 覗いた冷蔵庫の中身はしょぼく、満足した物を作れそうにない。この雨で面倒になってスーパーに寄らずに来たのは失敗だった。
「どうすっかなぁ」
 何か買いに行くにしても、恨めしいくらいに降る雨のせいでもう一度出かける気にはならない。
 僕が考えあぐねていると、いつの間にか傍に来ていた日和が棚の中にあった食パンを引っ張り出してきた。それから、冷蔵庫を空けて卵を四つ取り出し、僕の顔を窺うように見る。
「そっか」
 レタスが少しだけ残ってるし、タマゴサンドだ。僕は鍋に水を張り、卵を入れて火にかけた。
 日和は、タマゴサンドが大好きだ。というより、卵のディップが好きみたいだ。
 前にディップだけを大量に作って、それをまるでデザートみたいにスプーンで食べていた事があった。
 コレステロール上がるよ、って言ったら。口角を少しだけ上げて、あとひと口だけ、と呟き三口食べて僕の顔色を窺ってから食べるのをやめていた。きっと、本当はもう一口くらい食べたかったはずだ。
 卵をゆでて、僕は日和と一緒にディップを作った。途中、スプーンで味見といってたくさん食べようとしたから、ダメだ、って言ったらケチって言われた。
 だけど、ここで許すとパンに挟む分がなくなるのは明らかだからしかたない。
 食パンの耳はそのままに、マーガリンを塗りレタスとディップを挟む。できたタマゴサンドを皿に置くと、ピクニックへ行きたいと日和が言い出した。
 そんな無茶な。
 気持ちは解らないでもないが外は相変わらずの土砂降りだし、メチャクチャ寒い。仮に雨が上がったとしてもこんな秋も終わりの寒い夜にピクニックをしている人も居ないだろうし、芝生だって濡れてグチャグチャだろう。なんなら、警邏しているおまわりさんに職務質問されたって不思議じゃない。
 日和のピクニック願望をなんとか宥めすかし、お笑い番組に頬を緩めながら、淹れたてのコーヒーをすすり、二人でタマゴサンドを腹に納めていった。
 僕が四切れ、日和は一切れ食べた。きっと僕の目を盗んで、あとでディップだけを食べる気だろう。
残ったサンドイッチは、ラップをかけて冷蔵庫に入れておく。
「ねぇ、ともちゃん……」
 お腹が満たされたあとにダラダラとしていたら、今日も日和は何かを言い掛ける。じっと僕の目を見て、苦しそうな顔をする。
 僕は、辛抱強く日和がしゃべりだすのを待ったのだけれど、結局、やっぱり日和は続きを話そうとしない。
 何?
 そう一言、訊けばいいだけなのかも知れない。なのに僕は、それをしない。
 どうしてだろう。そんな風に他人事みたいに心の中で呟いてみても、理由には背を向ける。
 僕には、それができないから――――。
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