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文字数 2,523文字

 エメラルドに誘われて、屋敷の庭園に向かう。
 勝手に見て回って良いものだろうかと一瞬気になったものの、ずっと室内にいるような母では無いのもわかっていたらかついていくことにした。怒られる時には一緒に怒られれば良いと思うが、アミルやセバスがこんなことで気分を害するようには思えない。
 クリアは出ていく二人を何も言わずに見送って、今は昨日彼が泊まった部屋の中にいる。
 よく手入れされているのが見るからにわかる植木の並ぶ道を進みながら、エメラルドが話し始めた。
「母様はもうすぐ皇国に戻るし、その後は七年過ぎないと普通に会えなくなってしまうけれど、ずーっとお話出来なくなるわけじゃないからあんまり悲観はしないようにね」
「…………はい。私の方は大丈夫です。一人じゃないから。むしろお母様の方が」
「あら? 私の心配をするなんて大きくなったものねぇ」
 前を歩くエメラルドが顔だけ振り返って笑うけれど、それを杞憂と思えないのはサファイアに幼い日の記憶が残っているからだ。
 死に瀕した母の姿は幼心に消えない傷として残っている。結局こうして元気になっているのだとしても、あの場所で死にかけた時に母の味方をして助けられる人がクリア以外にいないことを知っている。そのクリアが自分と一緒にここに残る限り、皇国でのエメラルドは孤独だ。父がいるとしても、それが抑止力としてはあまり効果がないことは過去に証明されてしまったから。
 だから本当はエメラルドを独りにしたくない。
 かといってじゃあ自分が戻れるかと言えば、不本意な婚姻が待っていると知っている限りそうもいかない。
「せめてクリアと一緒に」
「貴方ねぇ。年頃の無垢な娘を同じ歳の男の家で保護者もつけずに置くなんて、あの王子だけじゃなくお父様まで発狂して貴方を探し出そうとしちゃうから駄目よ?」
 想像したのかふふふっと笑ってエメラルドがまた前を向く。
「貴方の心配はわかってるわ。私だってその辺はちゃんと対策を立てるから、貴方は貴方自身の不安をちゃんと見なさい」
 植木の並ぶ道を抜けると、花と思われる苗が植えられた空間が広がる。季節が違うためか花が咲いているわけではなかったものの、それすら計算に入ってるのか若葉を広げる苗が並んでいる様だけでも、見るからに整っていてとても綺麗に見えた。
 その前に立ってエメラルドが振り返る。
「これから七年ここで暮らすこと。その七年が過ぎたら王女ではなくなること。本当に、構わないのね?」
 いつになく真剣な目をして確認してくる母の姿に、サファイアも立ち止まって返事をすべく考える。
 ずっと当たり前に王女として生きてきた。この先もなんとなくそうなのだろうと思ってきたから、こうして国から逃げてきた今であっても王女でなくなる自分というものを想像するのは難しい。生まれた時からずっと自分を証明する一つの名称だった王女という札が無くなった後、どうなるのかはこの時点でわからない。
 だから怖い気持ちはある。
 でも。
『王女様ってのがどうあるべきとか知らないけど、人間としちゃ間違ってないから、問題ないと思う』
 昨日のアミルの言葉が脳裏に蘇った。
 彼はサファイアが王女であると分かっているのに、そこに囚われず最初から彼女を一個の人間として考えてくれている。この世の多くの人間は王族なんて立場もなく全員が一個の人間で、王女でなくなるとしても一個の人間ということが変わらないのであれば、それは本当に恐ろしいものではないのだろうと思える。
 クリアやアミルと同じようになるだけだ。なら、それは本当の意味で怖いことじゃない。
 そして、王女で無くなっても変わらない部分を見てくれる人がいるなら、未来に怯える必要は無いのだろうとも。
「王女で無くなっても、私は母様の娘ですよね?」
「勿論よ。仮にそこに問題があるなら、私が王妃を辞めてくるわ。お父様はちょっと難しいかもだけど、あの人だって貴方の父親であることをやめる気は無いと思うわよ」
「なら、私は王女でなくなっても構いません」
 母の返事に笑って答えれば、エメラルドも笑って頷いてくれる。
「わかったわ。後、ここで七年暮らす方は?」
 改めて再度問いかけられた言葉には考えるまでもなく頷いていた。その答えは昨日の夜にもう出ていたから。
「あのね母様。昨日の夜に、アミルさんにも同じことを訊かれたの」
「その時は何て答えたの?」
 興味深そうに尋ねてくるエメラルドに、サファイアは首を横に振って苦笑する。
「その時はね、なんだかんだあって他の話になっちゃって、返事は出来てないの。でもね、答えは変わらない」
 この世の誰よりも自分を守ってくれた母と同じように自分を見守ってくれるクリアがいて、誰より自分を案じてくれた母と同じように自分を心配をしてくれるアミルがいて、それでも嫌だと思えるほど彼女はもう幼い子どもじゃなかった。
 他の場所だったらどうかはわからない。
 でもこの場所で七年と思った時、来る前に抱えていた不安はもう感じない。
「此処だったら、きっと大丈夫」
 七年という短くない時間も、母や父と会えない寂しさも、きっと乗り越えられる。
 もしも寂しさで苦しくなる日があっても、そっと手を伸ばしたら握ってくれそうな人たちがいるから。
 真っ直ぐにエメラルドを見て返事をした彼女に、緑の目を少しだけ細めてエメラルドは小さく嘆息する。
「子どもってのは本当、いつの間にか育ってるものなのねぇ」
 嬉しそうな、けれど寂しそうな複雑な顔を見せていたのは一瞬のことで、すぐにいつもの表情に戻るとサファイアに向かってちょいちょいっと手招きをした。素直に近づいた娘をやんわりと抱きしめ、エメラルドは髪を撫でる。
「何かあったら、何時でも言うのよ?」
「お手紙とか出せるの?」
「いえ。せっかく此処には魔術士が三人もいるんだもの。そんな手間のかかる方法よりもっといい方法を用意しとくわ」
 楽しげに言いながらも、中々離れようとしない。
 久々に母から抱きしめられた感触を胸に刻みながら、サファイアもエメラルドの背中にそっと手を伸ばした。最近抱きついていなかった母の背中は思い出にあるものよりも小さくて、それが何だか少し切なかった。
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